恋愛は惚れたもん負け、とよく言うがその通りだ。でなければ「今夜、飯食いに行く」とだけ言い残していった男のために甲斐甲斐しく料理を作って待ったりなんかしない。何度か目をやった壁掛け時計をもう一度確認しても針は大して進んでいない。食いに行くって、一体何時の話だばかパウリー。
 我慢できずに開けてしまった缶チューハイとクラッカーで空腹を紛らわしているとゴンゴンと扉の叩かれる音。ノックというのは不思議なもので、全く同じ音がするのに扉の向こう側にいるのが男なのか女なのかなんとなく分かってしまう。こんな粗暴な音をたてるのなんて私の知り合いじゃ一人しかいない。ばか、とか思ってたくせに愛しい男の帰りにうっかり頬が緩むのだから恋というのは厄介だ。

「っ――すまん!!」
「時間くらい知らせてよね、パウリー」
「こんな遅くなるとは――いや、言い訳だこんなんっ……本当にすまねェ」
「ふふっ、心の中でばーかって悪態ついてたとこ」

 こんなに近くで顔を合わすのは数週間振りだった。ガレーラの副社長に就任してからというものの彼の忙しさは今までの比じゃない。仕方のないことだけど、このくらいの意地悪言っても許されるだろう。
 しゅんと反省していたパウリーは面白がる私と奥の食卓を交互に見たあと「……もう一回、先に謝っとく」とだけ口にし、素早く私の背中に手を這わせてきた。大きな手が乱暴に肩甲骨のあたりを撫ぜ、ごつごつした指が背筋をなぞっていく。
 どうしたの?なんて質問が浮かぶよりも早く唇に食いつかれてはもうどうすることもできない。驚きはもちろんあったが、好きな男に求められるというのはいつだって気持ちを昂らせる。彼の胸を押し返すため反射的に置いた手のひらに力なんてこれっぽっちも入らず、ただただ激しすぎる愛を受け止めるのに一生懸命になってしまう。絡み合う舌に頭の中がどろどろになった。離れた唇と唇を繋ぐ銀糸に頬が熱くなり脚の力は抜け、荒い呼吸をする彼にぼうっと見惚れる。

「ん、パウリー。……すき」
「……バッカ、やめろお前……こんなタイミングで」
「えぇ? 玄関先でいきなり熱烈ちゅーしてきた男の言う台詞〜?」

 私の言葉にやっといつもの調子を取り戻したのか恥ずかしそうに視線を逸らし「っ〜だから謝ったろ!」なんて吐き捨てるように言われた。私の男はどうしてこう可愛いのか。
 靴を脱ぎ、鬱陶しそうにネクタイを外すパウリーはいつもの椅子に腰かけ何か言いたげに私の方に視線を送ってくる。
 分かりやすいこの人の思考はいつだって大体読めるが、今日ばかりは彼が何を考えてるのか分からない。恥ずかしがり屋で手を握ってくるのも時間がかかった彼が、今日は会ってすぐキスをしてきたのだ。それもあんな……情事を思い出させるような。
 それだけ仕事で疲弊し癒しを求めていたのだろうか、それとも欲求が溜まっていたのか。どちらにしろ彼女としては嬉しいことだが。
 作った料理を温め直しながら小さな鼻歌を歌ってると、後ろから「あのよ」と声をかけられる。

「なに?」
「その……おれに文句とかねェのか」
「は?」
「ここ最近、時間とれてねェから」
「……言ってほしいの?」
「いやっ、そうじゃねェよ! ただ、あんまりにも言われねェと……何つーかよ」

 口をもごもごさせるパウリーは頭をがしがし掻いたり口許を抑えたりと終始落ち着きがない。これは、仕事中誰かに余計なことを言われたに違いない。過去の経験上容易に想像がついた。
 記念日を勘違いしていた日もそうだった。私より周りにいろいろ言われた結果、この世の終わりのような顔で土下座されたのだ。あれはいま思い出しても笑える。生憎そういったことに関心のなかった私は「さいて〜」とふざけて言った程度だというのに、きっと当人は今でも気にしているに違いない。……だいたい、私がそういうことを気にするような女ならパウリーとは付き合っていないだろう。
 そう、今気まずそうに食卓についてるスーツ姿の男はあの時と似たような顔をしている。ここ最近放ったらかしにされていた私を思って、アイスバーグさんを始めガレーラのみんなが何か言ったに違いない。それで会って早々あんなキスで繋ぎ止めようとするだなんて、実にパウリーらしい。うっかりときめいてしまったではないか。

「言われないとなに? 他に男でもいるんじゃないかって? 愛想つかされてるって不安になった?」
「そうは言ってねェけど……。まァ、なんだ。……会いてェのは、おればっかかと……」

 もう一度言おう。私の男はどうしてこう可愛いのか。二十も後半に突入した、ギャンブル好きのどうしようもない男が顔を真っ赤にさせて何を言い出す。あまりの衝撃に二人分のお皿を落とすところだ。

「そりゃ会いたいけど……あなたの仕事の邪魔したくないもの。好きな仕事をしてるパウリーが一番好き。いちいち駄々をこねる面倒な女にはなりたくない」

 ニコリと笑って座ってるパウリーの目元に唇を落とすと緊張の糸が切れたのか深く長いため息が聞こえた。

「惚れた女の我儘くらい聞けないでどうする」
「えー、なにそれかっこいい。じゃあ〜、今夜はずっとそばにいてほしい」
「……最初からそのつもりだ」
「ふふっ、ならもうそれだけで嬉しい。安心した?」
「あァ……腹が減ってきた」
「まって、いま準備するか――ッ」

 勢いよく立ち上がったパウリーに横抱きにされたと思えば、がぶり、なんて効果音がつきそうな口付けに息が止まる。なんのケアもされてない少しかさついた唇が首を這っていき、器用に襟元をずらしていく。鎖骨に顔を埋められたと思えばちくりと小さく甘い痛み。やっと消えたと思ったのに、どうやらまた同じ場所に痕をつけられてしまったようだ。
 付き合う前は破廉恥だなんだと露出を許さなかったくせに、こういう関係になってからは案外すぐに雄の本性を見せるのだからまいってしまう。パウリーをドキドキさせるのは私の楽しみだったのに、ベッドの上で彼より優位にたったことは一度だってない。

「これじゃあ私を食べにきたみたい。パウリーのえっち」
「……そうだな」

 最後の弱々しい反抗だった。それにしては嬉しさで随分楽しげな声色になってしまったけど、彼の赤面を期待していたのは本当だ。
 だというのに、パウリーの瞳は今宵の月が反射しているかのように蒼くギラついていて私の心臓を鷲掴みにする。うっすら頬が赤くなっている気がしないでもないが、そんなの私が指摘できたことじゃないだろう。こんなに顔に熱が集まるのは久しぶり――そう、前回彼に抱かれたとき以来だ。
 洗ったばかりのベッドシーツからは柔軟剤の香りがふわりと漂う。「いい匂いすんな」ともう一度首元に顔を埋め私の上に覆いかぶさってきたパウリーに「パウリーはねぇ……パウリーの匂いがする」と伝えればと眉間に皴を寄せた彼がこちらを見上げてきた。

「臭ェってことか」
「そんなこと言ってないよ。働いてきた男の匂いって感じ」
「それ臭ェって意味じゃねーか」
「えー? でも、私この匂い好き」

 香水をつけない彼の香りは葉巻と――確かに、汗のにおいがしないと言えば嘘になる。でも不思議と不快感はない。「お仕事おつかれさま」と囁き、日中ゴーグルで隠れている額にキスを落とす。金色の髪の毛を毛流れに逆らわず撫でてやると同じように髪を撫でられた。
 静寂のなかキスをして、笑い合って、互いの愛をゆっくり確かめ合う。そんなじゃれ合いを続けること数分間、上に乗っかる重みがぐっと増した気がして「ん?」なんて声がでた。
 ――まさかと思い首元にあった頭をぱしぱし叩いてみても反応はない。あァ、もうほんと。面白過ぎて笑えてしまう。

「ばぁか」

 小さな寝息をたてる副社長さまについた悪態が思ってた以上に優しく自分の甘さに失笑する。そう、惚れたもん負けなのだ。きっと私と同じことをパウリーも思ってるに違いないが、これだけは譲れない。私の方が深く彼を愛してる。
 重たい体を一生懸命押し返しやっとの思いで腕の中から抜け出す。余程お疲れだったに違いない。拍子抜けしてしまったが結果的に今夜はこれでよかった。あんな野獣のような目をしたパウリーに組み敷かれ体を貪られては私がどうにかなってしまう。
 それに、明日の朝の楽しみが増えた。きっと目を冷ましたら顔を真っ青にさせ大慌てで謝罪してくるに違いない。そんな彼にどんな意地悪を言ってやろうか考えるだけでわくわく、にやにやしてしまう。とりあえず「スーツのまま寝る男は嫌い」と注意をしておこう。
 そしてそのあとは今夜食べるはずだったクリームシチューを二人で食べるのだ。確か朝は冷える予報だったから都合がいい。そしてそうだな、そのあとは――今度は私の方からいってらっしゃいの熱いキスをしてあげよう。仕事なんてどうでもよくなるくらいの愛をたっぷり浴びせ、問答無用で部屋から追い出してやる。
 そうしたら彼はどんな顔をするだろう。耳まで真っ赤にさせて「今夜も来る!」なんて、言ってくれたらいいのにな。



BACK