「で、これは一体何なんだ?」
「幽兵ってやつだよ。実体の無い魔導士みたいなもの。きっとナツのマフラーに埋め込んだ魔法の鍵を狙ってきたんだ」
ゆらゆらと揺れる黒い何かが振り下ろしてくる鎌を姿勢を低くして避けながら、ナツは危機感の薄い声でハッピーに訊いた。
「実体が無いって…当たっても大丈夫なのか?」
「ううん、死ぬよ」
あっさりとそう告げて、ハッピーは幽兵とやらから距離を取った。黒いフードの中から落ち窪んだ目を覗かせたそれは、身を翻した茶虎の猫には目もくれずにナツのみを狙っている。
ナツがハッピーと誰もいない丘の公園にやってくると、上から幽兵が降ってきた――ように見えた。
実際は暗いこともあってどこから何が出現したのかはわからなかったが、ハッピーが避けろというのでとりあえず反射的に後ずさった。靡いたマフラーが間一髪で鎌に突き刺さるのを回避する。
ナツは持ち前の動体視力と運動神経を生かして、幽兵の脇腹に蹴りを一発叩き込んだ。目立つ桜色の髪と鋭い吊り目の所為で、他校の生徒から喧嘩を買いまくっている。一般生徒よりも実戦経験が豊富で、刃物相手でも度胸が据わっていた。
幽兵が取り落とした鎌を奪って、蹴りと同じ位置を狙って柄が当たるようにスイングする。と、
「うぉっ!?」
手に持っていたはずの鎌が忽然と消え、ナツはたたらを踏んだ。幽兵の右手に鎌が握られているのを見て、傍観を決め込んでいる猫に向かって叫ぶ。
「ずりぃよ、コイツ!」
「変身しなよ、ナツ!丁度良い試し相手だよ!」
「あー…忘れてた」
ハッピーの視線が責めるようなものに変わった気がしたが、それは気にしないようにして、幽兵から大きく後ずさる。
マフラーに集中、だったよな。
集中しようと目を閉じる寸前、幽兵の姿が掻き消え、目の前に出現した。
「うあっ!?ちょ、ちょっと、待てって!」
「ナツ!」
鎌が空気を薙いだのを見て、ハッピーが慌てて青色に戻る。いざとなったらナツを連れて逃げなくてはならない。
しかし、視界には無事に地面を転がるナツの姿があった。
「おわ、あっぶね。なんだよ、コイツ足もねぇのか」
上体をぎりぎりで反らし鎌を避けると同時に足払いをかけたのだが、それはなんの手応えも足応えもなく、ナツはほぼスライディングのように幽兵の下をすり抜けていた。
変身するまでの時間が惜しい。どうしたもんだか、と考えていると、ハッピーがとと、と幽兵の前に出た。
「時間を稼ぐから、早くね」
ハッピーは背中に天使の羽のような真白な翼を生やすと、ふわ、と空に舞い上がった。幽兵が初めて、その目にハッピーを映す。
ナツは3歩後ずさると目を閉じて、変身を念じた。ハッピーが何をするつもりかわからないが、早くしないと。
ハッピーがアイツをのしちまうかもしれねぇ。
売られた喧嘩を誰かに代わってもらうのは、プライドが許さなかった。
すぐに光が全身を覆い、さきほど自分の部屋で見た服装がナツを包む。
「よし!ハッピー!退け!」
幽兵に向かって駆け出すとマフラーが靡く。不思議なことに、敵を前にすると何をすれば良いのかわかるようだった。
ナツは右手に力をこめて拳を握る。熱を持つそれは早く解放されたがっているようだ。
ハッピーがすっと飛び上がり、幽兵がそれを追うように視線を上に向けた。
チャンス、と思った瞬間、拳がぼっと燃え上がった。熱い、と思う間もなく、ナツは炎ごと幽兵の腹に叩き込む。
ぼしゅ!
一瞬で幽兵の体を包んだかと思うと、炎はすぐに消えた。同時に、幽兵も跡形もなく消滅している。
「ん?何処行った?」
「倒したんだよ」
あまりの呆気なさに周りを見回しながらナツが言うと、どこかぼんやりと、ハッピーが返答した。視線は今しがた繰り出した右の拳に固定されている。
「どうした?」
「今の、もう一回出来る?」
「んー」
要請に応えて、ナツは握った拳を胸の前に掲げた。さっきと同じように、熱が巡っている。
「こう…か?」
解き放つようにイメージすると、容易くそれは炎を纏った。
熱はさほど感じない。まるで、体が炎に耐性を持っているようだった。
「攻撃力が上がるみたいだね。肉弾戦重視の魔法かな」
まじまじと見つめて、ハッピーの瞳の中で炎が燃える。ゆらゆらと形を変えるそれがナツにはなんだか誇らしかった。
炎を消すと、再び公園は暗闇と静寂に包まれる。遠い外灯が余りにも頼りなく見えた。
「炎か…いいじゃねぇか」
「もう少し試してみる?」
「んー、なんか今日は色々あり過ぎて疲れちまったし、続きは明日だな」
「良かった。オイラももう眠くって」
目をこする青い猫に、苦笑が漏れる。変身を解くために目を閉じ、一呼吸でそれを終えると、ハッピーは茶虎になってナツを見上げていた。
「よし、帰るか」
「あい!」
ととと、と先導するハッピーの後ろを付いて歩きながら、ナツはふと疑問を投げかける。
「おい、お前、オレん家で飼われるつもりか?」
「飼うって酷いよ、ナツ。これからは使い魔なんだから、一緒にいるのは当たり前でしょ?」
「…そうかよ」
嘆息してみせたものの、ナツは嬉しかった。一人きりの家は大きすぎる。隣に行けば誰かしら居るだろうが、そこは自分の家ではない。自分の居場所ではない。頼りすぎるのも、甘えすぎるのも空しいだけだった。
「よろしくな、相棒」
笑ってみせるとハッピーが嬉しそうに振り返った。
家に着く一つ前の角を曲がったとき、何かに盛大にぶつかった。
「おわっ!?」
「きゃぁっ!!」
夜中に聞こえるにはまずいだろう叫び声に、ナツは慌ててぶつかってきた何かが倒れないよう手を伸ばす。
背中を支えると、至近距離で瞳がかち合った。見慣れない距離での大きな瞳に、ナツは思わず息を飲む。
「あ…ありがとう」
それはナツと同じくらいの年頃の、女だった。街灯に照らされた金髪が、さらりと肩口に流れ落ちる。
「お、おう…」
手を離してそっと距離を取ると、女はナツに軽く会釈してからナツが歩いてきた方向へとヒールを鳴らして走り出した。
「走ると危ねぇぞ!」
そんな声をかけたのはどうしてだろう。髪の靡く様子に目を奪われて、その背中を追ってしまっていたからだろうか。
近所迷惑だな、と一人苦く自分の行いを省みると、女がくるり、と振り返った。
「ありがとう!」
迷惑?何それ美味しいの?と言わんばかりの大声を上げて、女が手を振る。
すぐに前を向いて走り出した背に、ナツは小さく手を振った。
「可愛い子だったね」
「…そう、か?」
正直、そういう評価はナツにはわからない。リサーナだって、今年の新入生で一番可愛いと噂されているらしいが、ナツにとってリサーナはリサーナだった。
女の背中に触れた左手が、妙に温かい。
ナツは両手を頭の後ろで組んで、家路を再び歩き出した。