珈琲の味
カタカタカタと業務音が発せられるオフィスからは、次第に人影が減っていく。昼間は騒がしかったこの空間も、外が真っ暗になるにつれ静まり返る。

「名前さん、帰らないんですか?」

「今日中にやらなきゃいけないやつだから、終わらせてから帰る」

視線はパソコンに向いたまま、私は答えた。手元と視線を必死に動かす。
私用で残るわけだから勿論残業代など出ない。ならば早く終わらせて帰りたいのも当然だ。

「ああ、今日遅刻してましたからね」

「まあ、ね」

「クビにならなくて良かったですね」

「全くだよ」

遅刻厳守。入社1日目から言われ続けてきた言葉。朝に弱い私だけど、何とか目覚ましを多数かけることによって、「遅刻をしない」それは実行に移されていた。
だが、今日は昨日から本日の早朝にかけて騒いでいたせいか、目覚ましをかけ忘れ、寝ぼけた目をこすりつつ見た時計の針は、私が入社しなければならない時間よりも1時間後だった。

「あの形相に部長もびっくりしてましたよ」

「それだけ必死だったのよ」

「一瞬時間が止まりましたからね」

「自分でも今日は失態だと思ってるわよ」

家にいた段階で大幅に遅刻していた私は、更に運が悪いことに事故に巻き込まれてしまった。と言っても大きい物ではなかったが、乗っていたバスは暫くその場に留まることに。
このままでは駄目だと近くの駅までダッシュ。ただでさえ遅れていたのに、このせいで莫大な時間を費やしてしまい、もう何と言い訳しても仕方ないくらいの時間になってしまったのだ。

「あ、そこ変換間違ってます」

「ああ、ありがとう。ってあんたいつの間に後ろに」

「…………」

さっきは横から聞こえてきたはずの声が突然頭上から降ってきた。
驚いて振り返れば意外と近くに無表情の顔。睨んでいるとも取れるその視線に、私は小さく溜め息をついて再びパソコンに向き直った。

「あ、また誤変換」

「…………」

休憩無しのぶっ通しでやっているからいい加減疲れてきているのだろう。このままでは後でチェックを入れる時、少々面倒なことになる。
少し休憩を挟むかな。

「…やめるんですか」

「少し休むだけよ。若もコーヒー飲む?」

「いえ、俺は帰りますから」

「え、手伝ってくれないの?」

「は?」

たった一つの文字に「何で俺があんたの仕事を手伝わなきゃならないんだ」と言う意味が篭られているのが分かった。理由は眉間に物凄い勢いで皺が寄ったから。
私はその顔を見ながら、ああ、昔からこいつはこういう奴だったなと納得。日吉若と言う名前の、歳は一つ下の男後輩。
小、中、高、大と卒業した所が同じで、言わば腐れ縁と言えなくもない。が、学校がエスカレーター式だったので何とも言えない。果たして言葉の意味に当て嵌まるのだろうか。

「それはそうと名前さん」

「なに?」

「今日部長が………」

「…………」

「すいません……やっぱり、何でもないです」

私達の部長は私がお世話になった学生時代の先輩。大目に見てくれるのは、今回だけだ。私がクビを免れたのは功績が素晴らしいとかではなく、ただの部長の優しさから。
だから私は部長の、先輩の優しさを無駄にしない為にも……。とにかく今は目の前の仕事を片付けるしかない。
若の言いたかったことは何となく分かる。部長の言ったことなんて目に見えている。だから若が気を使う必要は無い。
そう思ったけど口には出さなかった。目を泳がせて別の話題を必死に探している若の姿が可愛いと思ってしまったから。

「えっと…今度社員旅行があるそうですよ」

「ふーん」

「興味ないんですか?」

「多分私、行けないから」

「………そうですか」

「若は楽しんでおいでよ」

「俺は元々行く気なんてありませんから」

そう言うと、若は今度こそ「失礼します」と言ってこの空間から出ていった。私はカウンターにある煎れたてのコーヒーを持つと自席に座り、もう一度と手と目を動かす。
ここから一気に仕上げよう。両頬を手の平で叩き、気合いを入れた。

「ふー………」

何時間たったのだろう。まだ外は暗いようだから夜は明けていないのだろう。
大きく伸びをしてから何度煎れたか分からない上に、途中で飲まなくなって冷めたコーヒーを一気飲みする。本当はコーヒー飲めないんだよな、私。などと思いながら苦さに顔を歪めた。
誤字脱字のチェックをしたら終了。何とか間に合った。後はディスクに保存してコピーして……。
ちらりと、部屋の中心の柱にかかる時計を見れば日付が変わる時刻から1時間後。深夜1時。もっと経っていると思っていたが意外と早く終わったようだ。

「………トイレ、行ってこよう……」

急に寒気がした。夜はたとえ室内でも良く冷え込む。それに眠気覚ましにコーヒーを沢山飲んだからな。口の中が苦いったらありゃしない。
ジャーと言う水流音を聞きながらオフィスへと戻る。何か口直しになるものを煎れよう。確か、この間お土産に貰った紅茶があったはず。

「は、」

「ああ、お疲れ様です」

飲みますか?なんて言いながら湯気のたったカップを持ち上げる一人の男。若だ。
あの時帰ったはずの若が何故かキッチンから出てきて、手には赤茶色をした液体が入っているカップを持っている。

「な、んで……」

「忘れ物があったので、」

「ずっといたの……?」

「いえ一度帰りました」

信じられない。もしかしてこれは夢じゃないだろうか。疲れすぎて夢と現実がごちゃごちゃになっているんじゃないだろうか。
目の前の若はバツが悪そうな顔をしながら私の机に紅茶を置く。私は自分の頬をつねってみる。痛い。これは現実だ。

「よく寝ませんでしたね」

「え、うん、まあ、」

「後はチェックだけですか」

「あ、うん、そう、ね」

短い言葉なのにつっかえるから、しっかりとした会話に成り立っていない。でもこの状況を動揺するなと言うには無理がある。
あの時帰った若が、何故か今ここにいる。何故か紅茶を煎れてくれている。何故か私の椅子に座ってチェックをしている。

「名前さん、誤変換酷いですよ」

「え、嘘!」

けっこう注意を払って打っていたつもりだが、普段から持たない私の細心力は限界を切っていたらしい。
もしかしてコーヒーは頭に良くないんじゃないだろうか。

「それ飲んだら早く終わらせて下さいよ」

「え、」

「早く飲まないと冷めますよ」

「ああ、うん…」

少々熱いそれは冷えた体には丁度良かった。温まると同時に何だか嬉しくなる。人が煎れてくれた物って、たとえ同じ物でも自分が煎れたのよりも数倍美味しく感じる。
私が笑うと気持ち悪いと言われた。そして笑ってないで早くやれと。

「待っててくれるの?」

「こんな時間に一人は危ないでしょう」

「うん…」

「だから早くして下さい。明日も早いんですから」

「……ありがとう」

小さく呟いた。聞こえたがどうか分からないけど、若の顔がほんのり赤らんだからきっと伝わっていたんだろう。
本当に忘れ物なのか、もしくは私のためなのか、はたまた部長に頼まれでもしたのか。何にせよ、嬉しかった。若が来てくれたことが。



大人になった君の横顔を見ながら私は思った。中身は昔から何も変わってなかったな、と。

「社員旅行やっぱり行こうかな、」
「……何ですか突然」
「若も行こうよ。きっと楽しいよ」
「名前さん、が…行くなら行きます」

奥山ゆう /
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -