「自由過ぎでしょ!?起きて!」
「んー…」
「みー…」
押し切られて再び家に入れたのが間違いだったのかもしれない。トイレに行って戻ってくると、少しの間だったはずなのに『ファイ』とハッピーはソファで眠り込んでいた。がくがくと肩を揺さぶりながら、ルーシィは段々と目が潤んでくるのを自覚した。
「嘘でしょ…帰らない気…?」
ルーシィの部屋は広めだがワンルームで、どうしたって同じ空間での寝起きとなる。年頃の男女としては、有り得ない。
しかし起きる気配のない一人と一匹に、もうどうにも出来ずにくらりと目眩がした。深い眠りに陥っていることを確認して、諦めて風呂にお湯を溜め始める。部屋着は肌の露出し過ぎないものを選んで――。
「なんであたしが気ぃ遣わなきゃならないのよ」
一人ごちたが、手は言葉とは裏腹に動く。ベッド下の引き出しから薄手のタオルケットを出して、優しくソファの上の客達にかけてやった。むにゃり、と『ファイ』の頬が綻んだ気がして、ルーシィの頬も自然に緩む。
「ったく…」
彼らに呟いたはずの言葉は、許してしまう自分自身に跳ね返った。
風呂から上がっても、ソファには全く変化がなかった。
ルーシィはちらりと目をやってから、明かりを一段階下げた。
薄闇になった部屋で机のライトを付け、本を広げる。正義感が強くて仲間思いの主人公が、魔法を使って困難を切り抜けていく――なんの変哲もないファンタジー物だったが、ルーシィは作中で説明される魔法理論に興味を引かれていた。
「――…」
文字を指でなぞりながら本の世界に集中していると、
「何読んでんだ?」
「っ、わあっ!?」
「おあ、ビックリした」
いつの間にか横から、『ファイ』が覗き込んでいた。ルーシィの上げた声にさほど驚いたようにも聞こえない声音で返しながら、意識を本に向けている。
「お前ホント、本ばっか読んでるよな」
「…昼間のは仕事。これはプライベート、よ。てか、起きたなら帰って」
「冷酷だな」
「随分な言われようじゃない…」
『ファイ』は机の横にしゃがんで両肘をつくと、その上に顎を乗せた。本とルーシィに順番に目を走らせて「どんな本なんだ?」と訊いてくる。
「興味あんの?」
「ねぇけど…。別にいいだろ、教えてくれても」
どこか不貞腐れたような表情で目を逸らす『ファイ』が、可愛く思えた。ルーシィは人差し指をくるり、と回して、本のページを弾いた。
「ファンタジーよ。よくある魔法対戦物っていうか…でも、この本、その魔法に具体性があるの。登場人物の心理も細かく描写されていて…」
お気に入りの本についての会話に、ルーシィのテンションが上がってきた。弾む声音を自覚しつつも「例えばね、こことか、」と示す。『ファイ』はやはり興味が薄いのか本よりもルーシィに視線を注いでいたが、気にもならなかった。
一人白熱して、ルーシィはぺらぺらと喋っていく。
「想像力だけでここまで書けちゃう作者って凄いと思わない?だけどさ、あたし、魔法って本当にあると思うのよ」
「…へ?」
「だって、世の中って解明されていないことばっかりなのよ?錬金術師とか、東洋の陰陽師とかだって、歴史的に見ても存在していたことは明らかだし、彼らが偽者だなんて、誰も証明できないもの」
そこまで言い切って、『ファイ』の呆然と開けられた口を見て。ルーシィは血の気が引いた。
「あ…えと…」
ルーシィだって、会ったばかりの人間がこんなことを言い出したら、胡散臭いと思うだろう。やってしまった、と思いながら、緩みすぎた気を結ぶように唇を噛んだ。
今まで、ちゃんと隠してこれたはずなのに。
警戒しなさすぎ――こんなことは、初めてだった。
「ぶ、くくく」
視線を落としたルーシィに、笑い声が降ってきた。笑われた、という事実に、心が重くなる。だが、『ファイ』は笑いながらルーシィの予想とは違った反応を見せた。
「お前すげぇな!うん、すげぇよ!」
心底嬉しそうに、『ファイ』が目を細めた。軽く上気した頬が、興奮を伝えている。
何故か喜んでいる『ファイ』の理由に思い至らなくて、ルーシィはぱちくり、と瞬きしてから、低く呻いた。
「…バカにしてる?」
「してねぇよ。ホントお前、すげぇわ」
言って、右手がす、と持ち上がった。ルーシィがそれを目で追うと、
「触るぞ」
「え?」
サイドに垂らしていた髪を、無造作に耳にかけられた。『ファイ』はその動作の延長でルーシィの頬を一撫でして、手を下ろす。
ルーシィは擽ったさに片目を瞑って、その感触に耐えた。顔が赤くなったことに、気付かれなかっただろうか。悲鳴というほど急激なものではなかったが、穏やかに、心臓が鳴き声を上げる。
『ファイ』が日向ぼっこ中の猫みたいに、幸せそうに笑った。
「やっぱお前、いい奴だ」
「何言ってんのよ…」
桜色の髪が、ナチュラル色の蛍光灯に透けてきらきらと輝いて見えた。
『ファイ』は立て肘の上に顎を戻すと、子猫でも見るような目でルーシィを見つめ、口元を笑みの形に引き上げたまま瞼を下ろした。
「オレ、」
まどろみの中にいるような、とろけた声音だった。どくん、と鼓動が跳ねる。「何…?」自分の声が期待に満ちているのに気付いたが、ルーシィは赤面も忘れて『ファイ』の言葉を待った。
マフラーの中に落ちそうな唇が、紡いだ続きは、
「眠ぃ…おやすみ」
「は…?」
言うが早いか、『ファイ』は机にぐったりと突っ伏した。ずるずると、その身体が床に崩れるのを見送る。
何を、言われたかった?
「…あたし、バカ…?」
ぎ、と鳴った椅子だけが、ルーシィに答えた。