メインエントランス、各階の入り口に設けられたセキュリティを解除し突き当り奥の部屋に通うのももう手慣れたものだ。真っ暗な部屋に灯りをともしソファに身を投げれば、愛おしい男の匂いで胸がいっぱいになる。一人暮らしには充分すぎるくらいの広い部屋で、いつ帰るか分からない恋人の帰りを待つ行為はやはり寂しいものだ。

「あ、ミィちゃん。久しぶり」

 おかえり。と短く返事をしてくれたかのようにミャアと鳴くのは、翼の愛猫。大好きなご主人様の恋人である私をよく思ってなかったのか、なかなか懐いてくれなかったミィちゃん。が、最近ではすっかり私の膝の上で甘えてくれるようになったのだ。否、正確には甘えているのは私の方。
 今日みたいな寂しい夜、私の気持ちを察知して隣に寄り添ってきてくれるこの子は、飼い主よりよっぽど女心が分かっている。……オンナノコだから当然といえば当然なのだが。

「今日はね、グリララのツアー最終日だったんだよ」

 ミィちゃんの顎をごろごろ撫でながら、先ほどまで行われていたライブの様子を語って聞かせた。桔平と裕貴は相変わらずMC中は騒がしいけど、演奏が始まると別人みたいに輝きだす。グリララのステージ演出も年々凝ったものになっていて、彼らはすっかり超人気バンド。
 瞳を閉じれば、ステージで熱唱していた恋人の姿を鮮明に思い出す。歌を歌っているときの翼の鋭い眼差しは、学生の頃から変わらない。変わらない、はずなのに。

「……さみしい」

学生の頃からの腐れ縁。そこから恋人に昇格したものの、年数が経つにつれ孤独感は大きくなる一方だった。愛情が冷めたわけでもなんでもない。だからこそ、友達のままでいればよかったという思いが強くなってしまう。アーティストとして成功していくあいつらを笑って応援してあげたい。はぁ、と大きなため息をつくと、ミィちゃんが自分の頭をぐりぐりと擦りつけてきた。

「あははっ、どうしたの。くすぐったいよ」

 この子なりの慰めだろうか。一人暮らしでペットを飼うと婚期を逃すなんて言うのは真理だ。
 さっさと湿っぽい気分を振り払いたく、冷蔵庫の中からお気に入りのワインを取り出す。ワイングラスに注がれる深紅の液体をじーっと眺めるミィちゃんには、いつものお皿にミルクを注いでやる。と、興味の対象はあっさりと甘い香りのする方へいったようだ。乾杯の間もなく顔を突っ込んでる。

「早く帰ってこい、ばか翼」

 そもそもツアー最終日なんて、打ち上げで朝まで帰ってこないに決まっている。そんな日になぜこの広い家で一人寂しく晩酌しているかというと、ライブ後にきた短いメッセージのせい。――会いたい。この四文字にどれだけの威力があるか、あの男は分かっているのだろうか。

「こんなん言われたら……待つに決まってるじゃん」

 スマホ画面と睨めっこしていたその時、パっと表示が切り替わり諸星翼の文字が現れる。私の頭のなかを占めていた人物からの急な電話に驚いた。慌ててワイングラスを置き、画面を指でなぞる。

「もしもし?た、翼?」

 久しぶりで緊張しているのか、恋人の名前を呼ぶのにどもってしまった。情けない。てっきりいつもみたいにからかわれると思ったのだが、そんなことはなく。
 しばしの沈黙を切り裂いたのは隣にいたミィちゃん。みゃーあと鳴いたのは、ご主人様だと察知したからなのか。

『家だな、今』
「……だって。あんな連絡寄越すんだもん」
『待ってろ。今帰る』

 その後聞こえてきたのは繰り返される電子音。さっきまで会場中に響いていた翼の声が、今は私の鼓膜だけを震わせている。そんなことにまで感動してしまうのだから、いよいよ末期だ。赤い液体を飲み干し心を落ち着かせた。
 電話を切ってからしばらく。玄関の扉が開く音にいち早く反応したのは、隣でうとうとしていたミィちゃんだった。軽い身のこなしで玄関先に向かう姿を目で追うと、向こうから愉快な翼の声がした。

「お迎えありがとな、ミィちゃん」

 ひょこっと玄関に顔を出せば、まだ靴も脱いでいないのにミィちゃんとじゃれている翼の姿。数日一人ぼっちだったせいか、いつもより自分に甘えてる愛猫に「そうかそうか、俺も会いたかったぞー」なんて甘やかす翼は完全に親バカである。呆れ半分でその様子を眺めていたら、急にこちらを見上げてきた翼と目があった。

「お前にも、会いたかったよ」

 しゃがみ込んでいたはずの翼が、いつの間にか目の前でいっぱいになる。片手で髪を優しく撫でられ抱きしめられてしまえば、さきほどまでの寂しさや空しさなんて一気に消し飛んでしまうようだ。
 不安がないわけない。寧ろ、常に不安と戦っている。そんな私の心中を察しているのか、会えば必ず頭を撫で愛の台詞を囁いてくれる翼に、私は子供のように泣きじゃくってしまうのだ。

「そんなに俺が恋しかったか」
「ば、っか……」
「違うのかよ」

 ケタケタ楽しそうに笑う翼の余裕に少々苛立ってしまい、胸元を乱暴に引き寄せ口づけた。ちゅっと軽く音をたて離れようとしたそれは、どうやら翼に火をつけてしまったようであっという間に深い口づけへと変わった。呼吸の苦しさすら愛おしく、この時がずっと続けばいいと本気で思う。時間にすればきっと僅か数秒。けれど、とてつもなく長い間そうしていたように感じる。はぁ、と熱い吐息と共に名残惜しげに離れていく唇。

「もっと色気のある誘い方があるだろ」
「翼ばっか余裕あって、ムカついただけ」
「……んなもん、あるわけねーだろ」

 低く掠れた声が鼓膜を震わせ、私の腰を掴む翼の手にぐっと力が入った。不思議に思って顔を覗き込むと、翼のギラついた瞳に先ほどのステージの白熱を思い出す。その瞬間。

「結婚、するか」

 妙な緊張感が走るなか突然発せられた一言は、私の思考を停止させるには十分だった。何を言われたのか、何が起きたのか少しずつ整理していると「シカトかよ」といじけたような声が頭上から聞こえてくる。
 結婚だなんて、そんなこと夢にも思わなかった。したいか、したくないかと問われればそれは勿論前者だ。けれど、その相手は超人気バンドのボーカリスト様。そう簡単にいくわけがないと誰だって思うのが自然であろう。

「だって……翼、今は音楽が」
「そんなこと言ってる間に、お前に逃げられちゃ堪んねぇだろ」
「逃げないよ!」
「けど、悲しませたくねぇよ」

 言葉に詰まった。申し訳なさそうに私の顔を覗き込む翼には、きっと何もかもお見通しで。私がどんな気持ちでグリララの応援をしているのか、どんな思いでこの家であなたの帰りを待っているのか。全部、全部翼にはバレてしまってたのだ。そんな心配かけさせたくなかったのに。情けないのと、悔しいのと、嬉しいのとで涙がぽろぽろあふれ出た。

「だから泣くなよ。っつーか、お前が平気でも俺が無理」

 あふれ出る涙を指で拭い取られ、目じりに暖かく柔らかな感触。そしてポケットからごそごそと何かを取り出した翼は、改めて私に向かい合うと深呼吸を一つ二つ。

「案外、俺のが我慢できなかったみてぇ」

 翼の手の中にあった小さな藍色の箱がぱかりと開く。きらりと光るそれは私好みのシンプルなデザインだった。これは都合のいい夢なのでは?と何度も思ったが、それを否定するかのように暖かな手のぬくもりが頭を撫ぜる。

「ほんと泣き虫だな、俺の姫さんは」

 潤んだ瞳で目の前が見えなくなる。困ったように笑う翼の笑い声と、そんな私たちを祝福してくれる小さな鳴き声で私の世界はいっぱいになった。


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