壁に顔を押しつけられて窒息死しそうになる夢を見た。そのせいで脳は一気に覚醒し、額にはうっすら汗まで。こんな恐ろしい夢を見た原因は目の前の男のせいに決まってる。……顔見えないけど。
 私の顔を自身の厚い胸板に押しつけながら寝てるのは、就寝したときにはいなかったはずのベック。我らが副船長だ。
 そんな頼りになる副船長に、いま私は後頭部だけでなく腰まで掴まれ、脚もしっかりホールドされている。文字通り私をすっぽり包んでるこの鍛え上げられた肉体はまさに壁のよう。あんな夢を見てしまうのも納得だ。

「ベック。ベックー、苦しいよ」
「……ん、あぁ。起きたか」
「まだ起きる時間じゃないけど……こんなに抱きしめられるとさすがに苦しい」
「ふっ……不貞腐れてたのはもういいのか?」

 どこか嬉しそうに笑ったベックの一言に忘れてた昨晩の出来事が蘇る。我ながら子供のような態度をとってしまったなと今更だけど己を恥じた。
 立ち寄った島でベックが街の女性にちやほやされるだなんていつものこと。囲まれることを特別拒んだりしないのもいつものことだ。けれどずっと視界の隅で他の女にベタベタ触られてる現場を見るのは流石に腹が立つ。恋人なんだから当たり前の感情だ。
 少し大袈裟に席を立って「先に船に戻る」と不貞寝をしたのは恐らく数時間前。いつもより多く飲んだ酒のせいで熟睡できなかったのか頭が痛い。大人なベックの恋人なのだから私だって大人な振る舞いを……と思ってたのに、まだまだ未熟者だ。
 そんな私のことなど全部お見通し、と言わんばかりに優しく頭を撫でてくれる無骨な手が心地いい。手を握って「機嫌は直ったか?」と笑うハスキーな声にだって少女のようにドキドキしてしまう。

「綺麗な女の人に囲まれてるのは別にいいの」
「へェ?」
「でもね、触らせすぎ」
「ははっ、そんなことか」
「そんなこと!? 逆の立場だったらベック怒るくせに!」
「あァ、おれなら半殺しにしてるな」

 言ってることが無茶苦茶だ。想像した映像がひどく不愉快だったのかベックの眉間の皴が増す。
 その姿に呆れてなにも言えなくなってると、ギシッと大きなスプリング音。それもそのはず、横になっていたベックが体勢を変え今じゃ私の真上にいるではないか。
 「お前に触れていいのはおれだけだ」と言うや否や額、こめかみ、頬、首、鎖骨と順々に口付けされ最終的には太腿をするする撫でられる。壊れ物を扱うかのような優しい手つきがもどかしい。
 私より年上で、いつも落ち着いていて頭が良くてお頭からも頼りにされているこの男が、私と二人きりでいるときだけ、ほんの少し幼く見える。こんなベックの姿を知ってるのが世界中で私一人なら、いくら他の女に囲まれたっていい。そう思えるくらいには大人になったと思う。

「ベックは手を繋ぐのが好きね」
「そうか?」
「よくこうやって、指絡めてくるの。かわいい」
「そいつァ、嬉しくねェな」
「ベックのかわいいとこを知ってる女がいたら、その時はきっと私も半殺しにしちゃう」

 にっこり笑いながら口にした物騒な台詞に目をまあるくしたベック。あ、その顔もかわいい。すると数秒後ニヤリと歯を見せて笑い「見てみてェもんだな」なんて一言。

「なに。こうして手を繋いだ人、過去にいるの?」
「随分と気に入ってるんだな」
「だって、なんか愛を感じるじゃない」

 絡めてあった指をにぎにぎしながらそう言うと突然唇を塞がれた。煙草の味がするキスにすっかり慣れ、最初は得意になれなかった苦みもいまでは媚薬のよう。
 繋いでた手はいつの間にか拘束へと変わり頭上へ。口内をねっとり這い回るベックの舌に必死に自分のを絡ませるもなかなか上手にできない。やっと離れたと思えばまたすぐ触れ合い今度は唇を食される。体のラインをゆっくりなぞってこちらの反応を伺うベックは本当にいやらしい。びくりと体が震えるのを、嬌声が響くのを今か今かと待ってるのだ。その証拠にさっきから口の端をつり上げてる。あぁ、その顔に弱いっていうのに。

「ん、ふっ……ちょ、っと……っ!」
「――その愛とやらは十分伝えてるはずだったが、足りなかったか?」
「……そういう意味では」

 性欲と全く関係ないスキンシップをとりたがってもらえるのは、これ以上ないくらい愛を感じる。――そう説明しようにも、男の瞳はすっかり熱を含んでいてまるで獣のようだ。
 とは言っても、私のせいで余裕をなくしてるベックを下から眺めるのは言い表せないほどの高揚感と幸福感を感じるのだからもうなんだっていい。そのくらい彼の言動には愛が込められている。

「手を繋いだかなんてのは忘れちまったが……」

 服の裾を捲りお腹を触るベックはおへそに一つキスを落とす。それ、くすぐったいからやめてっていつも言ってるのに。

「嫉妬させて部屋こじ開けてこうして襲いにくるなんてマネさせるのは――後にも先にもユキナ、お前だけだな」
「……なにそれ、ずるい」
「はっ、どっちがだ」

 悪い笑みを浮かべた大きな獣。薄暗い部屋でうっすら光るシルバーグレーの髪が妙に艶めかしい。

「ねぇ、夜が明けるよ」
「それがなんだ?」
「待てができないなんて。いけない副船長ですね」
「そういう育ち方をしてないもんでな」
「あははっ、確かに。海賊だもんねェ」
「あァ……それに。今くらいただの男でいさせろ」

 シーツに縫い付けられてた手首が深く沈んでいく。呼吸が苦しい――けど幸せだ。
 ゆっくり囁かれた彼らしい愛の言葉は私の脳をとろとろに溶かすには十分過ぎて、ひどく熱い朝の海へ身をまかせた。



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