彼は策士
パタリと愛用のノートパソコンを閉じる。両手を挙げて大きく伸びをすると腰からポキポキと不吉な音が聞こえてきた。体を酷使してる証だ。深いため息を吐いて、日課の散歩に出かけた。日が出てからまだ間もない。先程まで朝焼けの綺麗な光が窓から差し込んできたのを覚えている。この時期の早朝はまだまだ日差しが弱く、程よい外気温で気持ちが良い。澄んだ空気に、さっきまで家の中で悶々としていたのが嘘のように晴れていった。
転職をして在宅での仕事に切り替わってからこうして朝方まで仕事をすることが増えた。深夜の方が集中出来るからと昼間は寝て夕方起き出すという見事な昼夜逆転ぶりで健康にはすこぶる悪い。せめてもの気持ちでとこうして仕事を終えたあと寝る前に軽く散歩をするのを日課としていた。
しんと静まり返る住宅街を私の足音だけが木霊する。一瞬この世で人間が自分ただ一人だけになったような錯覚を覚えて、なんとも言えない気持ちになるのだがそれも本当に一瞬で終わる。目の前から茶色い髪をゆっくり吹く風に靡かせた彼がやってきたからだ。
「おはよう、不二くん」
「やあ、お疲れ様」
Tシャツにハーフパンツを履いて首にはハーフタオルを下げて爽やかな笑顔と共にやってきた彼は、近所に住んでいるらしい。名前を不二周助と言い、こうして散歩をする度幾度となく偶然会い、そして自然と言葉を交わす関係になっていた。不二くんは容姿端麗で、仕事明けの私には少し眩しいくらい。そのため目を細めて彼を見つめた。
近くの公園に入って手頃なベンチに腰掛ける。横にある自販機でお茶を買うとそれをお供に少し談笑をするのがいつもの恒例だった。そんな彼との出会いもはたしてどのくらいになるのか……そんなことを考えていたら不二くんは不思議な顔をして私のことを下から覗いてくる。そんな彼にどきりと心臓が跳ね上がったのは言うまでもなく。
「どうかしたかい?」
「はじめて不二くんと話したときのこと考えてたの」
「そう」
「偶然とはいえ、何度もあったりして世間って狭いよね」
「君は本当に偶然だと思ってるの?」
突然不二くんは声色を変えて、真剣な眼をしてこちらを見つめ返した。
「だって偶然以外考えられないよ……?」
「うーん、もう少し時間をかけてと思ってたけど、僕も考えが浅かったかなあ」
「え?」
彼は苦笑をしたかと思えば、ベンチの上に置いていた私の手を上から重ねるようにぎゅっと握ってきた。吃驚して手を引こうとするが彼の強い力にそれはびくともしなかった。
「僕は偶然なんてないと思ってるんだ。偶然に見えてそれは作られたものかもしれないよ?」
「えっと、それはどういう……」
「君は警戒心がなくていけない。だからこそ僕は君に近づけたわけだけど」
不二くんの言ってることが分からず、私はどんどん早くなる心臓の音に冷静を保っているだけで精一杯だった。
「僕がこの時間に走ってる理由、わかる?」
「空気が綺麗だから……?」
「うん、それもあるね。でももっと大きな理由」
考えても分からなくてかぶりを振る。今日の不二くんは何だかいつもと違うのは確かで、それが良いのか悪いのか私のドキドキは止まらない。
「君がいるからだよ」
「え?」
「君がこの時間はいつも散歩をしている、それを知ったからだ」
「何を言って……」
「だから僕は、君に会いに来てるんだよ」
ぎゅっ。さらに重ねられた手に力が篭ったのが分かる。
「この意味、分からないかな?」
風が吹いた。それが私の頬をさらりと撫で、彼の髪を綺麗に揺らめかす。暫し沈黙が続いた。早朝の公園には私と不二くんの二人きり。時折吹く風の音と、ささやかな鳥のさえずりだけが二人の間に響き渡った。
私は不二くんの真剣な眼差しから視線を逸らすことも出来ず、予想もしていなかった言葉にただただ混乱するばかり。
「はっきり言わないと分からない?」
不二くんは私の返答を待たずに言った。
「君が、好きなんだ」
それは私達の関係が新しくなる、始まりの言葉だった。

奥山ゆう /
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