はじめて人を殺した日、かみさまに出逢った。

 咄嗟に手にとった誰のか分からない拳銃は重く、片手で狙いを定めるのは不可能だった。確認している暇はない。鉛玉は多分、きっと、おそらく、入っているはずだ。
 真夜中。逃げ惑う人々の悲鳴はどんどん消えてゆき、血の匂いと街全体に広がる煙で息が詰まる。恐怖はない。けれど最期に見るのがこんな光景かと思うと不愉快でつい顔が歪んだ。
 私の上に跨り下品な笑みを浮かべる海賊の顔に銃口を向けるとそいつは「クソ生意気な女が」と悪態をついて私の腹に強烈な一発を食らわせてきた。呼吸がうまく入っていかずゲホゲホと咽る。今更生にしがみつく気などないが、こんな汚い男にいいようにされた後殺されるのだけはまっぴらごめんだ。
 こうなったら目の前で自害でもしてやろうかともう一度拳銃を握りしめた瞬間、目の前の下品な海賊は急に縮み上がり小さな悲鳴をあげ体を凍らせた。その予想外の出来事に呆けている余裕などなく考えるより先に体が動く。そう、気がついたら私の指はしっかりと引き金を引き、目の前の人間を撃ち抜いていたのだ。
 ありがたいことに鉛玉はしっかり入っていた。ダンっという派手な音と共に伝わる衝撃は予想以上で、手どころか腕、肩までビリビリと痺れている。暫く力が入らないだろう。額から流れ落ちるどろりとした生温い感覚に再度顔が歪んだ。あァ、気持ち悪い。

「正当防衛でも……罪悪感がなければ地獄に行くのかな」

 勢いよく吹っ飛んだ海賊は地面に倒れびくびくと痙攣を起こしている。生憎即死させる技術なんて持ち合わせておらず、綺麗に殺すことはできなかった。私は女神でもなんでもないが、こいつに殺されたであろう周りの人間の恨みを背負うかのように"せいぜい苦しんで死んでくれ"と祈る。その顔と同じ醜い最期に同情の余地はなかった。
 海賊の体に開いた穴からどくどく湧き出る濃い赤が地面を濡らしていくのをぼうっと眺めながら、地獄でもなんでもいいから私はもう少し綺麗に死にたいなァなどと自分の人生の終止符について考える。
 ――かみさまに出逢ったのはそんな時だった。

「死体がそんなに珍しいか」

 突如降ってきた低い声。声のした方へゆっくり顔を向けると、背が高いの一言では片づけられないほど長身の男が立っていた。微かに甘い葉巻の香りを漂わせる、漆黒のロングコートを肩にかけたその男は「なァ? お嬢さん」と口端を上げ再度私に問いかける。
 言葉を忘れてしまったかのような不思議な感覚に陥った私は、数回口をぱくぱくさせながら男の顔を見つめる。胸の奥からじんわりと溢れる熱に戸惑った。

「……、自分で殺した人間を見るのは……初めてだったから……」

 私の返答に微かに笑みを浮かべた男は燃え盛る街を見渡しながら「とんだ無駄足だ」と一人ぼやいた。
 何かの用事でこの島を訪れたのだろうが、とても一般人には見えない。一般人は左手に大きな鉤爪などつけていないし、顔の真ん中に大きな縫い痕もないはずだ。それに、一般人とは思えないくらい人相も悪い。
 高級な衣服を身に纏った物騒な男だと理解はしているのに、私はこの男から目が離せない。なぜなら、初めて見た瞬間からなんて綺麗な人なんだと心を奪われていたからだ。

「助けてくれて……ありがとうございました」
「ショックで頭でもおかしくなったか? そいつを殺したのはお嬢さんだ」
「いいえ。こいつが怯んだ一瞬の隙をついただけです。その隙ができたのは……貴方が私の後ろにいたからでしょう?」

 ぴくりと男の眉が動く。どうやら当たりだったらしい。この街に滞在していた海兵を皆殺しにしてしまう程度には強かった海賊が顔を見ただけで縮み上がったのだ。この男、ただものではないはず。
 こんなところにもう用はない。今にもそんな台詞を吐いて捨てそうな顔で街を背にした男。私はその男の後ろをとことこついて歩いていく。
 さっきまで血と埃と煙の匂いで吐き気がしていたが、この男の後ろを歩いてるとそれらが全て洗い流されたような気分になる。葉巻とコロンが混ざったような、どこか安心する香り。
 置いていかれないよう早足でついていけば、急停止した男の腰に顔が激突した。真っ黒なコートにはさきほど浴びた返り血がつき、しまったと口許をおさえたがバレていないだろうか。

「なんの用だ」
「貴方のせいでもう少し生きたいなと欲が出ました」
「そいつァよかったな。さっさとパパとママのとこに帰んな」
「もう死んでます。それに、そんな子供じゃありません」

 今日死んだわけではないうえ両親の顔など覚えてもいないが、そんな説明いまは不要である。
 とにかく私に頼る人間などいない。そんな私を気まぐれでも救ってくれたこの男はきっととても優しい人で、私はそんな彼に心を奪われた。ついていく理由などそれだけでいいじゃないか。
 簡潔に、分かりやすくそう説明すれば目の前の男の眉間にはどんどん皴が寄り「随分勝手なことを言うじゃねェか」と唸るような低音が辺りに響いた。男は「おれがいい人にでも見えたか?」などと悪い笑みを浮かべ私を怯ませようとしていたが、綺麗な瞳にただただ見惚れてしまう。

「いい人には見えません。むしろ、顔つきだけでいうなら悪党ですね」

 人に言われると腹が立つのか、どんどん不機嫌な表情になっていくこの男はどうやら素直な人間らしい。ますます気になる。
 なかなか怯えた様子を見せないのが気に食わないのか、男は鉤爪で私の腰を乱暴に掴み引き寄せると地を這うかのような声で「このまま殺されても文句は言えねェぞ?」と囁いた。さきほどまで己の人生の終止符をどう打つか真剣に悩んでいた女にそのような脅し、通用するわけがない。むしろ――。

「貴方になら殺されてもいい。本望です」

 遠くの方で大きな爆発音がし、ぶわりと熱風が吹く。もうじきこの辺りも火の海になるだろう。
 じっと男を見据え目を瞑る。脇腹に当たっている鋭い黄金の爪で肉を裂かれてしまうのだろうか。どんな最期でも文句はないが、可能ならば痛くない殺し方をしてほしい。美しいと思った男の前で醜い顔のまま死にたくはない。
 興奮なのか恐怖なのか分からない胸の高鳴りを悟られないよう、次の言動を大人しく待っていると大きな舌打ちが聞こえてきた。あァ、やっぱりなんて優しい人。

「女。お前はなにができる」
「えっと……炊事洗濯掃除、事務仕事に夜のお相手……あ、あと銃も追加で」
「あんなので習得した気でいるのか。めでたいやつだ」
「初めて撃った弾で人を殺したんですから、筋はいいはずです」

 貴方が望むのなら使いこなしてみせます。そう答えれば、男はフンと鼻を鳴らしてさっさと港へ向かう。それを追いかけながら自分のできることを必死にアピールすれば「随分喧しい女を拾ったな」と心底鬱陶しそうに言われた。
 その言葉が合格を示しているのだと気がつき笑顔が隠せない。ここ数年で一番嬉しい出来事かもしれない。

「コート代は働いて返せ。この薄汚ェ血はすぐには落ちねェ」
「あっ、バレちゃってました?」
「それだけ顔に返り血を浴びておいて、気がつかねェとでも?」

 男の船に乗り込む際、当然のように手を差し伸べられくすぐったい気持ちになる。初めて触れた男の手は大きく少しかさついてあたたかい。
 自分で連れて行ってくれとせがんでおいてなんだが、こんな血まみれで埃まみれの意味不明な女のどこに価値を感じてくれたのか。金持ちの道楽だろうか。
 どんどん離れていく燃え盛る街をぼうっと眺めながらそんなことを考えていると、まるで私の思考を読んだかのように「使用人が使えなくてな。代わりを探してた」と新しい葉巻に火をつける男。なるほど。確かにこの経緯で私を使用人にすれば雇うための費用は必要ない。彼にとっても好都合だったということなのか。

「運がよかったな」
「運と勘だけで生きてきましたから。――そうなると、旦那様とご主人様。どっちがいいですか?」
「……なんの話だ」
「雇い主のことを呼ぶにはそのどちらかかと」

 男はまた不服そうに眉間の皴を増やし、葉巻の煙を吐き出したあと自身の名を私に教えてくれた。
 サー・クロコダイル。それがかみさまの名前。丁寧に、なぞるようにその名を呼び反復練習をしていると、今度は反対に私の名を尋ねられた。それなりに興味を持ってくれているのだろうか。どくんと鼓動が大きく鳴る。

「貴方がつけてください」
「……どういう意味だ」
「元の名前は忘れました。ずっと使ってた偽名に未練はありませんし、今日から貴方の使用人なら新しい名前は貴方につけてほしい」

 想像していなかった返答だったのか、サー・クロコダイルは私を数秒見て固まる。そんな表情もするだなんて、案外かわいい人だ。
 黙っているのをいいことに「名前をつけると愛着が湧くでしょ?」なんて冗談のように言えば、彼はクハハと小さく笑い「まァいい。考えておこう」と口にし船内へ戻っていく。どうやら少しは気に入ってもらえたようで胸を撫で下ろす。これで海に投げ捨てられる心配はしなくていいと、ポケットに閉まったままだった銃を海へ投げ捨てた。


 ――ちゃぽん、という音で意識が覚醒した。青い湯舟に沈みそうになるのを引き戻してくれたのは真後ろにいたサー。「ありがとうございます」とへらりと笑うとやはり眉間に皴を寄せてるサーが濡れた前髪をかきあげながら文句を垂れる。

「人の胸を背もたれに居眠りとは、いい度胸だ」
「今月の激務を乗り切ったんですから見逃してくださいよ。それに、サーと湯舟に浸かってると安心感がすごくて」
「相変わらず危機感のないお嬢さんだ。襲われても文句は言えねェぞ」

 無理やり顔を振り向かされいつでも口付けできてしまう距離まで近づいたとき、夢の中の映像がフラッシュバックする。
 もう随分昔、私とサーが初めて出会った日。あのときも似たようなことを言われたっけと口許の筋肉が緩んだ。殺されるのも襲われるのも、相手が貴方なら私は嬉しい。

「なにを笑ってる」
「いえ。かみさまに会った日のことを思い出しちゃいまして」
「ハッ……神の存在を信じてるとは。初耳だ」
「あれ? 言ってませんでしたっけ?」

 ぐるりと体を反転させ、サーの太い首に自身の腕を回す。肌と肌をぴたりと合わせれば、サーの規則正しい鼓動の音が体内に流れ込んでくる。なんて幸せな時間なのだろう。
 一見変わってないように見える表情だが、すっかり長い付き合いになった私ならこの状況を彼も喜んでくれているということが分かる。本人は決して認めてくれないだろうけど。
 なんの話だ、とでも言いたげなサーの両頬に手を添えゆっくり唇を重ねたあと「私のたった一人のかみさまは、あの日から決まってます」と真っ直ぐ伝えると、ちゃぽんと雫の落ちる音が浴室内に響く。目を細めて私のことを見ていたサーは心底面白いものを見たかのようにクハハと笑い、自身の濡れた大きな手で私の頭をゆっくり撫でてくれた。

「随分と悪ィ神様に拾われたもんだな」
「確かに。こんな強面だとは思ってなかったです」
「相変わらず口の減らねェ女だ」

 彼が本物の悪人だったと知ったのは、元々雇っていた使用人の男を目の前で容赦なく殺したとき。この屋敷で働きながらこっそり金品をくすねていた使用人の男は、私が初めてここへ来た日呆気なく干からびて死んだ。道理で使えないと嘆いていたのかと納得してしまったが、人の命を奪うのにこうも躊躇いがないとはと驚いたのも正直なところ。
 バスタブの縁に乗せられた大きな手にそっと自身の手を添えれば、ゆっくりとした動作で指を絡め握りしめられる。どれだけ人を殺めていようと、どれだけ残忍な人であろうと、私がこの手を離すことはないし――多分、きっと、おそらく、彼も離す気はないのだろう。でなければ私の名を呼ぶこの低い声は、浴室内でこんなに甘く響かないはずだ。

「愛着、湧いてくれました?」
「どうだかな」
「ふふっ。サーは素直ですね」
「……少し静かにしようか。お嬢さん」

 握られていた手を引かれ無理やり口を塞がれる。頬にへばりついていた濡れた髪を直す鉤爪はあたたかく優しい。
 もう一度サーの首に腕を回し抱き着けば、与えられた名を何度も耳元で囁かれ嬉しさで身震いした。こうされることに弱いと知っているサーは粟立った私の肌を確認し満足気に笑う。

「意地悪ですね」
「悪ィ神だと言ったはずだ」
「知ってます。でも――愛してます」

 あの晩出逢った私のかみさま。サー・クロコダイルに与えられた名は唯一無二の存在証明であり、どんな宝石よりも美しい形のない宝物だ。

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