「あのさぁ、オマエ、江戸に何年住んでンの?」 左手で頭を掻いた、半ば呆れ顔で。懐から取り出した朱い漆塗りの櫛を、右手でくるくる回す。特に面白い会話もなく、互いが何を話すわけでもなく、心地よい風が吹く午後の事であった。 「生まれてからずっと住んでます。」 「じゃあ何で迷子になってんだよ!意味わかんねーし!あそこでオイラが声掛けなきゃなぁ、お前博徒に連れてかれるとこだったんだぞ!オイラ吉原行きたかったのに…。この道分かるだろ、この道真っ直ぐ行って右に曲がればいいの、分かる!?」 「分かりません」 「何でわかんねーんだよ!!」 声を荒げた後、ちろりと後ろを振り返ってみるのだが、伊庭の後ろを歩く山口は下を向いたまま、何も返しては来なかった。 「なぁ、お前なんか喋れよ、オイラ沈黙が嫌いなんだよね。あぁつまんねぇ、何でお前を送ンなきゃなんねーわけ、何でお前道分かんないとか言い出すわけ、どんだけ方向音痴なの?声掛けなきゃ良かったわ、オイラの発動した親切心返せよ、もう本当苛々すんなぁ。何でトシさんはこんな奴に夢中なんだか意味わかんねぇ、つーか家戻れなくなるなら一人で町へ行くなよな」 「あれ、」 「あ?何?」 もう一度山口の方へ振り返ると、伊庭の後ろを歩いていた山口が前方を指さしている。二つの別れ道の間の大木に、首つり死体がぶら下がっていた。 「うわ、気色悪ィ…。自殺とかありえねぇ」 「……。」 「おい、首つり死体あるのは分かったから、…もう指さすのやめなって」 「伊庭さん、吉原に行って下さい。」 「…は?」 「もう道は分かります。申し訳ありませんでした、助けて頂いて道も教えて頂いて」 そう言って首つり死体の前に座り込む。 「お前、そこに座り込んだってェ事は、道わかんねぇって事だろ」 「違います。」 「ね、指さすのはやめろって言ったろ、死体なんて放って帰るぞ。ガキみてぇにいじけてんじゃねぇよ」 「いじけてなんかいません。伊庭さん、さようなら」 「…おい、ふざけたこと言ってンなよ…オイラの何が気に入らなかったわけ?帰らないとかお前、頭おかしくない?死体の前でサ…」 「伊庭さん、さようなら。」 ザアザア風が吹いて首つり死体は揺れている。 「俺、この死体をまだ見ていたいです。だからまだ帰りません」 その言葉を喜ぶように、首つり死体は揺れ続けている。 微笑んだ山口の顔を見ながら、首つり死体が揺れるたびに軋む木の枝の音を聞くと、頭がおかしくなってしまう狂喜を伊庭は感じていた。 end ← ×
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