気のせいかと思って、グレイはジョッキを持ち上げた。しかし再度、それは聞こえてくる。
「グレイ」
蚊の鳴くような、というのがぴったりの声量で、耳元でもないのに囁かれている。自分の名前でなければ、絶対に気付かなかっただろう。
グレイはまさか、と思って隣のジュビアを見下ろした。とうとう様付けを止めたのか。そしてそれを練習しようとでも言うのか。いや待て待て、それでなんでオレがこんなに動揺しなきゃなんねえんだ――。
しかしジュビアには取り立てて恥らう様子は見られなかった。頬を赤らめてもじもじと指を弄ってはいるものの、それはいつもと同じ。
「おい、グレイ」
もう一度聞こえたそれに、なんでジュビアだと思ったんだろう、と自分に呆れた。どう聞いてもナツの声だ。
八つ当たりするように低く唸る。
「んだよ」
「はい?」
「いや、お前じゃねえよ」
ジュビアが首を傾げる。きっと、彼女には聞こえていなかったのだろう。グレイはナツを視界に入れようと後ろを振り向いて――
「あん?」
かくり、と視界が斜めになった。
居ない。
いよいよもって空耳かと疑い始めたが、前に目を戻す過程で桜色を発見した。思わず二度見する。
「なにやってんだ!?」
テーブルに隠れるようにして、ナツがしゃがみこんでいる。彼は目から上だけを覗かせて、か細く鳴いた。
「ちょっと良いか?」
「お、おう?」
ルーシィは揶揄するが、グレイは自分のことを面倒見が良いとは思っていない。相手が何かと衝突の多いナツなら尚更、理由不明の用事に応じてやる義理などない。
しかしそんな彼でも、今のナツは放っておけないと思った。普段無駄にやかましい口は注意しないといけない程度にしか音を出さず、ツリ上がった双眸には光がない。
不思議そうな顔をするジュビアをちらりと確認してから、グレイは彼に対するものとしては異常なほど優しい声を出した。
「どうしたんだよ?」
ナツは泣きそうな目をした。
「ルーシィに、聞かれたくねえ」
こんな酒場のど真ん中で男に泣かれても対処に困る。グレイは慌ててギルドの出入り口を指した。
「出るか?」
ナツは無言でこくん、と頷いた。
幸いにして、ギルドの裏には誰も居なかった。
グレイは適当な岩に腰掛けて、とぼとぼと後ろを付いてきたナツを見やる。
「で?」
仲間達の中でもナツは小柄な方だが、今はより小さく見える。彼は丸くなった背中をゆるゆると伸ばすと、下唇を噛んで右手を持ち上げた。
「これ」
その手のひらに、炎が点る。ナツと付き合いの長いグレイには、何千何万回と見慣れた光景――のはずが。
「んだ、そりゃあ。トカゲの炎か?」
「トカゲは火吹かねえよぉ…」
ナツがその場に蹲った。両腕に顔を突っ伏してしくしくと泣き出す。
お世辞にも火竜の称号は得られそうにない。
ナツが出したのは、マッチの火にも劣るほど、弱々しい光だった。