「牧センセイ! やりました!」

 放課後真っ先に向かったのは隣のクラス。他の生徒の「あ、きた」なんて声がちらほら聞こえるが今はそんなことより優先すべきことがある。窓際の席に座る牧に、先ほどクラス担任から返されたペラペラの答案用紙を二枚見せながら「おかげさまで……!」と感謝の意を表すれば「おおっ」と喜びの声があがる。牧までそんな喜んでくれるなんてちょっと意外だ。

「やったじゃないか。世界史に関してはオレよりいい点だ」
「それもこれも全て、牧センセイのおかげです!」
「随分大袈裟だな。頑張ったのは桜城だろ」

 呆れたように笑う牧は自然と私の頭に手をおきよしよしと撫でる。勉強期間中も何度かされたこの行為にドキっとさせられることはしばしばあった。賢い犬だと思われているのだろうと恥じらいの感情を消し去りながら教科書と睨めっこしていたのだが、こう何もない状態でされるとどうしていいか分からない。うーん、天然って恐ろしい。
 人生で初めて赤点をとってしまった私に「オレでよければ」と教え役を買って出てくれた牧。バスケ部もあって大変だろうに毎日僅かな空き時間で先生役をしてくれた。無償でこんな面倒事をしてくれるなんていい人すぎて心配になる。

「いやーこれでセンセイ呼びもおしまいだね」
「桜城が勝手にそう呼び始めたんだろ。それに敬語も」
「なんか気分の問題? センセイって言うことで集中力を高めるというか……」

 意識しないようあえてそう呼んでいたことを知ったら彼はどういう反応をするだろう。きっと心底驚くに違いない。
 だって彼は男女問わず人気の高い有名人。いくら去年まで同じクラスでそこそこ交流があった仲とはいえ、二人きりの時間がこうも多いとそれなりに緊張だってしたのだ。ふと見せる優しい笑顔とか、意外とすぐボディタッチしてくるところとか。

「牧、なんか欲しいものとか食べたいものある?」
「……なんでもいいのか?」
「え!? あー、うん、もちろん! 私が買える範囲のものなら!」

 どうせ「そんなことしなくていい」なんて遠慮されるだろうと思っていたから、まさかの返答に正直驚いた。もちろんお礼はするつもりだったけど。
 じっと私のことを見上げたまま黙っている牧はなにやら熟考している様子で、一体どんなものを要求されるのかヒヤヒヤしてきた。そして暫しの沈黙を破った「今度の土曜日」という台詞につい間抜けな声が出る。頭の中が一気にクエスチョンマークでいっぱいだ。

「体育館が点検の日でな。その日だけ部活がないんだ」
「へぇ、そうなんだ。……で、私にどうしろと?」
「時間をくれ。その日、一緒にでかけよう」

 驚きのあまり素っ頓狂な声がでた。別のクラスで騒いだりして申し訳ないと周りを気にするも、いつの間にか生徒はほとんど残っていない。みんな帰るの早くない?
 一緒にでかけよう、なんて異性に誘われる経験が過去にあるわけもなくどう返事をしたらいいのか分からない。しかも相手はあの牧。これは世間一般でいうカタカナ三文字のアレでいいのだろうか。ただのクラスメイトでもそうなるのだろうか。

「意味が分からないって顔だな」
「ご、ごめん。牧の要求が予想の斜め上だったからつい」

 困ったように分かりやすい溜息をついた牧は「お前、オレをいい人だと思ってるだろ」と一言。それは私だけじゃなくて学校中が思ってるに違いない。

「そりゃもちろん」
「それは勘違いだ。オレは桜城が思ってるほど優しくもない」
「どういう意味でしょうか……」
「バスケでもそうだが、相手が隙を見せたらそこを徹底的に攻めるべきだと思ってる」

 頬杖をつきながら脚なんか組んでどこか楽しそうに話す牧。いつもと変わらない姿のはずなのに、確かにいまこの瞬間は“いい人”には見えない。

「ま、牧」
「なんだ?」
「何の話をしてるのかいまいち理解できないのは……その、私の頭が悪いからでしょうか?」
「そうだな。じゃあヒントをやる」

 いまだ机の上に放置してあった私の答案用紙を指で叩いて「オレはなんの目的もなくここまで時間を割くほどお人好しじゃない」と一言。
 今のヒント、これまでの会話を思い返すと一つの仮説に辿り着いた。テスト勉強をしているときより脳みそが稼働しているに違いない。それって、もしかして、まさか、いやありえない。顔ばかりが熱くなって今にも爆発してしまいそうだ。赤点をとったときよりも恥ずかしい。
 低く落ち着いた声が頭上から降ってきて、いつの間にか牧が立ち上がっていたことに気がつく。そうだ、彼はこのあと部活がある。

「あっ、あのさ……土曜日の件だけど…」
「まさか、断るわけないよな?」

 有無をいわせず、とはこのことだ。オマケに私の答案用紙をにっこり笑顔で突き返したりなんかして。確かに私は牧紳一という男を見誤っていた。彼はちっともいい人ではない。少なくとも、手段は選ばないタイプの人間らしい。

「さっきのは宿題にしといてやるから、答え合わせは土曜にしよう」

 不敵な笑みを浮かべた牧はまた私の頭をくしゃりと撫で、軽い足取りで教室を後にしたのだった。


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