『晩夏の鼓動が止まらない』の続編
「桜城」
「わっ……牧。えーと、部活でしょ?」
「ああ。今日の部活終わり、少し顔出せるか?」
「いいけど、どうしたの?」
「ちょっと部室で探し物があってな」
冬の選抜まで残る牧たちとは違い、マネージャーである私は先日ついに引退した。本当ならインターハイ後の予定だったけど、今年は1年マネージャーの入部が少し遅かったこともあり引退が長引いた。これまで雑用は私の仕事だったから、今みたいに「あれどこにあるんだ?」なんて部員に教室で聞かれることは珍しくない。
はーいと返事をしたあと、牧がポンと頭を撫でるもんだから吃驚してつい椅子から立ち上がってしまった。
「――おい」
「ごっ、ごめん! じゃ、じゃあ後で体育館寄るから! はいっ、頑張って!」
不満気な牧の背中をぐいぐい押して半ば強引に教室から追い出すなんて、私はなんて酷い彼女なんだろうか。
久しぶりに帰り道が一緒になったあの日を境に、私と牧の関係は部長とマネージャーから恋人同士に変わった。だけどすぐに私は引退。公私混同するつもりはさらさらなかったけど、部活という共通点がなくなった今、牧と接する機会はぐっと減っていた。
「うわー、牧かわいそう」
「っ――! 分かってる! 私が悪い!」
「ずーっと我慢した末やっと付き合えた可愛い彼女にキスした途端避けられるなんて、牧が不憫すぎて見てられないよ」
爪を研ぎながら楽しそうに話す友人の言葉にぐうの音も出ない。
引退の日の帰り道「こうして部活終わり一緒に帰るのも最後だね」と呟いた私に小さな口付けをしてきた牧。あの時の景色や感情、初めて耳元で私の名前を囁いた声、全てが昨日のことのように思い出せてしまう。そのたび顔が熱くなるんだから困ったものだ。
彼氏といっても、やはり私の中での牧は常に神奈川のトッププレイヤーでもの凄く大きな存在に変わりはない。それが、あんな、急に彼氏っぽいことをされると心臓が爆発しそうになる私の気持ちも少しは分かってほしい。
「愛想つかされても知らないよー」
「それは……嫌だけど」
「じゃあたまには積極的にならなきゃ。牧優しいから、当分手なんか出してこないだろうし」
「女にだってそういう欲求あるでしょ?」としたり顔の友人は流石というかなんというか。確かに、ないと言えば嘘になる。
マネージャーの役割から解放された今、彼氏に甘えたい欲求は人並みにある。だけどあの色気を全開にして迫ってくる牧を前にしてしまうと、結局羞恥心が勝つ。
そのあと、部活が終わる時間までずっと友人におもちゃ扱いされた私は、火照った頬を冷ますためわざと少し寒い道を通って部室棟へ向かった。
「おっ、きたか」
男バスの部室へ続く道を小走りしてると、武藤と高砂にばったり遭遇した。高砂とは同じクラスだし、武藤も牧と同クラスだから久しぶりではない。だけどやはりこの時間にこの場所で会うとどこか懐かしい気持ちにさせられる。
「牧なら部室にいるぞ」
「探し物ってなに?」
「あー、さぁ? 牧に聞けよ」
宙を彷徨ってる武藤の目となかなか視線が合わないでいると、高砂に「さっさと行ってやれ」と背中をポンと押されクエスチョンマークを浮かべながらさっきより少し急ぎ足で部室へ向かった。
見慣れた扉を遠慮がちにノックするも、返事はない。着替えてたらどうしようと数秒待ってみるも中からは物音ひとつもしなかった。
暑くて急に脱ぎだす部員たちを2年以上見てきたのに、今更なに緊張しているんだ。万が一着替えてたら「ごめん」と一言謝ればそれで済むと意気込んで扉を開けると、意外や意外。パイプ椅子に腰かけうたた寝している牧の姿。
ブレザーは鞄の上にだらりと落ちていて髪の毛も少し乱れてる。よほど疲れが溜まっているんだろう。なるべく物音をたてないようゆっくり近づいて、床に着きそうなブレザーを拾い上げ埃を払った。
静かな寝息をたててる牧の顔は造り物のように綺麗で、本当にこの男が私の彼氏なのか?なんて半信半疑になる。
スッと通った鼻筋に形の整った眉。普段ワックスで固めてるから気づきにくいけど、練習後頭から水を被ったあと乾いた髪の毛がふんわりしててすごく触り心地が良さそうなのだ。乱れた髪の毛をちょいちょい整えると制汗剤のいい匂いがした。……って、これは限りなく変態っぽいのでは。
”女にだってそういう欲求あるでしょ?”
さっき言われた言葉が頭の中でこだまして耳が熱くなった。
手を繋いで指と指を絡めてみたい、目元のほくろにキスしたい、その太い首にしがみついて思い切り抱き着いたらどんな反応をするだろう。
恋人になって会う時間は減ったけど、以前よりぐっと優しくなった牧に対して緊張と同時にそんな欲望が生まれるのは仕方なかった。だって私はもうマネージャーじゃないのだから。
――というか、この状況なら少しは勇気が出せるかも。そう思い体を少しだけ傾けた瞬間。
「早くしろ」
「――む、んっ!」
急に腰をぐいと引き寄せられ、牧の体に思い切り倒れこんだのと唇を塞がれたのはほぼ同時だった。
私1人が少し体重をかけてもびくともしない大きな体がすごく熱い。状況を理解し慌てて離れようにも、後頭部をしっかり固定されてしまってはそれも不可能。どんどん深く唇が重なっていって、体が痺れてしまいそうだ。
「っ、んんっ……ちょっ……ま、き!」
「……じれったいな。するならさっさとしろよ」
「ちがっ、私は口じゃなくて目元に……!」
「ほう。寝こみを襲おうとしたことは否定しないんだな」
口の端をつり上げて笑う牧に顔がカァっと熱くなった。墓穴を掘るとはこのことか。
「っ――バカ! もう探し物手伝ってあげないから!」
「あぁ、別に構わん」
「……は?」
「そんなもんないから大丈夫だ」
椅子から立ち上がった牧は扉の方へすたすた歩いていくとしれっと鍵を閉めた。さっき会った武藤の目線が宙を彷徨っていた際、口元を押さえていたのを思い出す。今思えば高砂も、なんかいつもと違ったような気がする。――まさか。
「だ、騙したの!?」
「言っとくが、提案したのは俺じゃないぞ。けど、こうでもしないと2人になろうとしない雪菜も悪い」
そう言うや否や、牧の両腕に包まれる。「1分でいいから、充電くらいさせろ」と懇願されては何も言えない。これが牧の充電になるのかと思うと羞恥心より嬉しさの方が勝つに決まってる。
そのおかげか、ゆっくり腕を背中に回すことができた。太くて逞しい腕にぎゅっと力が加わり、また鼓動が早くなる。ずっと我慢してくれたのかなと思うと少し申し訳なくて、勇気を振り絞り視界の端に映った泣きボクロにちゅっと小さく口付けすると、数秒後余程驚いたのか勢いよく体が離れた。
「あっ、ごめ……えっと。私も……こういうのはしたいと、ちゃんと思ってるから。その、安心して?」
酷く驚いたあと、苦虫を噛み潰したかのような表情になり挙句の果てに頭を抱えてしまった牧の姿は少し滑稽だ。
指の隙間から見えた瞳がギラっと光ったかと思えば、また深い口付けをされる。数回、角度を変えての口付けに酸素が足りなくなりそうだし、変なタイミングで息が漏れてるのではと不安で仕方ない。
少し離れた唇はその後の余韻を楽しむかのように、暫くくっついたり離れたりを繰り返す。恥ずかしいけど、それがとても心地よかった。
「……牧、1分以上経ってる」
「……あと1分だけ、頼む」
困ったように眉を下げてる牧の頬は薄っすらとだけど確かに赤く染まっていた。ぴったりくっついてる体から感じる速い鼓動に、つい口角が上がってしまいそうだ。
「なに笑ってるんだ」なんて怒られそうで、それを隠すため自分からゆっくり落とした口付けを牧は嬉しそうに、優しく受け入れてくれた。