ちらりと隣を見れば眉目秀麗な彼がいる。もやしづくしの夕飯を終え、お酒を片手にテレビを見ていた時だった。大学で散々、それはもう散々「幸村精市」という人物について講義を受けた。いかに有名で、素晴らしい人なのか。 そして光悦と述べた後「そんな人とあんたが」と訝しげな視線を送られたのは言うまでもなく。(そもそも馬耳罵倒の嵐だったのだから視線など痛くも痒くもないのだが)そんな凄い人の家にいて、それもお互い部屋着でお酒を飲んでます、なんて状況に恥ずかしさを覚えるのも当然のこと。 さっきからテレビの内容はおろか、ご飯、飲み物の味すらも分からない程ドキマギしている。今更ながらの緊張感である。
「あ、大塚さん」
そんなもんだからいきなり名前を呼ばれたことにびくりと肩を震わす。 それすらも恥ずかしくて、きっと赤くなった顔を見られないように飲みかけの缶に手を掛けた。 くすくすと小さく笑われた。私の顔が赤くなったのがばれたのだ。この先彼の容姿に慣れなければ1ヶ月も耐えられない。
「明日俺さ、バイトだから夕飯用意しなくていいよ」
私ははーい、と空返事。 尚も笑われ続け、悔し紛れに持っていた缶の残りを一気に飲み干した。一瞬だけクラっとした。お酒の回りが早まる。 そんな様子にまた笑われて、意地になった私は早々に就寝した。おやすみ、その台詞がこそばゆくてまたもや顔が熱かった。そんな熱さを全てアルコールのせいにして眠りについた。
明くる日、講義もなければバイトもない私は近所を徘徊していた。文字通り、目的などなく徘徊。所謂散歩だ。 今晩は自分の分しか作らなくて良いとなると何だか料理をする気分も失せてきて、一人でも入れそうな飲食店でもあれば良いな、そんな風に思っていると、愛用の黒いバッグから振動する携帯。画面を確認すればそこには見知った名前からの着信が表示されていた。
「もしもーし」 「今どこいんの?」 「どこだろうここ…」 「は?由莉何やってんだよ」 「えーと、散歩」
正直に答えると早く来いと呼び出しを喰らう。何でも今日は就職ガイダンスで全員参加が必須らしい。 四年生を目前にして、生々しい社会人の響きと就職活動という困難の道のり。頭の片隅にもなかった二つの言葉がぐるぐる回り、仕方無しにダラダラ歩く先を変える。 幸村さんはどうだったんだろうなあ。1年前自分と同じ道を歩んでいた彼を重ねて、出来の違いに比較にもならないと直ぐに首を振った。
そこまで急ぐこともなく、大学に向かった。きっと電話をくれた友人はおかんむりだろうなあとボケっと考えていたからだろうか、不意に衝撃が全身を襲う。 いっ…声にならない言葉が口をつい出て、痛みのあまりその場にしゃがみ込んだ。柵のようなポールのような。よくある歩道に設置されている物体に体、それも膝を中心にぶつけてしまった。 痛いが文句を言う相手がいない。おまけにすれ違う人達は鈍い音がしたと思えば私が突然しゃがみ込んだものだから好奇の視線を向けてくる。 どうにもいたたまれない。疼く膝を無理やり伸ばして、目と鼻の先にあるキャンパス内へと足を運んだ。
「え?あの幸村精市と同居?!」
昨日の友人と同じく驚いた顔をする彼に私は同じ説明をする。泥酔した私を運び入れて、さらに迎え入れてくれた彼、幸村さんの偉大さを。 ガイダンスを終えた私達は、夕飯がてら大学付近にある居酒屋にて一杯引っ掛けているところである。 どうやら幸村さんの人気は彼にも伝わっているようで、なんでお前が?と納得行かない表情のままビールジョッキに手を掛ける。 理由なんて、私が知りたい。
「一ヶ月間だけだよ、でも」 「それにしたって赤の他人がいきなり同居だろ?お前もしかして……」
友人の危惧する内容が言わずとも分かり慌てて否定する。 それがかえって怪しかったのか、余計に疑われたが事実何もなかったのだからこれ以上言いようがなく、否定の言葉を繰り返した。 男女の関係がある、と思われるのは幸村さんに失礼なのだ。あの完璧な幸村さんに私なんかが安易に触れてはいけない。出会い頭の真意は分からずとも、今は声を大にして言える。 もちろん私にもその気はないが、彼にだってないのだから事実無根なことはしっかりと否定しなければ。そういう思いで首を振っていたら、ここで聞くとは思いもしなかった声が聞こえた。
「そんなに否定されると傷つくなあ」
くすくす笑う彼を見上げる。
「え?幸村さん?どうしてここに…」
私も友人もびっくりして、それはもう目ん玉が飛び出そうなほど驚いた。 ガタッとテーブルか揺れたのが何よりの証拠で、友人の膝が当たったらしい。
「今日はここのヘルプだったんだ」
店長と知り合いらしい幸村さんは正規のスタッフではなく、今日限りのヘルプスタッフだったらしい。 こんなイケメンが店員さんだなんて毎日長蛇の列になりますよ、店長。
「俺もうすぐ上がるけど、大塚さんまだいる?」 「えっと…」
ちらっと友人を見ると口パクでお前も帰れ、と。よく出来た友人を持って私は恵まれている。 ごめん、ありがとうとこれまた口パクで返すと一緒に帰ります!と幸村さんに向き直った。
「幸村さん、それなんですか?」
帰り道、幸村さんの手にはビニール袋が握られていた。タッパーのような物が入っているのが薄っすらとうかがえる。 明らかバイトのための持ち物ではない。
「店長が持って帰れって、賄いみたいなもの」 「優しい店長ですねー」 「あ、そうだ。これつまみにして飲む?飲み途中で帰らせちゃったし」 「え、いやそんな気にしなくても!でも飲みたい、です」 「じゃあコンビニ寄って帰ろう」
些細なやりとり。 それでもそれが嬉しくて、胸の高鳴りをお酒のせいにしながら、緩む頬を引き締めるのも忘れていた。 帰宅早々乾杯、と缶同士をぶつけ合って二人晩酌を始める。これだけ今日という日が特別に感じた。 もどる
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