dream on
八木×逆叉

 その熱せられた仕草に、唾を飲み、飲んだ弾みに状況を理解した。俺は慌て顔を背け逆叉の背から手を離す。仄かなしょっぱさの残る唇を噛んで、俺は口を開く。
「待った」
「は?」
「今のなし」
 ぽかんと大口を開いて逆叉が見下ろしてきた。予想外を絵に描いて、呆気に取られた彼はまじまじと俺を眺める。その視線から避けるように俺は身を捩り、股がる逆叉を振り落とそうとする。足場が揺れて、逆叉は大人しく俺の上から下り脇のカーペットに座り込んだ。視線から逃げるように俺は言い募る。
「すまん、今のなかったことにしてくれ。忘れろ」
「ちょっと」
「本当に悪い。どうかしていた、何やってんだろうな。すまんかった」
「おい、八木?」
 焦る。叱られるのを待つ子供みたく、腹の悪い心地が唾液と共に喉を落ちる。傍に膝をつき、しゃがみこんだ逆叉が俺を見ていた。瞬き少なく、軽く眉根を寄せている。気に入らないことがあるとよく出る、彼の癖だった。
 何が不満だ。何が言いたい。
 舌打ちをして、俺はその眼差しからも逃げる。助けを求めて、床を眺め見た。遠く、座卓の根本にカプセルが転がっている。逆叉が買ってきて、確かに握っていたはずなのに騒動の中でいつの間にか落としたのだろう。赤い球体の中には、皺くちゃのビニールが詰め込まれていて中身がよく分からない。
 張りついた喉の、粘る唾を舌に絡めて、俺は再度言い直した。
「忘れてくれと言っている」
「嫌だね」
 ぴくり、自分の肩が意識のそこで固まるのがわかる。あっさり一蹴した逆叉は、声だけ笑わせていた。俺は言い訳を探す。この男を上手く言い含める言葉を。

 勘違いされては困る。
 明日は休日で、たまたま休みが合って、事務所の連中ばかりでは面白くないからで、こいつが大酒飲みで、部屋のが落ち着けるからで、こいつの気まぐれに抵抗して転んで、偶然、キスできる距離にいたからって。
 馴染みの女とはそういえば最近会っていない。忙しかったし、何となく気が向かなかったからだ。溜まっていたのは確かだった。
 膝を引きよせ、俺は軽く腰を浮かせ座り直す。立てなおすには冷静になる必要がある。つまり、俺は今動揺しているのか。
 一筋縄でいかないのが、逆叉なのだから。俺自身を騙すくらい狡猾でないと、渡り合えないだろう。その抜け目なさを普段は信頼し、同時に疎ましくも思っていた。
「や、こう言うのも悪いが、俺はヤリたくねぇんだ」
「へー」
「お前はそのつもりで来たのか、違うだろ。な?」
 逆叉は、何も言わない。暴力的なことを言っていると自覚していた。どの口が、自嘲をかみ殺す。祈るような気持ちで、俺は横目でその顔を窺った。黒髪が揺れる。腰を浮かせ逆叉はこちらに手を伸ばす。
 次の瞬間には、飛びつかれた。襟首を握られる。殴られると思った。またそれが当然だとも思い、俺はそれを享受した。身を強張らすだけで受け入れる。
 逆叉は、そんな俺に、噛みつくようにキスをした。

 実際に噛みつかれた。ちり、と焼けるような痛みが唇を走り、俺は顔をしかめる。皮膚が裂けて薄く血が滲むが、逆叉はそれに構わず二回、何か言うみたいに唇を噛み合わせた。
 言葉を発しようと開いた唇の、その合間から逆叉の舌がするりと侵入する。熱い、別の生き物のように柔らかな舌は、俺の歯の根を拭い、奥へと進む。
 くちゅり。口内で一度舌が丸まり、唾液の泡が鳴った。甘い水音にぞくりと、背筋が震える。思わず込み上げて、上がる熱と同時に変に冷静になった。
「おい…っ」
 唇は離れる際に淡いリップ音を立て、声が小篭る。熱せられた息を吐いて、俺は逆叉を睨んだ。俺は逆叉の肩を掴んだ。骨張ったスーツの肩骨の窪みに指を立てて、逆叉を引き剥がそうとした。
 力を込めれば、逆叉を遠ざけることなんて容易だ。俺は並み外れて力が強いし、何より逆叉は俺に抗うことをしないだろう。抗う気すら、ある訳がない。
 並大抵でないことはそうじゃなく、もっと切実に、本質を抉るこの黒い目を逸らさせる方法。
 迷った。何を言えばいい、そればかりが脳を占めて、知恵熱で熱い顔を見られたくなかった。
 逆叉の手が俺を探すように腹の上を撫でる。服の上からもはっきりと分かる指の感触にほだされそうで俺は焦った。逆叉の手はゆっくりと下へ下へと撫でる箇所をずらしていき、やがてベルトの下へと至る。
「逆叉」
 俺は短く制止を命じる。なのに、俺の手は逆叉を引き離すことを決断しない。どうにかなったら、どうする気だ。恐れているはずなのに、どこか逆叉の手に焦れていた。
「やめろ。何でもないんだ、俺は全然」
「いいじゃん」
「いい訳ないだろ、そんなのじゃないんだ。本当に悪いが」
「嫌?」
 もうとっくに大人の癖に、まだガキのような声で逆叉は問う。声の弱さに俺は逆叉を見てしまった。三十過ぎた同僚がいくら媚びても気色悪いもののはずなのに、俺はその逆叉の目を見て、即答することができなかった。
 俺は嫌なんだ。未来もない癖に、ただ感傷だけで体を繋ぐことは。心を砕いたとて、何一つ返されることもない悲しみも。俺のことは可も不可もない癖に、俺に体を摺り寄せて泣く、その顔が可愛くて仕方ないことも。俺ばかりが。
 なぁ、逆叉。
 何だか泣きたくなるのは俺だけか。
「お前、不安になるとよく喋るんだな」
 からかう逆叉の言葉を止めたくて、俺は、逆叉に噛みついた。


 体内の精液をかき出すことも億劫に、二人並んで床に大の字に寝転んでいた。情事後の倦怠感に体を支配されて重力がいつもよりかかったかのように、フローリングの上に横たわっていた。うつら、うつら。次第に重くなるのは体だけでなく、眠りへと落ちていく意識の中、俺は眠りたくなくて気晴らしを捜した。座卓の影に転がっていたカプセルを思い出す。俺は手を伸ばして、手探りで球体を捜した。爪先がプラスチックを弾く。隣で天井を見上げていた逆叉が、半分寝ぼけたような声で呟く。
「俺は好きだよ」
 ぼんやりと聞き流して俺はカプセルを握った。腕を持ち上げて天井に翳す。窓から差し込める微かな月光にその形状を確かめ、俺はカプセルを開ける。
 開いたカプセルの中身がぽとりと胸の上に落ちる。
「これ以上無駄なもんなんかないって気がして」
 逆叉は眠るように囁く。
 俺は胸の上のカプセルの中身を拾った。クシャクシャにねじ込められていたビニールを開いていく。
 中身は空だった。
 外れだ。そう思い俺はビニールを丸めて横に放った。中身を無くしたカプセルを、再び合わせ閉じて、これは逆叉の枕元へそっと置いてみる。
「逆叉」
 うす暗がりで隣に横たわる男を呼んだ。あれきり静かになった逆叉を目を凝らし見れば、既に眠ったようだった。すう、と息を吸ったきり、呼吸がどんどん深くなっていく。寝顔には起きているときの鋭さを感じられず、寧ろ無防備な分、少年のような純粋さが見える。
 これでも欲しいと言ってはいけないのか。
 カプセルの上に乗せたままの手の甲に、低い抜くもりが伝わる。触れずとも空気越しに、触れるにはほんのわずか手を伸ばすだけで。それでも。

 明日の朝にはまた他人になる。

- - - - - - - - - -
end.

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