羽織を肩に掛けず、足袋も履かずに部屋を出て来てしまった事を、今更ながら斎藤は後悔している。
底冷えさせる冬風のおかげで、足先は死人のように冷たい。
今から羽織を取りに自室へ戻ったとしても、同室で寝ている沖田を起こしてしまっては、こっそり部屋を出て来た意味がない。相変わらず空は真っ暗であるが、明け方は近い筈。紺色の着物袖を握り締め、斎藤は黒い廊下へと腰を下ろした。

木々が風によって揺れる音が聞こえるが、風が止むと一寸は闇となる。小さくも大きい鼓動が聞こえる。心は曇るばかりで、何も見ようとはしていない。



「一君、」

足音も立てずに暗闇から出て来たのは、もう一人の同室者であった。
互いに人斬りである以上、音には敏感な筈である。斎藤は困った様な顔で頭を下げた。

「静かに部屋を出たつもりだったが…起こしてしまって申し訳ない…。」
「ううん、気にしないで。私は最初から寝ていなかったから」

寝たフリをしてたの、淡々と沖田は告げる。
そして斎藤の黒色の羽織を差し出すなり、そこでやっと笑ってみせた。

「こんなに寒いのに羽織忘れちゃうなんて、一君らしくないよね」

──もう顔は既に笑っていない。


「羽織を忘れるぐらい、何かに必死だったんだろうね」
「…眠れないから、だから少し外の空気を吸おうとしただけ」
「一君、嘘ついてるでしょう」
「嘘なんか、つかない」
「嘘。こういう事、一君時々するんだもん。私、知ってる」


満月でもない月が斜めから見ているが、仄暗い流雲に隠され続けては涙を流している。沖田に取って月など、どうでもよかった。ただ、彼の事についてはどうでもよくはなかった。

「今日の巡察隊は二番隊。」

腕を組みながら小首を傾げる。そうでしょ?と言わんばかりに沖田は含み笑いを斎藤に向けた。
肩に掛けた黒い羽織が揺れる。足元の底から、黒い手に誘われている様であった。

「一君いっつもそう。永倉さんが巡察の時、永倉さんが無事に帰って来るのを其処でそうやってずっと待ってる。」

斎藤の右腕を掴むと、引きもせずに強く握り締めた。手先は氷の様に冷たい。紫色と白色の、屍の手。

「私が巡察の時はどうでもいいって顔してるクセにね」
「違う、そんな事思ってない…」
「私は死んでもいいけど永倉さんは死んだらダメなの?じゃあ一君にとって私は必要ない?」
「違うよ、沖田さん、違う」
「違わない。待つって云うのはそういうこと。待たないって云うのもそういうこと」

動悸と頭痛がする。沖田の真っ直ぐな目を、逸らすことなど出来なかった。
掴まれた右腕より、侵食されていく。腐り落ちるとは、こういう事を云うのだと。

気付けば傾いたのは満月であった。雲一つも何も、夜空は煌煌としている。


「血の匂いがする」


沖田が呟いた。途端、屯所の門が重い音を立てて開く。帰隊した二番隊隊士たちの足音が響いて来る中、鼓動は跳ね上がる一方である。そうして右腕を掴まれたまま、互いに立ち尽くしている。

「確かめてきたらどう?一君の大好きな永倉さんが怪我していないかどうか、」
「……。」
「この血の匂いが殺した相手のものなのか、永倉さん自身のものなのか。永倉さんがいるのかいないのか、」
「沖田さん、手…痛い…。離して…」
「私の手を振り払って行けば──。」

眉を、顰めた。



「お、総司とハジメじゃん。こんな夜更けに何やってんの?仲良く厠か?」

いつもの聞きなれた声が背後から聞こえ、斎藤はそこで初めて沖田から目を逸らす事ができた。血の匂いは強かったが、斎藤の顔を覗き込む永倉の顔は、いつも自身を見てくれる顔だ。

「永倉さん、隊務お疲れ様です。一君が寝付けないって言って、此処にずっといるもんですから…手が冷たくなっちゃって。温めてあげてたんです」
「こんな寒いのにお前は馬鹿だなぁ、手、貸してみろよ」

永倉の大きな手が、沖田の手から斎藤の手を奪った。右腕に喰い込んだ爪痕になど、気付かない。何も、永倉は気付かなかった。沖田が笑わなかったのも、何も。
おやすみなさい、一言だけを残し暗い部屋へと戻って行った沖田の後ろ姿を、斎藤は見つめ続けた。

しかし、足は一歩も動かせないでいる。



「お前も早く寝ろよ、明日巡察だろ」
「…永倉さん、怪我は」
「ん、ねえよ。…あ、これは人斬った血。着物、洗ってこねぇと」
「そう。」
「じゃあな、はじめ」
「待って、永倉さん。俺、今日は自分の部屋で寝ない…。」
「寝ないって……総司が待ってるだろ?」

びくんと手が震えた。
足先はじわりと生温かくなっている。

「…永倉さんの部屋で寝たい。お願い…」
「左之の鼾うっせぇぞ」
「別にいい…。布団敷いて先に入って、なか温めておくから…」
「おう、分かった。」

何を思ったのか、永倉は斎藤の頭を血生臭い右手で優しく撫でた。


「どうした…?震えてる」
「怖い夢を、見た。」


触れられた場所は温かい、されど心はいつまでも凍ってしまっている。
斎藤は永倉の手を自身の胸に置いたまま、闇夜に続く後ろを振り返ろうとはしなかった。

振り返れば、終わり。



end











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