彼の家へ泊めてもらってから5日目。わたしはパソコンの前で白紙のままのワードと睨めっこをしていた。場所は大学、時間は三限目。大学を卒業するためには誰しもが通らなくてはいけない関門、卒業論文である。 今日はゼミナールにて何を題材にして論文を書くのか、テーマを決める日なのだが、何せ何も思い浮かばない。浮かぶことと言えば今夜の献立は何にしようか、ということくらいである。幸村さんの好みは何だろう…お酒の好みは意外と似てるなと感じた昨日。 今日も飲むのかな、そんなことを考えていたからかキーボードが音を立てると同時に画面には文字が羅列されていく。 ハイボール、ビール、餃子、ニラ玉、大根サラダ 居酒屋のようなメニューなのはご愛嬌。最終的に鍋が出てきてしまうあたりズボラな性格の表れとでも言えようか。 そんなわたしの背後にはゼミ担当の教授が画面を凝視していた。まさか見られていたとは思いもよらず、鍋、と打ち込んだ後さらに続ける。 水炊き鍋、キムチ鍋、寄せ鍋、塩鍋…と。
「大塚は鍋で卒論書くのか?」 「へ?!」
怒りを心に隠し、にこりと笑ってわたしを見下ろす教授。怒らない人を怖いとはよく言ったもので。 この教授は怒鳴ることはなく、いつもニコニコしていて優しいと有名な、わたしの大学では人気のある先生である。しかし、慣れ親しんだ者はだんだんと理解する。教授はただ優しいだけではない。いつでもニコニコしているからこそ、心が笑っていない時の張り付けられた笑顔がまた怖いということを。 そして今、先生はニコニコしている。どれも美味しそうだね、とわたしの打った文字を読み上げていく。周りの生徒に目配せすると、あーあと肩を落とす反応を見せられた。
「それで、これのどれを研究するの?」
教授は本気でわたしが鍋で卒論を書くとは思っていない。だからこそこういう聞き方をするのだ、笑顔で。 ごめんなさい。潔く頭を垂れると、残り時間を告げられた。back spaceでワード画面をもう一度真っ新にするとわたしは改めて頭を捻る。 そしてあ、と閃くと勢いよく打ち込み始めた。
「男女の友情は成り立つのか?」 「うん」 「由莉、一言言って良い?」 「なに?」 「あんたバカなの?」
三限が終わり、建物を出ると出くわした友人。彼女もまたわたし同様卒論のテーマを決めていたらしく、自然と話の話題はそっちへとなった。 そしてわたしは鍋から閃いたテーマ、男女間の友情に関してを述べると呆れた顔で返された。 先生と同じような表情をする彼女に、わたしは不服の申し立てをする。 良いテーマだと思っているのはわたしだけなのか。
「どうせ幸村さんのこと考えたんでしょ」
ギクリ。表情に出たのか友人は溜息をついた。どうせ単純な女ですよ、と口を尖らせ拗ねた顔をみせる。 見慣れてると言わんばかりに自然を向けるとバーカと口パクで言われた。酷い友人だ。
もう一度考え直しなさい。これは教授の言葉。 由莉ってユニークなこと考えるんだね。これは同じゼミ生の言葉。 本当にバカだわ。言わずもがな、ズバリとわたしの心情を当てた友人の言葉。 幸村さんに相談してみたら?そして付け足された言葉にわたしは大きく頷いた。
寒い寒いと小走りで家路(幸村宅)へと急ぐと丁度玄関で彼と出くわした。
「お帰り」「お帰りなさい」
お互い微笑み交わしてガチャガチャと鍵を開ける。わたしが、俺がと鍵を出し合う二人の光景に端から見たらバカップルにでも見えるのだろうか。 ただいま、反復した台詞にまだまだ慣れないわたしはくすぐったくて、隣の幸村さんを見上げた。
「今日は、外にでも行く?」
間髪入れずに首を縦に振った。 そしてそれぞれ支度(とは言っても幸村さんは身一つで、わたしも小さなバックに財布とポーチを入れただけ)を終えると近所の手頃なお店の物色に向かった。 幸村さんがここは美味しい、ここは値段だけ、ここはいつも混んでるんだよ、とお店の説明をしてくれる。何を食べようかと、ふらふら歩いてると、目に入った文字に直様飛び付いた。
いらっしゃい、気前の良さそうな板前さんの歓迎を受け、カウンター7席に四人掛けテーブルが二つある小さなお店に入った。 テーブル席はすでに埋まっており、カウンターにも男女のお客が一組。わたしたちはカウンター席に並んで座ると、生中を二杯、そしてわたしが飛び付いた生牡蠣を二つ頼むと他のメニューにも目を通す。
「好きなんだね、牡蠣」
メニュー表をパラパラとめくりながら彼は視線を向けずに言う。
「大好きなんです、見たらどうしても食べたくなって」 「俺、久々に食べるよ」 「そうなんですか?もったいない!ハマると毎日でも食べたくなりますよ!」
思わず力んで言ってしまったことに恥ずかしくなり、乗り出した姿勢を正す。 あはは、と笑う彼の手元に視線を移し、捲るページを眺めていると『鍋』と書かれたページを見て、あ、と思わず声に出してしまった。 思い出したのは卒業論文のことであり。
「ん?鍋食べる?」 「あ、そうじゃなくて、実は今日ーーー」
卒論テーマを決める際に鍋に関するものを連ねてしまったこと。それを見た教授の反応、そして友人から言われたアドバイスを順序立てて説明する。 男女の友情に関することはもちろん伏せておいた。 聞き終えた彼は懐かしいと言わんばかりの表情でそっかあ、と漏らした。 何か言ってくれるものかと思って次の言葉を待つも、それきり何もないので先を促す。
「幸村さんのテーマは何だったんですか?」 「俺?」
この後彼の言った言葉が理解できなかったのはわたしのお頭が足りなかったのか。それとも彼が秀才過ぎたのか、それとも…。 どちらにせよ、幸村さんに卒論のテーマの相談をするということはこれきりしないだろう、ということだけはハッキリとしている。 せっかくだから鍋食べようか、と彼の提案により話題は逸れ、頭に浮かんだ疑問も薄れていった。
『人は神を超えられる−五感を奪うこと−』
後に彼の論文を読破して鳥肌がたったのはまだまだ先の話。 もどる
|