ラスト・オルカ 犬養×逆叉 逆叉サンって本名っすかと尋ねたことがある。 「偽名」 あっさりと煙草の煙を吐きながら逆叉さんは言い切った。はあ、偽名。逆叉サンって何者なんですか。俺の当然のネクスト・クエスチョンに、逆叉さんは漸く浅く笑う。 「何って、曲者だけど?」 他の誰かが言っても、俺はその言葉を鼻じろんだと思う。 はぁ?何ソレ本気で言ってんのかよ、てめぇ厨二?かっこいいとでも思ってんのかよマジきもいんだけどハゲ、死ね。 それぐらいは条件反射で言っていたと思う。でも俺は逆叉さんの言葉なら何でもかっこいいと思えたし、何でも正義だと感じた。 逆叉さんにそう伝えようものなら 「キモッ。うっせハゲ、死ね」 それぐらいは即座に返されるだろう。本気で軽蔑をした目をして、だ。それでも本望だと言えるくらい、俺は迷いなくあの人が好きだった。 逆叉さんは普段は煙草を吸わない。他の人が吸うのも嫌いらしく、俺が吸ったのを見ようものなら即座に鉄拳が飛んでくる。逆叉さんは俺の頭を拳骨でぶん殴った後、呻く俺の襟首を掴んで引きずっていった。 駅前のコーヒーショップで、何か飲もうと座るなりのことだった。突然の暴力に近くに座っていた女子中学生が悲鳴をあげる。店員が慌てて駆け寄り、だが声をどうかけたものか右往左往している間に、逆叉さんは俺を店のスタッフルームに引きずり込んだ。 逆叉さんは決して不細工ではなかったが、ひどく目付が悪く、あまりの悪人面に歩行者が逆叉さんを避ける始末だった。 また、サングラスでその目元を隠しても、ぴったりとした細身のスーツに、派手な柄シャツという堅気には見えない服装から、どれだけ危険人物か一目でわかるようにしていた。 店員も声をかけられないよな。 純朴そうな可愛い女の店員が青ざめていた。 スタッフルームは、仮の調理室のようになっており、二階で使用された食器類は片付けるために作られたのか、一畳半程のスペースに棚と水道しかなかった。逆叉さんは俺の頭をシンクに突っ込む。シンクには、洗いかけの灰皿と、それの排水を溜めるバケツとがあった。 逆叉さんは遠慮なく、俺を灰殼で真っ黒になったバケツに頭から突っ込む。 煙草を圧縮したような不快な匂いと、強烈な肌を刺す痛みが頬を撫でた。俺は目を固く瞑って、悲鳴も上げられなかった。この汚水が一滴でも体に入ったら死ぬと思った。シンクに跪き、その淵を叩きながら俺は逆叉さんに助けを乞うた。 金の後頭部を鷲掴みにして、逆叉さんは言う。 「未成年が親御さんに黙って体に悪いことするんじゃねえ。どうしても吸いてぇなら、この水飲み干してからにしろ」 俺は、もう二度と煙草を吸うもんかと思った。吸ったら殺されるのだと理解した。勿論、死因は煙草の毒じゃない。 逆叉さんは人が吸うのは大嫌いだが、自分が吸うのはそうじゃないと気づいたのは、そんなに後の話でもない。 徹夜明け、午前四時を過ぎて大概が眠り出した事務室を抜けだし、屋上で一本だけ煙草を吸う。普段は絶対に吸わないのに、その時ばかりはこっそりと、逆叉さんはマルボロに火を点ける。 「なんだろな。朝、こうやって昇るお日さんを見てると、どうしても吸いたくなんだよな」 ぼんやりと朝日を眺め逆叉さんは言う。 「朝ってさ、やっと一日が終わったーって感じするからかね。今日も一日生きてたぞ、って」 職業柄、夜は長く生きづらいのだ。入ったばかりの俺が漠然と感じていた不安を、この道も長い逆叉さんも感じていたのだと俺は嬉しく思った。 徹夜明けの目を眩しそうに細めながらも、朝日から目をそらさずに逆叉さんは呟く。 「お前は俺のようになるなよ」 逆叉さんはよく言っていた。 そう言った後で、少し照れくさそうにちらと俺を横目で窺い、笑うのだった。 心配いりませんよ、逆叉さん。 俺は逆叉さんのようになりたいと思わないです。確かに俺にとって逆叉さんは完璧で、こうありたいと思う人で、ひたすら格好いいとは思いますが、逆叉さんのようになりたいとは全然、思わないんです。まず、俺みたいな男が逆叉さんみたくなれるとは思わないし、なりたいだなんておこがましいこと、思えるわけありません。 第一、俺が逆叉さんみたいになったら、逆叉さん、嫌でしょう? 絶対俺を傍に置いていてくれないじゃないですか。俺は逆叉さんの右腕のようになりたいとは思うけど、逆叉さんの嫌がる、逆叉さんのような人にはなりたくないんです。 逆叉さんの一番近くで、役にたてるような男になりたいんです。逆叉さんくらい強くて、仕事もできるようにならないと、逆叉さんは俺を必要としてくれないのなら、俺は逆叉さんくらいになりたいと思います。でも、逆叉さんとは、違った男になりたいんです。逆叉さんが俺を必要としてくれるように。 「必要って、今でも弾よけにはなるんじゃねぇの」 弾よけでいいんです。 「死ぬぞ?」 いいんです。俺は逆叉さんの空気になりたいんです。いつも近くにいて、いつか逆叉さんが吸いこんで、体を動かすために俺を使って、俺は静かに消えていく。そういうものになりたいんです。 「相変わらずキメェな」 言いながらも逆叉さんは嬉しそうに、笑っていた。 - - - - - - - - - - next > |