一人暮らしをしている姉が家へ帰省してきた日の夜「いいものあげる」と手渡してきた物は手の平に収まるサイズだった。案外重たく冷たいそれは本当にいいもので――。

「箱は捨てちゃったけど、中身はほとんど使ってないから」
「かわいい……って、本当に貰っていいの!?」

 あまり化粧っ気のない妹を心配してなのかイメージと違ったものだったからなのか、はたまたその両方か。もらったばかりの瓶を部屋の照明で照らしてみれば本当に中身はたっぷり残ったまま。宙にその液体を噴射させてみると部屋が別空間になったかのような錯覚を起こした――なんて大袈裟だとして、少なくとも自分が少しいい女になったのでは、なんて誤解してしまうくらい魅力的な香りだったのだ。
 洗顔、歯磨き、ヘアセット、その他諸々。朝、登校前のルーティーンに今日は違うものがプラスされた。『香水をつけてはいけません』なんてピンポイントな校則はないけれど、生活指導や風紀委員に勘付かれてとやかく言われる面倒は避けたい。だから少量を制服の下につけ、姉の手によって放たれた甘く大人っぽい香りのシャワーを潜って学校へ来てみれば、さっそく女友達から質問の嵐を受け朝から少しだけ疲れてしまった。さすがみんな敏感。

「今日は一段と騒がしかったな」
「すみませんねぇ」

 隣のクラスで毎日聞いてる声の主なんて見なくても分かる。どうせ朝練から帰ってきた越野だろうと突っ伏したまま可愛げのない返事をしたら、今度は別の人物の小さな笑い声が聞こえなんとなく顔を上げた。

「え、」
「仙道は人のこと笑ってないで忘れもん減らせよ。今月入って何度目だよ教科書貸すの」
「悪いな」

 そう言って片手をあげた仙道くんと一瞬だけ目が合った。さすがバスケ部エース。さすがイケメン。さすが高身長。人から物を借りに来ただけだというのに、一つ一つの仕草が絵になる。大した接点もないけどついドキリとしてしまった。ファンがいるのも頷ける。
 興味本位でその大きな体をちらちら見ようとするたび仙道くんと視線が合う。そのことがなんだか恥ずかしくなってきてしまいつい顔を背けてしまったのは後から反省した。すっごく感じ悪かったかもしれない。ごめん仙道くん。でもそんなに綺麗な顔でじっと見られるとごくごく平凡な女生徒は少し緊張してしまうんですよ。
 今度会ったとき彼が今日のことを覚えていたら謝っておこう――そう思ったが、その“今度”は数時間経った放課後。彼が越野の元へ教科書を返しにきたときだった。

「なんだ。どうせ後で会うのに」
「覚えてるうちに返そうと思ってよ」
「利口な判断だな。あ、そういえば今日のメニューだけど……」

 このあと行われるであろう部活の話が始まってしまった二人の間に割って入ることなどできず小さな溜息がでた。仙道くんはあんな些細なことで腹をたてたりなんかしなさそうだし、そもそも私のことなど認知すらしていないだろう。『越野の隣の席の子』が妥当だ。

「じゃあ、二人とも部活頑張ってね」

 謝罪より応援、がこの数秒で考えた結論だった。仙道くんに話しかけたのはこれが初めてだから少し緊張したけれど、越野もセットということもあり大分気が楽だ。
 いつも通り越野の明るい返事を聞いて教室から出ようとしたとき「ねぇ」という低い落ち着いた声につい足が止まる。

「今朝も思ったけど、いい匂いだね」
「――へ?」

 慌てて辺りを見渡してしまったのは、その言葉が仙道くんから発せられたものだったからだ。いくら辺りを見ても仙道くんの視線は真っ直ぐ私に向けられている。穏やかだけど鋭い瞳はやはり緊張のあまり目を背けたくなる。
 上手く言葉が出てこなくてすぐ隣にヘルプの視線を送れば苦虫を噛み潰したような顔の越野。そんな顔をしなくてもいいじゃないか。

「仙道……お前ストレートすぎだろ。あからさまに困ってるぞこいつ」
「あぁ、ごめん。困らせるつもりじゃ……」
「いっ、いやいや! 仙道くんに褒められて光栄というか! 香水効果すごいなって実感しただけで!」
「香水?」

 「やっぱ女の子はそういうの好きだよな」と理解を示してる仙道くんに「お前そんなのつけてたのか」なんてまるで分かってない様子の越野。モテるモテないの差はこういったところに現れるのか。
 ぎこちない私のお礼を優しい笑みで受け取ってくれた仙道くんは「またな」と一言残して教室を出て行く。かっこいい人は本当に何をするにもスムーズだ。こうやって女子の容姿や変化に気がついて褒めるだなんて日常茶飯事なんだろう。ファンどころか片想いの子が続出してしまうのでは。

 勘違いしてはいけない――そう心に刻み付けたはずなのに翌日もその翌日も霧のシャワーを浴びて登校したのは決して期待しているとかそんなのではない。ただ純粋にあの香りが気に入って女友達からも褒められていいこと尽くめだから、だ。それにそもそもあの日から私は仙道くんと接触できていない。あったとしても廊下ですれ違う程度。視線は合うような合ってないような。
 そんな日々が数日続いたある日、彼と再度話す機会は唐突に訪れた。

「よう」
「よっ、よ、う?」
「ははっ、なんだよそれ」
「だ、だって仙道くんが急に話しかけてくるから……吃驚して?」

 たまに訪れる南校舎の階段踊り場は売店から最も遠く静かで落ち着く場所だ。こんなところで昼ごはんを食べてる生徒を滅多に見かけない……が、まさか仙道くんと被ってしまうとは。
 私の挙動不審さを面白がる仙道くんは真横にゆっくり腰を下ろす。立ち去った方がいいのかどうなのか分からないでいると「桜城さんさぁ。オレのこと苦手?」なんて予想だにしない質問をされつい固まってしまった。

「え!? なんで!?」
「いや、やっぱこの前失礼なこと言ったかなと思って……顔背けられることもあったから」
「ちっ、ちがっ!」

 ――やはり気にしていた。気にさせてしまった。
 『あなたと目が合うと緊張してしまって』なんてバカ正直なことを本人に伝えるのは困難だが誤解されたままでいいはずがない。私の頭の中にあるすべての語彙を駆使し大慌てで誤解を解いていると不意に笑い声が響く。

「すげぇ必死」
「だって! 苦手とか嫌いとか……あるはずないもん!」
「へぇ。あるはずないんだ」
「も、もちろん」

 胸を張って言い切った私の言葉にどこか気を良くした様子の仙道くん。見かけ通り読めない人だ。同じ年のはずなのにどこか大人びた雰囲気で、子供みたいに無邪気に笑うかと思えば全てを見透かしているかのような瞳。
 この人の世話役をやっている越野の心労がいま初めて分かった気がする。

「今日もいい匂いする」

 口の中いっぱいに流し込んだお茶を吹き出しそうになった。そんな最悪の事態はなんとか避けたものの咽てしまうことは不可避。「大丈夫か?」と驚く仙道くんにこちらが驚いてしまう。

「っ、吃驚するでしょ! そんなこと言われたら!」
「え、なんで」
「あ、あのね……今日はなんもつけてないし、いい匂いなんてするわけないっていうか」
「そうなんだ。でも、いつもいい匂いだなと思ってるから。嘘じゃねーよ?」

 そう、今日こんな二人きりになった日に限って私は寝坊して。毎日つけてたあの香水の効力はいまどこにも残ってない。それなのに隣にいるこの男は平然とそんなことを言ってのけるのだから。

「仙道くん。私、そういうのはちょっと苦手かも」
「なにが?」
「仙道くんはいい人だと思うしこうして話せるの楽しいけど、そうやって誰にでもいいこと言うのはよくないっ……といいますか」

 穏やか、とは少し違う。真っ直ぐな、射抜くような真剣な視線に言葉を絡めとられてしまったかのように続きが喉を通っていかない。
 怒らせてしまっただろうか、けど間違ったことは言っていないはず。そんな不安が顔に出てしまっていたのだろう「まいったな」なんて苦笑いを浮かべた仙道くんは降参のポーズをとり「誰にでも言うように見えた?」と眉をハの字にしている。

「ごめん……仙道くんモテるし、私のこともさらっと褒めてくれるから慣れてるのかなって」
「これでも、けっこう緊張してたんだけどな。気になる子に話しかけるの」
「そうなんだ。そっか。なるほど。……えーっと」

 なにが“そっか”なのか、なにが“なるほど”なのか。なに一つ理解できてないのにとりあえず口から出てしまう納得の言葉の数々。

「顔、赤いよ」
「っ――誰のせいでっ!」
「ははっ。悪くねぇな」

 楽しそうに笑いながら両手をポケットに突っ込んで立ち上がった仙道くんは「今度はそっちが意識する番」とだけ言って去ってしまった。あぁ、やっぱりあの真っ直ぐな瞳だけは苦手かもしれない。



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