校内に響き渡るチャイムの音に思わず眉を顰めた。ふわふわした意識がだんだん鮮明になっていき、重たい瞼をゆっくり開ける。そして空気中に充満した消毒液の匂いで、ここが保健室であることを思い出した。
 あぁ体が重たくてしかたない。よっこいしょ、と反動をつけ起き上がってからスマホの電源ボタンを押すと15時25分の表示。さっきのチャイムは6限目の終わりを告げるものだったようだ。下腹部の鈍痛に襲われ、これだから冬は嫌いだと心の中で溜息をつく。
 普段からそこまで酷い方ではないが、身体が冷えるこの時期は毎回保健室のお世話になっている気がする。それでもさっきより幾分かマシといったところか。横に置いていた湯たんぽで冷えた指先を温めていたら、ベッドを覆い隠す薄緑色のカーテンの向こうで小さな物音がした。そしてカーテンがシャっと軽く開けられ、保健の先生が顔を出す。

「桜城さん、体調はどう?」
「なんとか、大丈夫そうです」
「そう?先生今から職員室に行かなくちゃだから…」
「あ、適当に自分で教室戻ります」
「そう? じゃあ、よろしくね」

 それだけ言うとまたカーテンを閉め、早々に保健室を後にする音。確認したわけではないが、恐らく自分以外誰もいないのであろう。他に人の気配が全くしない。
 静寂のなかいきなり鳴りだした自分のスマホに吃驚した。ディスプレイに表示された名前は、同じクラスのモテ男。及川徹の3文字。通知欄を指で触れると『桜城ちゃんの鞄、旦那に預けたよ』というメッセージと可愛らしいキャラクターがダブルピースをしてるスタンプ。こういうファンシーなものを及川に送られると妙に腹が立つがとりあえずスルーしておこう。
 それよりも重要視しなければいけないのは、”旦那に預けた”の一文。既婚者になった覚えはないが、これは明らかに先日友達から恋人同士になったあいつのことを言っているに違いない。あーどうしよう、急にそわそわしてきた。両頬は熱いのに手先がやけに冷えていく。
 私の心の準備時間は思っていたよりも短く、ガラっと保健室の扉が開く音。足音がどんどんこちらに近づいてきて、薄いカーテンが開かれる。少し驚いた様子の花巻の顔を見た途端、言葉では表しにくい安堵感。

「おー、起きてたんだな」
「うん、今及川からの連絡見たとこ」
「体は?大丈夫か?」
「うん。荷物ありがとう」
「気にすんなって」

 肩に担いでた私の鞄と自分のリュックを地面に下ろし、ベッドの空いた場所、私の足元付近にゆっくり腰を下ろす花巻。キョロキョロと辺りを見回す姿を不思議に思ってると、静かな空間に花巻の低い声が響いた。

「先生は?」
「職員室行くって。さっき出てった」
「ふーん」

 すると下ろしたばかりの腰を持ち上げ、半開きになっていたカーテンを閉める。そして少し、否、かなり私との距離を詰めて座る。ちょ、顔が、近くないですか花巻さん。

「近いね?」
「嫌?」
「それは狡いなぁ」
「あれ、俺が狡い奴って、今知った?」
「……とっくに知ってました」

 こうして軽口を叩く花巻を好きになるなんて、2年前の私が知ったら驚くだろう。しかも、ついこの間から付き合ってるなんて。チャラそうに見えるけど、結構誠実で情に厚くて優しい奴。そんな花巻を好きになるのに時間はかからなかった。

「桜城」
「なに?」
「ん」

 そう言って私の手元に置かれたのは、暖かいレモンティー。これ、私が一番好きなやつ。
 驚いて花巻の顔を見ると、少し照れてるようなバツが悪そうな、そんな表情。急いで買ってきてくれたのかなと思うと、どうしたって顔の筋肉が緩む。そんな顔を見られるのが恥ずかしくて俯くも「笑うなよ」と花巻の大きな手に髪をぐしゃぐしゃにされた。

「温かい。ありがと花巻」
「お前いつも手冷たいもんな」
「冷え性だからね。この時期は辛いよ」
「…ほら」

 レモンティーを持ってない方の手をぎゅっと握られ、心臓がまたドキンと跳ねた。そんな私の心の内なんてお見通しなのか、唇の片側をニヤリと釣り上げ一気に距離を詰めてきた。

「な、なに!」
「そっちこそ、なに緊張してんの?」
「してない!」
「嘘つけ」

 そんなに私の反応が面白いか。ニヤニヤ厭らしい笑みを絶やすことなく「可愛いやつ」ってすぐからかう花巻は本当に意地悪だ。付き合う前は”可愛い”なんて一言も言わなかった癖に。
 急にそんなこと言われて緊張しないわけがない。悔しい。自分ばかり緊張して、花巻はドキドキしたりしないのかと思うと少し悲しい。

「そりゃ、するよ」
「え?」
「スキ、なんだから、するよ。緊張」

 花巻は、してくれないんだね。と小さな声で付け足すと、ポカンとしていた花巻の表情がくしゃっと歪んだ。

「お前ね」
「なによ」
「俺の緊張をナメんなよ」

 耳元で花巻の熱い吐息を感じ、鼓動の速度が急激に速まる。がっしりした体に包まれ硬直していると、抱きしめていた腕の力が緩み体を離された。そして先ほどとは違う、少し余裕のない花巻の揺れた瞳に釘付けになった。

「キス、させて」
「は!?」
「つーか、無理、もう我慢できねー」
「はっ、ちょっ、ここ保健室!」
「だから燃えるんデショ」
「バカじゃないの?!」
「はい、黙ってくださーい」
「っ――!!」

 ニヤニヤしちゃってこのバカ。心の中で悪態をつきつつ覚悟を決めギュッと目を瞑れば、数秒後唇に暖かい感触。心臓の音が、熱が、花巻にも伝わってるんじゃないかと思うくらい激しい。しばらくしてゆっくり離れたのを感じ目を開ける。こういうときってどんな顔するのが正解なんだろう。

「んな顔すんなって」
「ど、どんな顔よ」
「”もうやめちゃうの?”って顔」
「っ、はぁっ!?」
「お、図星?」

 名残惜しいと感じてしまったのを見透かされたと思った。が、まんまと引っかかってしまったようで。ニヤリという効果音がピッタリの笑顔が近づいてくる。

「ちょ、もういいって。花巻っ」
「いいや、俺がよくないね」

 先ほどよりも深いキスに戸惑い、つい変な声が出た。心なしか花巻の顔もほんのり赤くて、どこか余裕のない表情。それも束の間、大きな溜息をついたあと飄々と。

「場所が変わると変な気分になりやすいな」
「……呆れて言葉がでない」
「気持ちよさそうだった癖に」
「〜〜っんなわけないでしょ!!」
「保健室はやっぱ燃えるよなー」
「変態!」
「まぁまぁ、照れんなって」

 ケタケタ笑いながら、ちゅっと私のおでこに優しいキスを落とす花巻。そんなちょっとしたことでいつも私を黙らせてしまうんだからお手上げだ。さっきまで冷えていた身体はすっかり熱を取り戻し、寧ろ熱いくらい。甘いひとときのおかげなのか、下腹部の痛みもかなり良くなっているように感じるから自分の単純さに呆れてしまう。

「……花巻といれば、冬も無事に過ごせそう」
「なんで?」
「暖かいし、一緒にいたらなんかお腹も良くなった」
「じゃー、毎年一緒にいますか」
「え」
「なに。いたくねぇの?」

 ムスっと不貞腐れた顔が可愛くて、小さな笑みが漏れてしまった。こんな幸せな気分になれるなら、冬の寒さも少しは我慢できるかもしれない。


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