すぐ横の自動販売機から鳴るガコンという音と「笑い事じゃないですよ」という少し怒ったような神の台詞はほぼ同時だった。下から取り出したのは彼がいつも飲んでる缶コーヒー。気持ちのいい音をたてて開けたそれを勢いよく飲んだあと「送りますよ」なんて話を続けられ慌てて我に返る。

「いっ、いいよ! 後輩にそんな面倒かけらんないって!」
「先輩とか後輩とか関係ないですよ。それに、面倒ならいつもかけられてます」

 にこっと笑顔でさらりと毒を吐く。それが私の後輩、神宗一郎だ。
 入社当初こそ素直で愛想がよくて気が利いて、とにかく可愛らしい自慢の後輩だった。それが一体どうしたことだろう。今じゃ向こうが私の先輩なのではないだろうかと疑問に思うこともしばしば。
 得意分野が違うのだと主張して逃れたいが、やはり神は私より容量がよくて――つまり仕事ができる。仕事の相談役を買うのは私の方だったはずなのに、今じゃ立場は逆転。なんと情けないことか。

「この前残業手伝わせたの根に持ってる……?」
「やだなぁ。あれはオレが勝手に手伝ったんじゃないですか」
「そーだけど……なんかいつも神に助けてもらってるから」
「桜城さんには入社当時すごくお世話になりましたから。というわけで、今回も恩返しってことで」
「い、いやでも」

 変な男につけられてるかもしれない、なんて悩みをふと口に出してしまったのが失敗だった。日頃からなにかと気を遣って動いてくれる神が「へぇそうなんですか」で終わるはずがないというのに。
 私の拒否権なんてほとんどなくて「今日オレより早くあがれるなら一人で帰ってもいいですよ」とこれまた小憎たらしい一言を残し自分の仕事に戻る神。私のデスクに積み上げられてる書類とさっき上司から追加された案件を知っての発言に違いない。この鬼め。

***

「お疲れさまです」
「オマタセシマシタ……」
「ははっ、口から魂抜けてますね」

 そう言って私が好きな飲み物を手渡してくれるあたり本当によくできた子だ。感心する。爽やかで優しくて背が高くて――神って結構モテる要素をもっているんじゃないだろうか。

「桜城さんの家って、駅からどのくらい離れてるんですか?」
「徒歩十分ってとこかなぁ。途中までは大通りだから安心なんだけど」

 一緒の電車に乗って家の最寄り駅に二人で降りてこうして並んで歩いて、なんだか変な感じだ。仕事の愚痴や最近あった面白いこと、どこどこの居酒屋が美味しかったなんて話をしながら歩く十分間はあっという間で気づけば自宅マンション前。一応きょろきょろ見回してみるけど、それらしい人物は見当たらなくてほっと胸を撫でおろした――その瞬間。

「後ろ見ないで、このまま中入りましょう」
「っ、」

 思い切り神に肩を引き寄せられ驚いた。さっきまでの笑顔は消え真剣な彼の声色に後ろに“奴”がいるんだと緊張感が走る。その緊張が解けたのはエントランスに入りエレベーターに乗り込んだあと。全身の力が抜けそれを受け止めてくれたのはもちろん私の肩を引き寄せたままの神。大きくて意外とごつごつしてる手や指に違う意味で緊張してしまったなんて、この非常事態になにを思ってるんだ私は。

「はぁぁ、びっくりした……」
「やっぱり警察に被害届出した方がいいでしょうね」
「本当ありがとう……見てないけど、家の前まで来てたのは初めてだったから」

 さっきから震えてる自分の声で初めて大きな恐怖心を抱いていたことに気がつく。そのせいか扉の前で「じゃぁ」と口を開いた神の言葉をかき消すように「寄ってかない?」なんて咄嗟に言ってしまった。いや本当、これには自分が一番びっくりした。

「お、お茶くらいしかないけど……その」

 尻すぼみになってく自分の声。一瞬だけ目を見開いた神はすぐにいつものにこやかな表情で「わかりました」とだけ言って鍵が開くのを大人しく待っている。どうしよう、さすがに我が儘を言い過ぎただろうか。いつもと少しだけ違う雰囲気にまた緊張が増してく。
 扉が閉まったあと、いつものように部屋の電気を点けるスイッチに手をやる。すると「まった」と神から強めの制止。そして――。

「えっと……神、これは」
「電気が点いた部屋を外でチェックしてるかもしれないから、まだ明かりはつけない方がいいです」
「そ、そうだね……って、いやいや、それよりも、この状況はどういう」

 玄関で靴も脱がず、後ろから後輩に抱きしめられてるこの状況は一体なんなんだ。お腹周りをするりと這っていく逞しい腕や耳元で囁く声に頭がくらっとした。

「ダメじゃないですか。こんな簡単に男を家にあげて」
「な……」
「それとも、やっぱりオレは男として見られてなかったってこと?」

 「それはそれで腹立つなぁ」と笑う神の瞳はきっと怒りの感情で静かに光ってるに違いない。直視せずとも分かる。

「そ、そんなわけない……男として見てなかったらこんなに……」
「こんなに?」
「ド、ドキドキしない……でしょ」
「ほんとに? 雪菜さん、オレでドキドキしてくれてるんですか?」

 しれっと名前を呼ぶ神に心臓がより早鐘を打つ。いまが一番顔を見られたくないというのにあっという間に正面を向かされて、この子は本当に超能力があるんじゃないだろうか。

「本当にオレ、上がっていいんですか?」

 かわいい後輩でしかなかった男が意地悪く笑う。電気をつけるまでの僅か数分間、果たして私はいつもの“先輩”としての顔に戻れるだろうか。




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