砂利と石畳を踏み鳴らす音が大きく聞こえたと思えば、屯所の門を駆け足で出てくる青年と、肩同士がぶつかった。小さく謝る言葉が、耳の近くで聞こえた。

近すぎて認識も識別も出来なかったのか、佐々木のよく知る青年は遠くへ行こうとしている。その不安定な背中を見つめ、佐々木は思わず青年の右手首を強く掴んでしまっていた。

「斎藤君、何処行くの」

すると気付いてもいなかったとでも云うような、そのような表情を向けている。別にどのような表情をされても良いが、このような無表情を佐々木は好まなかった。無頓着なようでも、感情の移り変わりを見るのが好きだった。例えば死ぬ間際の苦しい顔、しかし死ねば変わらぬ表情、それらに興味は向けられない。




「ねぇ、俺さ、先日の勇敢な池田屋騒動の事についてお褒めの言葉をわざわざ言いに来てあげたんだよ、一応社交辞令として。…局長様のとこまで案内してくんないの?」
「………。」
「仮にも俺、幕府の客人さんだよ?こうやってお手々を取って案内するのが常識ってもんでしょ、“一くん”?」

口付けるように斎藤の死んだ右手を引き寄せると、その指先は血に濡れていた。

「斎藤君、これ」

今更に自身の指先の朱色に気づいてしまったのか、佐々木の指摘に動揺する。小さく震えながら右手を引っ込めようとするも、佐々木の手からは逃れられない。先が解らぬ程怖いものはなく、捕まれば食べられる、そういったお決まり事など終には無い。

「離せ…っ」
「目も合わせられない程、焦ってるの…?下向いてちゃ何もわかんない、言ってくれなきゃ、ちゃんと」
「あんたに言っても、分からない…。」
「だったらこれ、なァに?」

一度も合わなかった眼は何処を向いているのか分からなかった。
遠のきもしない頭の燻らせに、下駄の音が割り込む。考える余裕という事さえ、どのようにして考えているのだろう。どのように為しているのだろう。


「案内ならオレがしますから、とりあえず一を離してもらえねぇっスか、」


煩い下品な下駄の音が止まったと思えば、耳は正直に識別を始めている。後ろには、永倉の低い声が在る。

「おや、永倉君。」

嫌がる斎藤の手を握り込み、引き寄せているのが気に喰わないのか、佐々木に一礼しても眼の鋭さは変わらない。眼光は青く、鈍色に染まる。
(この眼、真っ直ぐで苦手なんだよなあ)
考えているように頭を傾ける。…ふと、頭の中が朱色に変わった。
(いや、染まっているのは…、)
陰に隠れるよう、屯所の奥より門へ向かって血の跡が点々と続いている。永倉を追う道標のように、朱く、黒い。永倉の後ろに隠した左手が見えるわけではないが、おそらく左足の後ろにも血だまりはありそうだ。

にんまりと哂い、佐々木は引き寄せていた斎藤の血が付着した指先を、まじまじと見つめた。

「──…へぇ、そういうことね」




空を飛んでいたのは鳶ではなく烏。羽音は遠すぎて聞こえない。永倉の方へ向き直ると、大げさに手掌を空へと向けた。

「そうだ、本当は局長様云々じゃなくて、永倉君を賞賛しに来たんだよ」
「…賞賛?」
「そうそう、もう世間は本当に池田屋の話題で持ちきり!無傷だった近藤局長様の雄姿もだけれど、ほらァ、藤堂君を命懸けで守りながら戦ってたって言うじゃない?きみ。自分も死ぬかも知れないって時に、藤堂君を抱いて介抱しながら戦うってねェ。そういう時って中々他人は守れないからさァ、なんか本当に必死だったんだなって、特別な愛を感じちゃうなあ」
「それは同志ですから、当たり前だと思いますが─、」

斎藤の身体が揺れる。握った右手首から脈が、呼吸が、感情が全て漏れてくる。

「永倉君、こういうこと考えた?」
「何をです、」
「あの日、藤堂君じゃなくて、もしそこに斎藤君がいたら永倉君はケガなんかしなかった、って。もっと人を殺せていた筈。だって君は斎藤君なんか見ていない。斎藤君を命懸けで守らなければなんて一切思っていないし、特別な感情なんか全くない。」
「……あんた、昔も今も勝手な事ばっか言うのは変わっちゃいねェんですね、」
「永倉君が悪いんでしょう、斎藤君の事できるって思ってるから。大丈夫だって、弱くないって、永倉君が勝手に斎藤君を決めつけてるから」

有体に申すのは恐れ入るの意と成すならば、そうあってはならぬはずだ。
一つとして知られるのは、生きるのに慣れてしまい不都合となった其胸は幾許(いかばかり)

「反対にそういう無駄な自信や信頼って、人を傷つけるんだよねぇ。知ってた?」

一歩、二歩、遠ざかって行く。


「何も分かってないような顔、もう出来ないよねえ?」


言動に追従する。思ひ半ばに過ぎず、邂逅は遊戯残骸。

佐々木に手を引かれる中、左手首に温もりと感情を感じた。あの時と同じ、永倉が斎藤の左手首を引き寄せている。

「一を連れて行くな、一は、俺の…───、」

握られた左手首から肘へと向かい、生温かい血が伝っていく。金魚のように泳ぐ着物袖に、永倉の血が浸み込んだ。
痛々しくも愛しき者から握り潰された無残な傷口は、涙を流しているようでもある。そのくせに、斎藤の左手首を握る手先だけは力強い。


「なぁ、お前はまだ左手首が無くなればいいとか思ってんのか…?」


ぎゅっと握られて、切なくて泣いてしまいそうだった。でもそういうのはもうお終い。

「わかんないよ…。永倉さんに触れられた所、熱くなって溶けて、無くなっちゃえばいいのに……」

手を振り払われるでもなく、自然と離れる手。
遠くへ行ってしまい、取り戻せなくなってしまった。



「あーあァ、一君は弱いからずっと俺が守ってやんなきゃダメかぁ。一君弱いくせに強がって俺から離れちゃってさァ、結局目ェ離せねェ思いさせられんのコッチなんだよー、くそがき。ほら、これで血ィ拭いて。じゃねぇとあそこのオヤジ色々うるっせぇだろ、血でも見たら部屋で心中でもすんじゃねェかと勘違いされちまうしさあ。つーかソコ行く前に町人の目が痛ェんだよ、また壬生狼壬生狼って言われンだぜ……ま、でも俺が紋付着てっし浪人にゃ見えねェから大丈夫か、」
「血ぐらい自分で拭くから…いい。」



臍を噬みて悔ゆるとも、反古とは言えぬ。
知らぬ事より知る怖さ、時を移さず、




end











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