自主練で体育館に残る部員以外を全員見送ったあとマネージャーの地味な業務を終え気づけば辺りは真っ暗。つい一、二ヶ月前まではこの時間でもまだ明るかったせいか、体育館と更衣室を結ぶ渡り廊下の薄暗さがやけに不気味に感じる。だがそこはほんの数秒の我慢だ。
 一定のリズムで聞こえるシュート成功の音が途切れる良きタイミングで後輩の神に最後の戸締りだけ頼み駆け足で渡り廊下を渡った。

 中学時代の名プレイヤーすら弱音を吐いて辞めてしまう海南バスケ部の練習は勿論ハードで、それはマネージャーも例外ではなかった。
 選手の方が辛いのは当然だとしても、その選りすぐりメンバーを支えるこちら側もある程度の忍耐力が必要だ。私と同時期に入った子の一人は一ヶ月半で辞め、もう一人は彼氏ができたのを理由に半年で辞めてしまった。広々と使えている女子更衣室も長年経つと少し寂しい。今年の夏に加入した一年マネージャーが最後まで残ってくれるのをただただ祈るのみである。
 ほのかに石鹸の香りがするデオドラントシートを身体に滑らせそんなことを思っていると、腕にピリリッとした痛み。ボケッとした頭がクリアになり、痛みの先へ目を向ければ真っ赤な血が線となって浮かんでいた。皮膚が薄い箇所のせいか意外と派手に血が出ている。あぁ、救急箱は確か男子更衣室だ。



「入っても平気?」

 いつも聞こえてくる騒がしい声が中からしないということは、一二年生、少なくとも信長は既に帰ったのだろう。
 電気のついてる男子更衣室に遠慮がちに声をかけると、中からは低くくぐもった牧の声がした。

「ごめん、着替えてた?」
「いや、とっくに終わってた。少しロッカーの整理をしてただけだ」

 整理前の状態を知らないが牧のロッカー内が汚いという想像ができない。きっとこうしてこまめに整理整頓しているに違いない。現状、ほぼ私のためだけの女子更衣室は一生見せられないな。。
 「私も見習わないと」と苦笑いを浮かべながら救急箱を探していると、それに気づいた牧に慌てて声をかけられた。

「どこか痛めたのか?」
「うーん、多分何かの紙で切ったんだと思う。見た目ほど痛みはないから大丈夫だよ。制服が汚れそうだから血をとめたいだけ」

 そう言って内側の腕を見せるも赤く滲んだ切り傷に牧の眉間の皺はみるみる深くなる。
 テーピング、冷却スプレー、サポーター、ガーゼなどなど、よく扱う道具を全て出した奥底に眠っていた絆創膏。なるほど、この部屋でこいつの出番はさほどないようだ。

「みんな切り傷なんかできてもすぐ治っちゃいそうだもんなー。牧なんか特に」
「なんかって何だよ。……まぁ、否定はしないけどな」

 入部したときから怪物と呼ばれ期待の新人だった牧は、今では立派すぎる貫禄がつき肉体的にも精神的にもちょっとやそっとのことじゃ傷つかなさそうだ。

「貸してみろ」
「えっ、自分でできるよ」
「いいから」

 すでに消毒液を手にしていた牧に絆創膏の箱まで奪われてしまってはお手上げだ。
 静かな更衣室内、いつもと立場が逆転しているのがどこか面白くてつい小さく笑ってしまった。普段バスケットボールを楽々と掴む大きくて太い指が今はとても優しくてくすぐったい。ぐっと距離が縮まったときふわりと鼻腔をくすぐったのは牧の使っている制汗剤だろうか。シトラスの爽やかな香りが心地いい。

「ありがと」
「いつも面倒かけてる礼だな」
「ならまだまだ足りませんな」
「じゃあ帰りにお前の好きなジュース奢ってやるよ」
「やった!」

 足りない、なんて偉そうに言っておきながら意外とお手軽だったことがおかしかったのか「ふはっ」と吹き出した牧。その顔は”帝王”なんかじゃなくただの高校三年生の男の子で、部内で見られるのは私だけの特権のような気がした。



 体育館からは未だ定期的にボールがバウンドする音がする。その音を背に二人並んで帰るなんていつぶりだろうか。

「頼もしい次期主将で安心した?」
「そうだな。神なら問題ないだろう」
「翌年の方が不安だったりして」
「多少の心配はあるけど不安はないな。清田もやるときゃやる奴だ」
「……明日本人に言ってあげなよ」

 きっと泣いて喜ぶよ。そう付け足すと「だから言わないんだ」なんて呆れ口調で返された。
 確かに憧れの先輩からそんなことを言われたら、信長の場合感動を通り越して有頂天になるに違いない。「あいつには口で言うより態度で示した方が効くだろう」と続けて言う横顔はまさしく"理想の先輩"というやつだった。

 マネージャーをしていて嫌なことの一つや二つなかったわけじゃないが、互いを尊敬し信頼し合っているチームを一番近くで見守り続けられる嬉しさはいつも私の背中をシャンと奮い立たせてくれた。
 三年生になってから今日まであっという間。国体も終わり残すは最後、冬の選抜。声が枯れるほど応援した夏はもう終わったのだ。

「なにがいい?」
「ん〜……じゃあこの新しいやつ」
「相変わらず弱いな、新商品って名前に」

 帰り道にコンビニくらいできてほしいものだ。これは一年の頃から密かに願っていたことだが、残念ながら祈りは通じなさそうである。
 ペットボトルの落ちる音が静かな空間に響く。それを取り出してから蓋を開け私に手渡す仕草が実にスムーズだ。私が選手のことをよく理解しているように、牧も私のことを理解しているといった感じがして少し悔しい。

「ペットボトルの蓋くらい開けられますー」
「ほぉ、そりゃ悪かったな。けど、一年の頃はよく俺や高砂に頼みにきただろ」
「っ……たまにあった固いやつだけ! それに、あの時の私とはもう違うのだよ」
「へぇ……。じゃぁ、今なら俺の告白は受け入れてくれるのか?」

 蓋を閉めたばかりのまだ重いペットボトルがドンっと鈍い音を立てて落下した。そんな音に負けないくらい私の胸は一瞬にして大きく鳴ってしまい、バレないよう早く鎮めたいのに全く言うことを聞いてくれない。

 一年の頃、まだ部長という肩書きのない牧とは部活帰り時間を共にすることがよくあった。
 そしてちょうど二年前。夏と秋の中間のようなこの時期、私は牧に告白されたのだった。
 部長じゃないとはいえ、ただの新入部員ではない。中学時代からの有名人。高校一年生にして試合で大活躍し将来を期待されている男だ。嬉しいより怖気づいてしまう気持ちの方が勝ってしまった。だって私はただの新米マネージャーで、ペットボトルのすこし固い蓋すら開けられない貧弱な女なのだ。

「い、今また言うこと……!?」
「よかった。忘れてたわけじゃないんだな」
「ばっ、忘れるわけないでしょ! っていうか、そんな、もう……なんとも思ってないんじゃ」
「俺がいつそんなこと言ったんだよ」
「だって! あれから二年も経ってるし、今のいままでそんな素振り……」
「確かに、学年が上がるごとにやることが増えてそんな暇なかったのは事実だけど。ずっと好きだし、下手にアプローチしたらビビるだろお前」

 目の前に立っている牧は部長でも帝王でも、高校三年生の男の子でもない目で真っ直ぐに私を見ていた。まるで金縛りにあったようだ。
 そしてこの男に照れという概念はないのか、私が黙っているのをいいことに淡々とこれまでのことを話し出す。
 部活後の私との帰り道がとても楽しみだったこと、それが部長になった途端減ってしまい寂しくてより好きなんだなと自覚したこと、国体が終わったらもう一度告白しようと決めていたこと。
 すらすら他人事のように話す牧を「もういいから!」と咄嗟に止めてしまった。
 これ以上正気を保って聞いていられるほど私の精神はタフじゃない。勘弁してくれという意味で伸ばした両腕の片方をするりと掴まれ、肩が小さく跳ねる。

「嫌いか?」
「そんなわけないじゃん……狡いって」
「ははっ、悪い。……それにしても、細い腕だな」
「牧の腕に比べればみんな細腕だよ」
「この腕に何度支えられたことか、数え切れないな」

 しみじみと言う牧のその言葉は、私にとって最大級の賛辞だった。だって目の前にいるのは神奈川ナンバーワンプレイヤー。高校バスケットに携わる誰もが注目している男だ。

「みんなの歩く道に生えてる雑草を引っこ抜いたり、石ころを退けたくらいだよ」
「それを二年以上続けたのはお前だけだ」
「やめてよ、好きになっちゃうじゃん」
「バカ。させてんだよ」
「もう好きだよ……バカ」

 シトラスと石鹸の香りが交わる。と同時に、頭上から熱く深い安堵の吐息と厚い胸板の奥から響く大きな鼓動の音。あぁ、なんだ。やっぱり彼はただの高校三年生の男の子だったのだ。こんな彼を見られるのは確かに私だけの特権で間違いないようだ。


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