講義から帰ってきたルーシィに頼んでみると、快く、とはいかなかったが、首を縦に振ってくれた。ナツは嬉しくて、教授室に響くような声を上げた。
「サンキュな!やっぱお前、良い奴だ!」
「ちょ、」
近寄ると、やはりルーシィは後ろに逃げていく。ハッピーの言う通り、トラウマと言う奴なのだろうか。不憫な奴だな、と思いながらナツはスピードを緩めて距離を詰めた。
「触るぞ」一応言ってから両肩を掴むと、ルーシィが慌てたような声を上げた。
「へ?ちょ、ちょっと!」
「なんだよ、ゆっくりなら良いだろ?」
目を泳がせるルーシィに首を傾げて、ナツはふと、その瞳が思ったよりも近くにあることに気付いた。
あれ、オレ…どうしてルーシィに触ったんだっけ?
嬉しくて近寄ったが、どうするつもりだったのか、わからなくなっていた。そもそも触るつもりなど無かったような気がする。ルーシィが怯えるからだ、と責任転嫁して、思考に溺れて失った焦点を合わせると、目の前の表情に変化があった。
「――…」
じわり、と大きな目に涙が浮かんできていた。それを認めて、つきん、と胸に痛みが走る。
怖がんなよ――。
それ以上どうすることもできずに、宥めるように肩を叩いてやった。
「よし、行こうぜ」
離した手からはぬくもりが失われ、ナツは切なくなった。視線を落とすと、ハッピーが何か言いたそうに足元から見上げている。それに嫌な予感がして、肩の上に乗せると一人そそくさと先に部屋を出た。
ぱたん、と背後で扉が閉まる。
「…なんか言いたいことあんのか?」
小声で訊いたがハッピーはにやりと笑っただけで何も言ってくれなかった。
「グレイ・フルバスターだ。迷惑かけたみたいで、すまなかった」
「ルーシィ・ハートフィリアよ。その様子じゃ、ご存知のようだけど」
ルーシィに頼むってことはグレイに会わせるってことだった。ナツは警察署の前で二人の握手を見ながら、今更ながらの認識に目を細めた。
まぁいいか。どうせフェアリーテイルに連れて帰ったら、会うことになんだし。
なぁ、と目でハッピーに語りかけたが、視線を受けた青い猫は肩の上で首を傾げた。
と、ナツの腹が空腹を訴えてぐぅ、と鳴る。ルーシィの瞳がぱちくり、と動いた。
「え、もうそんな時間?」
「…オレ時計じゃねぇんだけど」
「礼もしたいしな、なんか奢らせてくれよ」
「え…あー…そう、ね。じゃあお言葉に甘えようかしら」
「お、飯か!」
「にゃー!」
「おい、お前らは、」
「え、一緒じゃないの?」
嫌そうに眉を顰めたグレイを遮って、ルーシィが頭を傾けた。じっと見つめる視線に折れて、渋々両手が上がる。
グレイと二人きりになることを避けたルーシィに、ナツの口角が上がった。
「トラウマも役に立つことあんだな」
「は?何言ってやがんだ?」
「何じゃれてんの。お店はあたしの知ってるとこで良い?そんなに高くないから」
ハッピーがナツの肩から下りて、ルーシィの足元に擦り寄った。
昨日と同じレストランで、厚切り肉を咀嚼する。ナツは向かいのルーシィがグレイを観察するように眺めているのに気付き、軽く眉根を寄せた。
グレイの野郎、何照れてやがんだ。
付き合いの長いナツだからこそわかる。グレイは気付かないフリをして水の入ったグラスを揺らしていたが、ほんの少しだけ頬を染めて隣の金髪に視線を向けた。
「なんか付いてるか?」
「あ、ごめん。何時脱ぐのかな、と思って」
「は?」
「呼吸をするように脱ぐって聞いたから、そんなことになったらすぐ止めないと、と」
「…てめぇか、変なこと吹き込みやがって」
じろり、とグレイが睨んでくる。その通りだろうが、と言い返してやりたかったが、口の中は肉でいっぱいで、すぐには言葉が出なかった。ナツは急いで飲み込もうと、顎を高速で動かした。
「コイツの言うこと、信じない方が良いぞ」
「そうね」
「聞こえてんだからな」
ようやく嚥下して、完結しようとした会話に滑り込んだ。ルーシィの瞳がナツを捉える。
あ。こっち見た。
それまでグレイに注がれていた視線が数秒だけナツに向けられる。すぐに隣に戻って――ルーシィはグレイと目を合わせて、くすり、と笑った。
フォークが、手から零れるように滑り落ちた。
かちゃん、と皿の端に当たって、音が響く。
「どうしたの?」
「…別に」
淡かったが、ルーシィの仮面ではない、嘘ではない笑顔を、ナツは初めて見た。優しくて自然なそれは、彼が引き出したかったものに他ならない。しかし。
その相手が――グレイ。
笑ったなら、いいじゃねぇか。
思いつつも、ナツの胸はむかむかしてすっきりしないままだった。
多少目付きが悪いことは自覚していたが、露出狂よりはまともな人間である自信があった。それなのに、ルーシィは決してナツには向けなかった笑顔を、いとも簡単にグレイに披露した。
グレイはいつも横から掻っ攫っていく。ナツは大切な宝物が盗られたような気持ちで、ブロッコリーにフォークを突き刺した。
ルーシィがハッピーを構いながら、思い出したように暇を告げた。
「あたし、そろそろ大学戻らないと」
「ああ、ありがとうな」
「お代、本当に良いの?」
「礼くらいさせてくれよ」
「じゃあお言葉に甘えるわね。ごちそうさま」
ルーシィがそこまで言って、ひゅ、と息を飲んだ。ナツは最後のニンジングラッセを口に入れて、何事かと顔を上げる。
「い、何時脱いだの!?」
「うぉ!?」
グレイはいつものように上半身裸になっていた。ルーシィが慌てて顔を背けて、かぁ、と頬を赤く染め上げる。
そういえば新入りは皆こんな反応するよな、と思い出す。ナツはルーシィの認識を固めるように、言葉を発した。
「な、いつの間にか脱いでるだろ」
「よく考えたら、また何かしでかしたらあたしの責任問題になるんじゃないの?」
「も、もうしねぇよ」
「どうだかな」
「えー、ちょっとぉ。勘弁してよ、グレイさん」
「ん、グレイで良い。…ルーシィって呼んでも良いか?ラストネーム、呼び難くてよ」
「うん、あたしもね、ラストネームで呼ばれるの、嫌いなんだ」
「そうか。よろしくな、ルーシィ」
「こちらこそ。くれぐれも脱がないでね、グレイ」
二人のやり取りを見ながら、ナツは首を傾げた。
オレ、ルーシィに名前呼ばれたことねぇな…。
今グレイがナツの名を呼ばないのは、偽名を使っていることを配慮してのものだろう。細かいところに気が回るのは、やや完璧主義の気があるグレイの長所である。恐らくルーシィに合わせようとしているのだろうが、彼女はナツに呼びかけるときは常に「あんた」だった。
ハッピーはハッピー、グレイはグレイ。オレはあんた、か。
自分一人だけが違うことに特別扱いされたように感じて、ナツはにやり、と笑った。ルーシィの笑顔一回くらい、グレイに譲ってやろうという気になる。
ルーシィが立ち上がったのに合わせて、ナツも席を立った。
「じゃ、大学行くか、ルーシィ」
「はい?」
ルーシィがぱちくり、と瞬きした。その瞬間、家に上げてくれたら帰る、と宣言したことを思い出す。
「え、だって、あんたら昨日、」
「あれは無し」
「はぁ!?」
ばっさりと切り落として、ナツは彼女のバッグを掴んだ。有無を言わさずこのまま押してしまえば、ルーシィはきっと表面上呆れながらもナツ達を許容する。
素直に受け入れてくれれば一番良いが、ルーシィはそうはしないだろう。
そして、自分達の見えないところで、あんな寂しそうな顔をするに違いない。
「おい、てめぇ」ナツの背中に向けてグレイが唸った。
「オレが奢んのはルーシィの分だけだ。自分達の分は払ってけよ」
「オレだってルーシィ連れてきたじゃねぇか。ケチケチすんなよ、氷野郎」
「氷?」
ルーシィが不思議そうな声を出したのを聞いて、軽く血の気が引いた。しかしナツが誤魔化すより先に、グレイがフォローする。
「人を冷酷人間みたいに言いやがって」
素直にすげぇな、と思うしかなかった。思わず振り返ると、グレイは苦々しい顔でぴっぴっ、と追い払うように手を振った。
「…今回だけだからな」
渋々告げられたそれは、余計なことを言う前に帰れ、と語っていた。