「やだなぁ、この桶の中の水、とても汚い。野兎が腐れて溶けたみたいになってる」


足元の大きな桶を指差し、沖田は言った。

その大きな桶の真ん前で蹲り、物思いに耽る平助は、沖田の癖とも云える仕草など見てはいなかった。ぼう、と桶の中の、野兎が腐れて溶けてしまったような水面を、只じいっと覗いている。
何を見ているのか不思議ではあったが、沖田がその桶をつま先で小突くと、平助は意識を取り戻したように、そして溺死しかけた人間が空気を吸うように顔を上げた。

「願掛けしたの。」

そうして又真下を向く。

「紙切れにね、好きな人の名前を書いて水の中に沈めるの。成就しますようにって願いを込めて。」
「平助、誰と誰のお話してる?」
「僕と、僕が大好きな一の話、だよ」
「互いの名前を書いて沈めたの?」
「うん、その筈だった。僕は一の名前、一は僕の名前を書いて沈めて、それだけでよかった筈だった」

白い息を吐いた。それは煙のように蜿蜒と空高くへと消えた。手先は紅い。右の左から二番目の人差し指の爪の左側から血が滲んでいる。

「でもね、ちゃんと互いの名前を書こうねって言ったのに、此の沈んでしまってもう溶けそうな紙には僕の名前なんて何処にも無かった。僕はちゃんと書いたのに、約束したのに、」

虚ろう眼からは、失望や失念、狂気の沙汰が伺える。そしてちっとも笑わない。何を考えているのか、其れはどう取り持って平助の思考を繋げているのか。

「一君、誰の名前書いてたの?」
「言わない。だって、僕がもっと惨めな気持ちになる」
「じゃあ聞かないから、」
「僕、いつまでこんな気持ちでいなきゃならないのかなぁ」

桶の中の冷たい水に、平助は手を浸したまま。着物の裾が少し濡れている。此の青年が何を思おうと何をしようと、桶の中のぐちゃぐちゃに溶けてしまった紙はもう溶けないし水は冷たいままだ。終わりは在ると思っていたが、案外終わりは無いに等しいと沖田は考えた。
くだらない程、考えている。

「沈んで溶けそうだった紙を、わざわざ拾い上げて見ちゃう平助が悪いよ、」

後ろで腕を組み、沖田は平助の隣にしゃがみ込んだ。

「…だって、」
「紙なんか見なければ平助は一君を信じていれたのに。でも、約束破っちゃう一君も悪いかなあ」
「一が悪いよ」
「曖昧にしないで約束もしないで、否定して。それで良かったのにね。」

揺れもしない水の中で、死骸は楽しそうに浮遊している。どろどろになって、何一つ変わらない。心に重たい鎖が巻き付いて、沈むようであった。心の居場所が不明でもあるが、肯定はしている。

「私なら水なんかに浮かべない。燃やしてしまうよ」
「沖田さん、それじゃ灰になって何も無くなっちゃうじゃない」
「何も無くなるのがいいの。何も無くなってしまうのが、存在全てを無くしてしまうことがいいんだよ」
「悲しい気持ちも、無くなってくれる?」
「残念だけど、気持ちだけはずっと在って無くならないから、だからそれを無くすために人って生きてる気がする」
「それって、死んだら忘れるんじゃないの」
「死んでも覚えてるんだよ、ずっとずっと。」

沖田は平助の真ん前から、桶を拾い上げた。

「どうするの、それ」
「桶ごと燃やしちゃおう。」

桶の底は泥だらけであった。昨晩雨が降り続けたせいで地面は濡れている。こんなにも景色は違う癖に、私たちの心とは何一つ違わない物を見ている、沖田は自身の中で溜息を吐いてみた。透明でもない白でもない、黒煙は透き通る花を枯らして逝く。
自分が必要としている言葉は何も見つからなかった。

「桶ごと燃やしちゃえば、少しは僕の気持ちも晴れるのかなあ」
「分かんないけど、少しは違うんじゃない?後は平助の気持ちの入れ替え次第。腐れた野兎も喜ぶってこと」
「僕、切り替えなんてできないよ。ずっとそのこと覚えてる、生きるのが辛いぐらいに」

何十回何百回と宙返し。旋回しながら流れ出す。

「生きるのが辛いって事は、それだけ平助は人の痛みが分かってるってことでしょ」

それらに対して、まるで知れねえこともあるまいか。
真冬の病葉がはらはらと散り落つる。



何かが燃える手前に、平助は沖田の袖口を握った。

「僕、もう人を信じないって誓ってたのに、どうして信じてしまったのかな。」
「信じて良い事なんかないけれど、一時の夢は見れるんだよ、平助。その代償は大きいけどね」


放つ先には灰、
「どうしてかな」
彷徨える程繰り返していた口元は、左上がり。


end











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