金網の中の猿<壱> 鴉が死にかけていたであろう蜥蜴を丸のみしていた。死んでいた方が美味しいのだろうか、生きていた方が不味いのだろうか、味はどのようなものであろうか。何故それを食べたのだろうか、食べる意味と等しく見合う価値はあったのだろうか──。 何だか騒がしい八木邸の広間へ呼ばれると、其処には江戸へ帰った筈の佐々木只三郎が居た。 二カ月程前、将軍上洛のための治安維持を目的に江戸で結成された浪士組を率い、お目付け役であった彼も入京していた。しかし、本来の目的は攘夷の先兵となることにあると宣言し、策謀を豪語した清川八郎と共に再び東下したと聞いた筈であったが。 (文久三年四月十三日、麻布一ノ橋で清川八郎は見事に惨殺されている。) 部屋の中心に居る佐々木とちらりと目が合ったと思えば、彼はいつも作る悪戯な笑顔で「京が名残惜しくなっちゃって。それから、親愛なる斎藤君に会いに来たんですよ本当は」と、廊下に立ち尽くす斎藤を指差した。幕臣とは思えぬ大胆な発言に、皆の視線が一気に斎藤へと集中したが、土方だけは黙ったまま腕を組み「冗談も大概にしとけ」と悪態を吐く。増々機嫌が悪くなる土方を宥めつつ、佐々木に労いの言葉を掛ける近藤であったが、芹沢は鉄扇を仰ぎながら「京の天誅見物も悪くない」とにっかり笑った。 浪士組の残留組、“壬生浪士組”より先に入京しており、更に佐々木と旧知の仲であると云う事実が派手に露見。終には“斎藤君の客人”と筆頭局長である芹沢鴨から名付けられれば、京見物の案内人役を引き受けないわけにはいかなかった。 「だけどさあ、一君の方向音痴癖ちっとも治ってないよね、よく今まで京で生きて来られたね?」 「うるさい……。」 痛い所を佐々木からグサリと突かれ、斎藤は口をへの字に曲げた。確かに昔から斎藤は立派に道を間違える素晴らしき方向音痴ではあったが、昔以上に酷く磨きが掛かっている。ある意味才能は日々開花し続けている。それが佐々木只三郎の率直な感想でもあった。 碁盤様に作られた一千年の魔都のせいなのか、何なのか…京見物を任された斎藤は、日も暮れ始めた現在、佐々木を一件も京見物に連れて行けていない。清水寺に行きたかったんだけど、と声を漏らせば、斎藤は俯いたまま「御免なさい…」と小さな声で呟いたのであった。 捻くれた様で素直な可愛い反応を見せる斎藤の表情を覗き込むと、佐々木は安心したように、それでいて項垂れるよう夕暮れへと背を向けた。 「京は物騒な所だね。一君が生きてるのが不思議なくらい、色んな意味でサ」 「それ、愚弄してる…?」 「ううん、違うよ。一君に会えて良かった」 「…ついこの間、入京した時に道場を訪ねてきたくせに。」 一定に伸びた自身の影を、行き交う人々が何食わぬ顔で踏んでいく。涼しい顔して、次々と。心を読めない事は、きっとこういう事だと悟っているようでもあった。 そうして、見渡す限り赤も似合わない唯一つの翳んだ景色が、眼前にたくさん広がっているのだ。 「別にいいじゃない。人斬りの前科がある可愛い可愛いお子様が、京でどんな顔して過ごしてるのかなァって気になってたんだよ」 「もう俺はお子様でもないし、あんたに心配される程弱くも無い」 「でも、まさか試衛館御一行様が京へ上るなんてなァ…。そして何で君も壬生浪士組に入ったのかなァ…」 「佐々木さん、人の話聞いてる?」 曇天が覆う空模様は、水色と灰色が共存していた。 ふと、三条大橋の向こうに陽炎を見た気がして、佐々木は橋の欄干より身を乗り出した。向こうから三味線と琴の綺麗な音色が聞こえてくる。川から流れるは羽衣の様な初夏の香り。 「芹沢鴨って男の言う通り、天誅見物も悪くないね」 「青竹に串刺された生首は気持ち悪いよ」 河原には首を晒すための木の台が横倒しになっている。そこに将軍様の木像の首は無く、本物の生首が転がっている筈も無かった。此方での手厚い生首の不気味なお出迎えが無い事に、佐々木は肩を落として大きな溜息を吐く。つまらなさそうに目を閉じても何も見えるわけではないのだが。 「俺ね、ほんとは京見物をしに戻ってきたわけじゃない」 「…知ってます、そのくらい」 「一君に会いに来たって言うのは…どうしようか、本当の理由にしてあげよっか?」 「そういう冗談いらないし、迷惑」 顔すら合わせようとはせず、視線は遠く先。砂利と下駄が歪な音を立てて訝しむ。何も得ない言葉に、奥歯を噛み締めた。 「清川八郎を殺しちゃったんだよね、その報告に来ただけ。あと、容保公と今後の政治のお話を少しね、」 淡々と話し、照れ隠しのような表情を見せる。歪な音は音も立てず頭の中へと入り込み、全てを蹂躙する。斎藤の顔は大分曇っていたが、それは軽蔑の目でも何でも無かった。 「このまま物騒な天誅騒ぎが続けば、俺も京に出向かないわけにはいかないだろうし」 「それって、俺たち壬生浪士組の他にも幕府は新たな治安維持部隊を作るってこと…?」 「うん、まだ決定したわけじゃないけど、何れはそういう事になるかもね。もし京へ上る事になったら、一君に毎日会いに来てあげる」 「…そういう冗談はいらないって、さっき言った筈でしょう」 聞いているのかいないのか、遠くを見ていた佐々木は斎藤の腕を急に掴み、踵を返した。 刀の鞘がどす黒い欄干にガリガリと当たろうが、鼻唄を謳いながらどうでも良いような顔をしている。手を引いたまま人混みの中を抜け、柳の真横に並ぶ高い石段を大股で降りた。そこでやっと斎藤の手を離したかと思えば、今度は川に浮かぶ目の前の小舟を指差した。 「ほら、早く舟に乗った乗った」 佐々木に背中を押され、言われるがままに小舟へ乗り込んでしまった斎藤は、急に不安になり後ろを振り返る。彼は、悠々と笑みを作りながら小舟に片足を掛けた船頭にひとつ、会釈をしていた。 「佐々木さん、どうして舟なんか…」 「だって誰かさんが道間違えるから疲れたんだもん。川下りして帰ろうよ」 「この川は伏見に行っちゃうのに」 「いいね、二人でこのまま伏見に行こうか」 船底が浅いせいか、水面の下は透き通っている。腕が沈んでいても、それはそれは花の様に万華鏡の様に曼珠沙華の様に燃えた灰の様に、と、疑われても焦るまい。 「舟降りて籠使った方がいい、そっちが壬生に早く帰れる。四条で降ろしてもらおう」 「そんなに舟が嫌?」 「だって、舟は…」 「そうだったね、一君は舟苦手だったよね」 小舟が揺れる度に、佐々木は斎藤の帯を掴んだ。いつまでたっても子供扱いをする男の左足を踏みつけてやると、白い足袋は煤が付いたように汚れてしまったが、仕返しは一度だけ。斎藤の襟足を少し引っ張っただけで、それからはずっと黙っている。 妙な沈黙に、斎藤は心許なく心を揺さぶられていた。 「佐々木さん、」 「ん、何」 「あの、さっきの話なんだけど。このままいけば幕府は、」 「その話は終わり。もう喋んな、疲れた。そういう話つまンねェからさ」 「…さっきは自分からした癖に」 「いいから黙っとけよ、舟が嫌なら目でも瞑ってれば」 船頭が思い切り舟を漕ぐ程、揺れは酷くなって行った。河原の柳は相変わらず風に燻らされており、不確かに不実な物だ。夕焼け色の水が目の中を潤しているせいか、どことなく真剣な佐々木の横顔に、斎藤は肩を竦ませ身を寄せた。 金網の中の猿<弐> ← ×
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