※ 関玲√前提の渡部悟夢になります


 殺人的なまでの紫外線に目の前が一瞬眩む。つい先日までの連日続いた雨が嘘のように最近は晴天に恵まれている。いよいよ夏本番といったところだ。
 普段の仕事は大半が省庁内での雑務が多いせいか、ここ数年の日本の暑さを少し侮っていた。天からの日差しを受けカンカンに熱をもっているであろう厚労省のビルを見上げ、ひと呼吸してから若干の緊張を落ち着かせた。

 空調がきいているとはいえさきほどから見かける人たちはみんなどこか暑そうだ。外務省のクーラーがあまり効いてないのではないか?という先ほどまでの渡部さんとの何気ないやりとりを思い出した。普段涼しい顔をして仕事をこなしている渡部さんも、今日は昼あたりから第一ボタンをあけ目の前の書類を片付けていたっけ。脳内はその時の映像で一時停止してしまい、急に自分の体温が一、二度上昇するのを感じた。それを誤魔化すように頼まれものの書類の束を胸元でぎゅっと抱え、意を決して扉をノックする。

「失礼します、桜城です。関さんはいらっしゃいますでしょうか?」
「あっ、桜城さんお久しぶりです!」

 麻薬取締部捜査企画課。ここに私一人で来るのはとても珍しいことだ。彼女、泉玲さんも一瞬驚いたのか目を真ん丸くさせながらも弾ける笑顔で出迎えてくれた。それにつられたのか、夏目さんと今大路さんも私一人での訪問を珍しがるようにこちらに集まってきた。

「桜城さんお一人なんて、珍しいですね。それくらい渡部さんは忙しいってところでしょうか?」
「お察しの通りです」
「最近来ないなぁと思ってたらそういうことだったんですねー」

 私の右手からぶら下がる白い袋にちらりと目線を向けた夏目さんに気がつきつい苦笑が漏れた。「渡部さんからですよ」と差し出すと、冷気の籠った袋を嬉しそうに受け取り人懐こい笑顔を浮かべる。こういったやり取りを咎める青山さんは今は不在らしく、夏目さんと今大路さんはさっさと休憩モードに入っている。

「関さん、ついさっき飲み物を買いに出ただけなので、少ししたら戻ると思います。桜城さん、アイスコーヒーで大丈夫ですか?」
「あぁ、お構いなく。関さんに渡しておいてもらえればいいそうなので、私はこれで失礼します」
「いやいや!こんなに暑いんですから、少し休憩していってください!」

 両頬を真っ赤させておいて他人の心配をするあたりとても泉さんらしい。こうして対面するたび彼女の何気ない一言に癒されてしまうし、同時に深く胸の傷をえぐられる。
 袋の中から取り出したアイスの片方を私に渡すそれを拒めないのは、彼女の底抜けに明るい笑顔のせいだ。きっと自分で直接来たかっただろうに。脳裏に過った思いで顔が曇らないよう、必死で明るさを取り繕った。
 しばしの休憩中、ここ企画課で繰り広げられる会話のそれらは社会人というよりは高校の教室内で起こるようなものばかりで、自分の職場との違いを嫌でも感じてしまう。渡部さんがここの人間を好くのも納得できる。
 外交官、大使館なんてほとんどが気難しい人間ばかりなうえ、その秘書官なんて相当なストレスである。それでも私がそれなりにやりがいを感じて今の仕事ができているのは渡部さんのあの性格のおかげで。惹かれるのに時間はそういらなかったし、結果として致し方ないことだった。

「あっ、今日ってハグの日なんですね」
「ハグの日?」
「身近な人に信頼や愛情の気持ちをハグで伝えようっていう日です。アイドルとか女子高生の間で流行ってますよね。SNS上で」

 海外育ちの今大路さんにとってハグなんて朝飯前なのだろうけど、典型的日本人な自分からしてみれば身近な人とのハグなんて理由がなければ実行に移そうとも思えなかった。
 話題はハグからハグの相手へ。夏目さんが茶化すよう泉さんに「どうせ相手いないんでしょ」なんて意地悪なことを言っている。顔を更に真っ赤にして「失礼な!」と怒る彼女の脳内に、今誰がいるのかをなんとなく察してしまい手にしていたアイスコーヒーの残りを飲み干した。

「ご馳走様でした。仕事も残っているので、そろそろ戻りますね」
「あっ、私出口までお見送りを…」
「熱中症にでもなったら大変ですよ」

 アイスコーヒーで少し冷えた手のひらを泉さんの赤い頬に添えると、意味を理解したのか恥ずかしそうに俯いてしまった。

「さすが渡部さんの秘書ですね」
「いや、あれは天然でしょう」

 面白そうにこちらを見ていた夏目さんたちに軽く会釈をし企画課を後にした。



 見慣れた扉を前に少し安心したような、緊張が再び戻ってきたような不思議な感覚。いつものようにノックをすれば「開いてますよー」とのほほんとした声が中から返ってくる。

「ただいま戻りました」
「おかえり〜。ありがとうね」

 こちらに視線を向けた渡部さんはにこりと笑みを浮かべたと思ったら、すぐさま手元の書類に視線を戻しテキパキと仕事をこなす。ここを出る前に積みあがっていた書類の山はほとんど消えていて、この短時間ですべて終わらせてしまったのか呆気にとられてしまった。それでも人がいればお喋りな口は閉じないのだから、つくづくこの人はバケモノだと思う。

「関さんは不在でしたので、泉さんに書類を手渡してきました。まぁ、帰り際廊下で関さんに会ったので既に目は通してると思います」
「りょーかい」

 泉さんの名前を出した瞬間、動いていた手が一瞬止まったのを見逃さなかった。チクリと痛む胸を気にしないよう、途中買ってきた軽食とアイスティーのボトルを机の上にどんと大袈裟に置くと、少し驚いたようにこちらを見上げた渡部さんと目が合う。

「休憩、とっていませんね」
「んー、そんなことないよ?」
「あのクッキーだけだと身体を壊します。大人しく言うことを聞いてください」

 ゴミ箱の中に捨ててある黄色い箱に視線をやり、軽く圧をかければ観念したように両手を上にあげて「雪菜ちゃんには敵わないなぁ」なんてふざけた口調でソファで一息ついてくれた。
 忙しいことは確かだがこんな無茶苦茶な仕事の進め方をせずとも問題はないはず。最近のこの人の仕事への取り組み方は感心というより痛々しく感じてしまう。どうか身体を休めて欲しい。心を癒してあげたい。後者はともかく、前者すらスマートにさせてあげられない自分の無力さが憎い。

「お、この紅茶新しいやつ?サッパリしてていいねー」
「毎日暑いですしね。渡部さんも今日はさすがに参ってるようでしたし」

 ちらりと目線を首元にやるとあれから更にネクタイを緩めた形跡があった。首筋はかすかに汗をかいているようで、その姿を目の前に涼しい顔を保つのはなかなか困難だ。

「日本の暑さをナメてたね〜。こういう時こそ海外出張がかかればいいのに、なかなかそうはいかないもんだね」
「……泉さんも、心配されてましたよ」
「え?」

 海外出張を希望している心理の裏には、いろんな思いがあるのではないかと勝手に勘ぐってしまったせいか、薄く開いた口から飛び出したのは思いもよらない言葉だった。が、気づいた時には既に遅く。きょとんと私を真っ直ぐに見つめる渡部さんの視線がとても痛い。「あ、いや、その」なんて動揺を絵にかいたような咄嗟のリアクションの後どう切り抜ければいいのか。恋愛のことになると自分はてんで駄目だ。
 そんな私を心底面白そうに、クックと笑いをかみ殺している目の前の意地悪な男を軽く睨む。髪をくしゃっとかいて深い溜息をついた彼は、身体を前のめりに一瞬困ったような笑み浮かべた。

「参ったなぁ。俺、普段厳しい美人秘書にそこまで心配されちゃってた?」
「わ、私が心配するのは当然のことで…!」
「当然なの? うわー、俺って愛されてるなぁ」
「ちゃ、茶化すのはやめてください!私は真面目にっ!」
「いやー、どこかの有能美人秘書がハグでもしてくれたら一気に傷が癒える気がするなぁ」
「またそうやってっ――」

 いつもの私なら、ここで怒って終わりだろう。そうやってまたいつもこの人のペース。仕事も精神面でも彼の支えになりたいと思うのに、私より圧倒的に先を歩くこの人はつけ入る隙をなかなか与えてくれない。
 ソファから立ち上がり、すっと両手を渡部さんへと広げた。楽しそうにしていた当の本人は今日一番の吃驚だったのか、しばらく真顔でこちらを見上げていた。こんなに恥ずかしいことはない。けれど今日は。

「きょ、今日は……ハグの日らしいです。身近な方へ、信頼や愛情を伝える日本のイベントのようです。あ、貴方に何かあったら困る人間がたくさんいるってこと、忘れないでください!……こんなことで、少しでもお役にたつなら、その…」

 緊張を紛らわすため出た言葉の数々のはずが、喋れば喋るほど自らを崖っぷちへ追い込んでいるようでじんわり掌が湿ってきた。数秒の沈黙は私にとって数分で、向こうからのアクションが何も起きない不安で心臓がぺしゃんこに潰れてしまいそうだった。
 「…なーんて、出すぎた真似でした」そう言って伸ばした腕を引っ込めようとしたまさにその瞬間、左腕をぐいっと引き寄せられ、よろよろと頼りない足元はそのまま渡部さんの方へ引き寄せられた。
 ハグというにはあまりにか弱い抱擁だった。私の左肩を引き寄せている逞しい腕からは僅かな緊張を感じる。首元に軽く顔を埋めてきた渡部さんは、お腹の底から深い息を吐いた。くすぐったくて仕方ない。

「……ほんと、敵わないなぁ」
「っ――!」

 掠れた低い声と、首元から漂うムスクの香りが私の心拍数の高鳴りを手伝った。熱い抱擁を交わしているわけでもないが、今私たちは明らかに外交官とその秘書の距離を逸脱している。その事実に今更全身の血液が沸騰しそうだった。

「なんかいろいろ心配かけちゃってごめんね。でも、本当大丈夫だから」

 にわかに信じられない台詞だったが、いつものおちゃらけた調子ではないその言葉の重みには静かに頷くしかなかった。私の言いたいことは全てお見通しなのか、再度深い溜息をついた渡部さんは少し甘えるように肩にぐりぐりと額を押し付けてきた。それがこんなにも嬉しいものとは思わなかった。

「情けないおじさんでガッカリした?」
「……貴方はたまにはそうなるべきです」
「じゃあ雪菜ちゃんの前限定で、たまになっちゃおうかな」

 いつもの明るさを取り戻した声。冗談だとは分かっているのに、その軽口に応えるべき適切な言葉が出てこず、目線を軽く合わせることしかできなかった。

「…やっぱこの部屋、暑いね」
「そう……ですね」

 引き寄せていた私の肩をやんわり戻した渡部さんの掌は私と同じくらい熱くて、いつも余裕の涼し気な顔が今はほんのりピンク色に染まっているように感じたのは気のせいだろうか。
 なんとなく離れがたくお互いの指先を軽く触れ合う時間が僅か数秒とは思えないくらい長い。
 そんな時間が終わりを告げるのは突然で、扉を叩くノック音で一気にこの部屋はいつもの忙しい執務室へと早代わりしてしまった。部屋に入ってきた美佐紀さんはいつも通りの涼しい顔つきで淡々と仕事のことについて渡部さんと話している。その最中、彼の目が私を捕らえ愛おしそうに微笑むから恋愛偏差値の低い私はまた彼のペースにハマってしまうのだった。


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