バスケ部後の自主練に精を出す花道に差し入れだけしてさっさと帰宅した日のことだった。蒸し暑い空気でべたついた汗をシャワーで流し自室で一息ついた瞬間、小さなテーブルの上で激しく振動する携帯電話。高宮たちと別れたのはついさっき。花道はまだ自主練中。考えられる相手は一人しかいなかった。

「雪菜? どうした」
「洋平〜〜!一生のお願い!」

 予想的中であった。電話の主は今にも泣きだしそうな様子で俺に助けを求めてきている。ちなみにこいつが俺にしてきた一生のお願いはこれで十回以上。輪廻転生を何度繰り返せば帳尻があうのか。
 「今日はどんなお願いごとでしょーか、お姫さま?」と刺々しく言うと「今すぐ家に来てくれ」なんて涙声で言われた。さすがにそこまでの予想はしてなかったもんだから、体を支えてた腕の力がずるりと抜ける。時刻はもうすぐ二十一時。いくら親しい間柄といえども俺は男で向こうは女。その自覚があるのかないのか、相も変わらず受話器の向こうからは必至に頼み込む声が聞こえてくる。思い切り溜息をつくも、ほんの五秒後には重たい腰をあげ原チャリの鍵を手にしてしまっているんだから、男ってのはホント馬鹿な生き物だななんて自嘲した。


 俺の家から原付でものの五分ほどの距離。古いアパートの階段を上がる物音で気がついたのかお目当ての部屋の扉が勢いよく開いた。そこに立っているのは当然電話をよこした張本人。

「無防備な格好で外に出んなって言ったろ。俺じゃなかったらどうすんだ」
「ごめん……でも、洋平だなって感じがしたから、つい」

 クラスの友人から借りたDVDがたまたまホラー作品で相当怖かった、というなんともバカらしい理由で俺は今この家にいる。絶対にないことだが、これが大楠たちなら「知るか」の一蹴で終わる話だ。それが惚れた女が相手となると、何故こうも従順になってしまうのか。
 キッチンでお茶の用意をしながら「お母さんが夜勤なのすっかり忘れててさ〜」と笑っている様子は嬉しいやら哀しいやら。万が一お化けがでたとしても洋平が守ってくれるもんね、といった安堵でいっぱいの気持ちが透けて見える。そりゃある程度のことなら守ってやる自信はあるが、自分自身の欲求に勝つ自信は残念ながらない。そこのところを全く分かってないんだこの姫さんは。

「今日も花道の練習見てたの?」
「少しだけな。あとは自主練の差し入れだけして帰ったよ」
「あっ、差し入れで思い出した!アイスあるの、洋平食べる?お礼に!」

 その好意をありがたく受け取り、カチンコチンに固まったアイスバーを二人でゆっくり食べる。さっき見てたホラー映画が本当に怖くて、どのシーンがトラウマだのなんだの。真向いから聞こえてくる明るい声が心地よく耳に入ってきて、俺はそれに「うん、うん」と相槌をうつだけ。あぁ、このまま時間止まってくんねぇかなと柄にもなく願ってしまった。
 壁掛け時計に目をやると、もう二十二時を過ぎていた。俺と話してそろそろ恐怖心も薄れてきただろう。「じゃ、俺そろそろ戻るからな」と立ち上がると袖を引っ張られた。嫌な汗が流れる。
 「もう少しいない?」そう眉を下げてへらりと笑う顔に俺が極端に弱いってこと、分かってやってるんじゃないかこいつ。

「泊ってもいいからね!お母さん帰ってこないし!」
「バーカ。あと一時間したら帰る」

 寛いでいたリビングを後にし自室に通される。何度か来たことはあるといえども、親がいないのにお邪魔するのはとんでもない罪悪感だ。しかもそれと同時に邪な感情が芽生えやすくなっている自分がいて参る。何が泊ってもいいよ、だ。ある意味俺はお化けより怖い存在なんだぞと叱ってやりたい。

「洋平、広島行くんだっけ?」
「あぁ、そうだな」
「そっか〜。今年の夏は退屈だな……お土産よろしく」
「それこそ女友達と遊びに行ってこいよ。海でも祭りでも」
「洋平たちと一緒じゃないとつまんないよ」

 洋平たち、ねぇ。余計なオマケがついてるがまぁ仕方ないとぐっと堪え、サラサラの髪を一撫でする。眩暈がしそうだ。

「花道の試合が終わって、みんなで帰ってきたら……花火でもしよーぜ」
「ほんと!?」
「夏休み全部向こうにいるわけじゃねーんだ。約束、な」

 右の小指を差し出すと、それはそれは嬉しそうに小さな指を絡めてきた。これをこのまま引っ張ったらどうなるかななんてくだらないことを思いながら乱暴なゆびきりで夏の約束を交わす。
 そんな楽しみができたからかさっきまでの騒がしかった声は徐々に消え、数分後聞こえてきたのは小さな寝息。帰ろうにも鍵の所在が分からない。

「最悪じゃねーか」

 ぽつりと呟いた俺の虚しい独り言は誰に届くこともなく宙を彷徨った。手間のかかる姫さんを、文字通りお姫様抱っこってやつでベッドまで運んでやる俺は騎士ってとこだろうか。今夜は長い夜になりそうだと腹をくくり、ベッドから少し離れた窓際で夏の夜空を見上げた。目の下に隈なんてつくったら、きっと明日高宮や大楠あたりに問い詰められるに違いないから少しでも目を休めようとうつらうつらする意識のなか「意気地なし」なんて拗ねた声が聞こえたのはきっと都合のいい夢だったに違いない。


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