どんなに息を切らせて走っても"close"と書かれた板看板がひっくり返ることはない。短い胸呼吸を繰り返したあと、心を落ち着かせるため大きく吸った冷たい空気が肺に入ってツンとした。深呼吸というより盛大な溜息に近い。今日に限ってどうしてこうもツイていないのか。
 日本中のカップルが浮足立つ聖夜にはまだ少し早い今日。美味しいと評判のパティスリーのケーキで彼の誕生日をお祝いする私の計画は実現不能となってしまった。

「おかえりなさい」
「あっ、司さん早かったんですね!?」
「今夜くらいはと、少し早めにあげてもらいました」

 昼間服部さんに会った際「司、早く返してほしい?」といつもの調子で聞かれたのを思い出した。絶対そんなつもりはないだろうし、何より仕事を優先してほしかったから「そんなことないです」と言っておいたのに……。

「うぅ……感謝ですね」
「今日はそこまで忙しかったわけでもかったのですが、明日改めてお礼を言っておきます」

 まだスーツ姿のところを見るときっと司さんもさっき帰ってきたばかり。私があと一時間、否三十分でも遅ければ彼は私のために夕飯を用意していたことだろう。息を切らせて走った甲斐が少しでもあってよかった。

「急いでなにかご馳走を作りますので……!」
「そのお気持ちは大変嬉しいのですが、今から長時間キッチンにこもられてしまうのは少々寂しいですね」

 するりと手を握ってきた司さんは、そう言いながら甘えるように指をからめ私を困らせる。冷え切った私の指を丁寧に温めほぐしている彼の優しい目とバチっと視線が合った瞬間、ドキリと胸が鳴った。そして「はぁ……」と分かりやすい溜息を一つつかれ。

「そうやって照れないでください。可愛すぎて一体どうすればいいのか思考が停止します」
「それを言うなら司さんこそ。そうやって褒めちぎりながら面白いこというのやめてください」
「面白いことを言った覚えはありませんが、とにかく今日あなたは何もしなくていいです」

 ぎゅっときつく抱きしめられ、今朝つけたのであろう香水の残り香と微かな煙草の匂いで胸がいっぱいになる。このままこの心地のいい腕の中にいられるのはこれ以上ない幸せだが、今日はそれじゃいけないと心の中の天使が必死に私を奮い立たせている。

「いやいや!今日はそういうわけにはいきませんって!」
「お誕生日様の言うことが聞けない……ということですか?」
「うぐっ……卑怯な手を……」
「あなたを離さないためならどんな手でも使います」

 頑固な彼がこうなってしまった今、それを覆すのは容易ではない。何かいい案はないものかと必死に頭を働かせた結果。

「司さん、とっっても不本意ですが一つご提案があります」
「聞きましょう」
「この前ネットで見た新発売のカップラーメン、すぐそこのコンビニに置いてあるのを私は確認しました」

 ピクリと一瞬、ほんの少しだけ形が変わった右眉を見て心の中でガッツポーズをする。今度きちんと仕切りなおすにしても、こんな安上がりなお祝いでいいものか今更不安である。

「何もしないのは申し訳ないので、せめて司さんの好きなもの買わせてください」
「ですが、せっかく暖まった身体をまた冷やしてしまいます」
「仕事終わり、夜のコンビニでカップ麺ですよ?今日なら好きなアイスやお菓子も籠に入れ放題ですよ?……それに、冷えたらまた司さんが暖めてください」

 最後の一言を口に出して数秒後、さっきよりも大きな溜息が降ってきたのを感じ思わず笑みが漏れた。語彙が見つからないのか眉間の皴を深めながらのしばしの沈黙。そして観念したのか、黙ってコートを取りに部屋へ戻る後ろ姿を見て勝利を確信した。

「ふふっ、可愛いですね司さん」
「それはこちらの台詞です。俺の頭が爆発でもしたらどうするんですか」
「うーん、それは困りますねぇ」

 こういうことを本気のテンションで言うんだから面白い。マンションの自動扉が開いた瞬間冷たい風が身体を突き抜け身震いしてしまう。司さんの大きい手に今度は私が手をするりと這わせる。

「司さん、お誕生日おめでとうございます」
「えぇ……ありがとうございます」

 月明りに照らされた、ふっと零すように笑うその笑顔がたまらなく好きだ。


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