"恋に落ちる"
 こんな表現をするのは、きっと人を好きになるということが意図的なことではないからだ。大嫌いだったはずのあいつを。ただの友達だと思ってたあの人を。そんな、漫画やドラマの世界でよくあるシチュエーション。
 そう、彼に惹かれる理由はどこにもない。彼は私とは真逆に属するタイプの人間、イコール。私が最も苦手とする人種。そんな人を好きになってしまうだなんて、決して認めたくなかった。


 大手チェーン居酒屋の騒がしさはあまり得意じゃない。仕事の飲み会じゃなかったらとっくに帰っていた。どうして上司というのは、お酒と若い女の子が好きなのだろうか。普段文句ばかり垂れ流している仕事のできない上司が、入社したての女の子に鼻の下を伸ばす姿を横目で見て思い切り酒を仰いだ。
 もう一杯だけ飲み終えたら終電を理由にそろそろ退散しようか。そう思った時、隣に腰かける人の気配。先ほどトイレに行った友人が戻ってきたのだろうと、何気なく横を向く。そして固まってしまった。

「桜城さん、隣いいですか?」
「あ、うん」
「お酒、おかわりします?」
「そうね」
「同じので?」
「えっと、あ、うん」
「はーい」

 しれっと隣に座ったのは後輩の花巻君。ふたつほど年下ではあるが、社会人レベル的には年上のような彼。器量良し、容量良し、愛想良し。上司からも同期からも後輩からも慕われてる彼は本当に凄いと思う。凄いと思う反面、異性としてはとても苦手だったりする。
 同期の子といる場面を何度か見かけたことがあるが、女の子と話すのが慣れてそうなうえ学生の頃からモテてましたオーラ。地味街道まっしぐらだった私からすると、どうしても近寄りがたい存在だ。いろんな子とそういう関係持ってるなんて噂もあったりするけど本当なのかどうか。否、本人の口から聞いてもいないことだ。信憑性はない。

「桜城さんって結構お酒飲みますよね」
「そうかな?」
「梅酒、何杯目ですか?」
「忘れちゃった」

 ほらそうやって、離れて座ってた先輩が何を飲んでいたかちゃんと把握してるのすごいなぁって思う。私なんて入社してすぐ、そういうところダメダメだったもんな。っていうか、私にそんなアピールしても何の得にもならないんだけど……。
 さきほど花巻君が頼んでくれた梅酒のおかわりがやってくると、店員からそれを受け取った彼が「はい、どうぞ」と手渡ししてきた。子供みたいな笑顔に胸が高鳴る。

 ドキドキ、ドキドキ

 まただ。最近花巻君を見てると少し心臓がおかしい。恋をしたことくらいある。だからこの胸の高鳴りが何なのか、分からないことはない。が、やはり頭で理解できない。彼が入社してからもう結構経つけど、いつからか私は彼に懐かれてしまったようで。飲み会はなんだかんだ毎回隣に来るし、職場でも何かと私に話しかけにくる。
 後輩としては可愛いし悪い気はしない。だからこれは私の問題。こういう女の子にモテる子を好きになってしまったら大変だ。そもそもつりあわないに決まってる。先輩後輩ではなく、男女の関係になった私たちなんて想像できなすぎて笑えてしまう。
 一人悶々とそんなことを考えていると、さっきまで饒舌に話してた花巻君がいつの間にか頬杖をついてジっと私に視線を浴びせていた。梅酒が入ってるまあるいグラスを持つ手が止まる。

「……なにかな?」
「酔ってる桜城さんも可愛いなって」
「年上をからかうもんじゃないよ」

 この子はすぐにこういうことを言うから困る。誰にでも言ってるのは分かってるけど、やっぱ照れる。自慢じゃないがこういうことを言われ慣れていない。故に返し方に困るのだ。
 氷が溶けていない濃い状態の梅酒をぐいっと豪快に飲み干して熱を持った頬を誤魔化す。今周りが騒がしくて助かった。こんな会話他の人に聞かれてたら大変だ。

「ピッチ早」
「へーきだよ」
「本当ですか?」
「花巻君は、さ。誰にでもそういうこと、言うの?」

 思考が少しだけ鈍くなっているのか、ボーっとする。周りの騒音にはフィルターがかかってるのに、隣の花巻君の声だけはしっかり鼓膜を伝って脳に響いている。

「どうしたんスか、急に」
「いや、花巻君、モテるって噂だし」
「へぇ……気にしてくれたんだ?」

 ぐっと覗き込んできた花巻君の顔が近い。真っ白な肌がすべすべしてそうで綺麗。あぁ、そういえば花巻君は東北出身だっけ。寒いところに住んでる人って色白ってイメージだけど本当だったんだなぁ。自分の健康的な肌の色がそれを余計際立たせる。ペタっと目の前の白いほっぺに手を添えると、手の平がひんやりとして気持ちがいい。目の前にある可愛らしいたれ目が大きく見開かれた。わっ、まつ毛も長いんだ。

「……桜城さん、酔ってるね?」
「酔ってないよ」
「はいはい、酔っ払いはみんなそう言うんですヨ」
「酔ってないのに」
「あんまり可愛いことしないでください」

 生まれた場所も、育ちも、友人の数も。学生時代の過ごし方も、好みも。きっと私と花巻君とじゃ全然違う。いつもみんなの中心にいて、誰からも好かれてしまう花巻君。そのキラキラした姿は眩しすぎて、日陰で生きてきた私にはちょっと目が痛い。だからこれは恋じゃない。ただの憧れで、決して恋なんかじゃ……。

「好きな人にしか言わないよ、俺」

 呪文のように頭の中をぐるぐる回るその言葉は、私の夢の中でのことか否か。それを最後に私の意識は暗闇の中に消えた。




 目が覚めると眩しい朝の光がカーテンから漏れていて、私は真っ白いシーツの上。あれ、私の部屋の布団こんなだったっけ。頭上にあるはずの目覚まし時計が定位置にない。朝特有のボケっとした脳が段々クリアになっていき、やっと自分が今非常にマズイ事態と直面していることに気付いた。

「どこ、ここ」
「ホテルだよ」

 予期せぬ声に両肩がビクっと跳ねた。予期せぬ声、けれどそれはとても聞き覚えのある声。ぎちぎちと錆びついた機械のような音をたて首を後ろに回すと、濡れた髪を真っ白いタオルで拭いてる花巻君が立っていた。

「おはよう、雪菜さん」
「おはよう、ございます」
「その様子だと……まぁ覚えてないわな」

 短い髪の毛から水が下垂れ落ちる。朝からなんて刺激的な光景なのだろうか。そんな大胆な恰好をしてる花巻君は、ニヤニヤ悪戯な笑みを浮かべこちらに近づいてくる。可愛い後輩花巻貴大君は一体何処へ消えてしまったのか。こちらの様子を見て笑っている顔がただの男にしか見えなくて途端に恥ずかしくなってきた。
 ギシリ、と音をたてベッドに腰掛けた花巻君は「昨日はすごかったね、とか言うとこ?」と、それはそれは楽しそうである。からかわれているのは重々承知だが記憶が空っぽなのは事実なため、今の発言もどこまでが嘘なのか判断しがたい。「さすがにベタすぎか」なんて笑う花巻君は悪魔である。

「雪菜さん顔真っ赤」
「そりゃ、そうだよ……!」

 下着こそ履いてるもののほぼ生まれたままの姿の今の私。ここはホテル。先ほどの花巻君の台詞以上にベタベタの展開なのは分かってるが、いざ自身に降りかかるとパニックでしかない。気になっている男の子とこんな朝を迎えるなんて。

「まぁ下心ないなんて嘘くさいことは言わないけど、マジで手は出してないから安心してくださいね」
「そ、そっか……」
「好きな人の寝こみ襲うなんて、趣味じゃないんで」
「そっか……え、」

 小さな冷蔵庫に常設されているミネラルウォーターでごくりと喉を鳴らしたあと「それも覚えてねーのかよ」と少しむくれたように言った姿が、なんだか少し可愛くてときめいてしまった。

「人が告白したあといきなり酔いつぶれて、そのまま介抱して。住所分かんないからホテルとってあげて、帰ろうとした俺を掴んで離さない我が儘きいて、急に服脱ぎだすから誘われてんのかと思えば寝だして……まだ聞く?」
「もうやめて……ごめん、本当ごめん」
「まー貴重なもん見れたからいいッスけど。理性飛ばさなかったの少しは褒めてくださいネ」
「あ、ありがとうございます……」
「いえいえ……ってことでもう一回言うけど」

 ニヤニヤしてた表情から一変、急にキリっと真剣な顔つきはいつもの可愛いとは程遠い。襟足からつぅっと垂れる雫が首筋を這ってシーツに着地する。それがすごく官能的で直視できない。私の頬を大きな手で包みこんだ花巻君は、優しく微笑んだあと首筋に自身の唇を寄せてきた。

「好きな人にしか、こんなことしないよ俺?」

 恋なんて理性でどうにかできるものじゃなかった。観念しろ、とでも言うように心臓が再び大きく鳴り頭の中で何かが弾けた。どうやら降参する時がきたようだ。


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