年中軒下にぶら下げてある風鐸が揺れている。音に耳を傾けもせず、遊女は乱れた長い髪を整えていた、鐸には罅が這っている。



「趣味悪ィ」

佐々木は布団に寝転がったまま、上体だけを起こして遊女の足首を掴んだ。此の遊女の名前など知らぬ、呼んだ事なども無い。

「粋だろ?こんな商売だからね、どんな男も挟み込んじまうって意味。一つの洒落さァ」

女の右足の甲には、朱色の鮮やかな蟹が彫られている。客を挟み込む、お遊びのような意味を連ねながら女は笑っているが、其の蟹の表情は只其処へ存在しているだけである。

「まぁ…俺もお前の股に挟み込まれてンだけど…」
「あたしの蟹さん凄ォいだろ」
「足の甲じゃなくて、股を広げたトコロに彫ってもらえば良かったのに」
「馬鹿言いなよォ、気持ち悪がられて誰も舐めてくれなくなるじゃないのさ」
「足元に彫るンなら提灯がいーよ、女は」

転がった灰吹を横目に、佐々木は煙管を口に咥えた。巻き上がった灰が粗末な布団へ落ちて往く。
壊れた格子の隙間から見える空さえ、灰色に染まる感覚を支配した。渇いた肌も、渇いた喉にも煙は纏わる。流し込んだ酒が異様に不味い。


「あんたの方が趣味悪いよ、全身に“一周モノ”なんてさ、死んじまうよ?」


首筋から背中へ、遊女は佐々木の身体を愛でるようゆっくりと撫でた。
散る花弁の其れ、死ぬ間際の掌の其れ、亡霊の手招きの其れ。

「好きな女は何て言うの?」
「…綺麗だね、って。」
「あはは、良かった良かった。あんた色男だもんね」
「そりゃどうも…」

生きてりゃ叉あたしを買ってね、遊女は豊満な乳房を隠しもせず、部屋を出る佐々木を笑顔で見送った。右足の甲の蟹は、ベベに隠れて最後まで見えなかった。アノ蟹は朱かったのか蒼だったのか。





──汁粉屋の軒下に下げられている風鐸が、鳴った様な気がした。
盆に乗せられたお椀に手も付けず、少年は奥庭に面した小座敷の窓辺から、揺れる風鐸の音に耳を傾けている。

「食わねェのかよ」
「僕、甘い物はあまり好きではありません。佐々木さんにあげます」
「ああそう、」

甘い汁粉を飲み干したと思えば、酒を欲する手は空瓶を掴む。一滴しか落ちてこないものは致し方ない、不服そうな舌打ちが狭い部屋に短く響く。

「もう一つ、お酒もらって来ましょうか?」
「いい。甘ったるいの、俺嫌いでもないから」
「そうですか」

流れ風が二人の間を通り抜けて行った。

「ね、いつもみたいに身体拭いて」
「佐々木さん汗なんてかいてなさそうですけど」
「どうして分かるの?」
「…今日、道場に顔を出さなかったから…。」
「だから道場に迎えに来てあげたでしょ?炎天下のなか一君待ってたら汗かいちゃった」
「迎えに来てくれなくても僕、一人で帰れますよ」
「癖だよ、癖。いつも稽古終わったら一緒に汁粉屋に行って、毎日こうして君に汗拭いてもらうの日課でしょ?」

嘘を付かず、珍しくにっこり微笑む佐々木の方へ少年は向き直る。
何処かの座敷から、悲鳴のような声が聞こえてきた。

「さっき小川に浸して冷たくした手拭い、その一君が首に巻いてる手拭いでいいから」
「僕の汗が浸み込んでますよ…?」
「いいよ、一君の汗好きだから。一君は俺の汗嫌い?」

静かに首を振って、生ぬるい手拭いを佐々木の背中へと当てた。熱を持った身体には、その生ぬるい手拭いが冷たく感じる。

「有難う一君。道場の奴らには見せらンないからさぁ…」
「綺麗なのに…?」
「うん、綺麗だけどダメなの」
「それは残念です」
「舐める?」
「……。」
「早く、舐めて?」

何度も見た事は在る。
佐々木は身体に白蛇を飼っている。それが幼いながらに記憶に納めた謂われぬ感情であった。

大きな口を開け、左胸に居座る白蛇の目は、紅い。そうしてそれは左肩に項垂れるように背中へと続き、脇腹を通って腹部、そして背部へと周り体幹に二度も絡みついている。

「しょっぱいです」

白蛇の二つに分かれている舌に少年は自身の舌を絡め、今にも動き出しそうな長い身体を舐めていくと、必然と辿り付くのは尾っぽ。
(いつも最後まで舐めたこと、ない。いつも──、)
存在を知らないわけではない。白蛇の身体は、佐々木の局部の真横を通り、左大腿部を三度巻くと、足首を一回転し、踵部で終わっている。だが、少年は此処まで白蛇の身体を舐めた事はなかった。

「ちゃんと舐めなよ」
「佐々木さんが足上げてくれないから…ちゃんと舐められません」
「じゃあさ、こっち舐めて」

蛇のように蠢いているモノでは無かったが、佐々木の身体に彫られている動かぬ蛇より、ヨク動く。暫く行為を続けていると、白蛇と似た色のモノが口内を満たしていった。

「飲むなんて、いい子いい子」

痛みを我慢する子供を慰めるように、佐々木は少年の頭を優しく撫でると、細い身体を抱き締めた。
ぬるぬるした感覚が股を這い、重い快楽にも似た痛みが全身を止まらせる。佐々木の飼っている白蛇は、本当の蛇の体温よりずっと熱い。べたつく肌が心地よく感じるのは、この人だからであろうと少年は考えた。
(熱くて汗が。今、夕方かな。カラス、鳴いてないけど)
手を伸ばしても届かない風鐸と空に目を遣らぬ様、佐々木は小座敷の雨戸を片手で乱暴に閉めてしまっていた。

煤煙にさえ逃げ場はない。



「今日さァ、この白蛇を見た女がね、コレ趣味悪ィって言ったんだよ」
「…う…っん、」
「俺、いつかこの白蛇に絞め殺されちゃうかも」
「…っあ、……嫌」



身体に巻き付いた綺麗な白蛇が八岐大蛇の様に恐ろしく、そして非情に憎く思えた。

「一君、身体に巻き付いてる白蛇の胴体、切ってくれたら俺死なないかもね?」

耳元で囁かれる言葉、刃の行方。嫉妬と言えば否定はする、しかし刃の扱い方は実に簡単であった。触れれば傷、貫けば死ぬ。

「子供って何でも真に受けるんだね、眼の奥、ころころと変えて」
「佐々木さんが絞め殺されちゃうのが、嫌だったんです…。」

腹部から溢れてきた鮮血は、少年の臍部を伝い、股へと流れ落ちる。
白蛇の胴体を真っ二つに引き裂くよう、縦に飾られた刀傷は白蛇自身の血のようでもあった。

「これで、佐々木さん締め殺されないんでしょ…?」
「助けてくれてありがと。でも、白蛇さんは痛いって怒っちゃったよ」

少年の手から血の付着した脇差を奪い取ると、間合いを詰めて首筋に噛み付く。痺れる感覚に仰け反ると、脇腹に刀の切っ先がチクチクと触れた。

「一君ダメだよ、蛇は頭を切り落とさなきゃ死なないんだから」

脱いだ着物を一生懸命に握り締める姿を目に焼き付け、佐々木は少年の中を酷く犯し続ける。真剣な眼差しが少年の表情を捕え、逃がさない。
(逃がしてなるものか、)
その掠れた声は大蛇の声か自身の奥底に眠る欲望か。


「どうしてもらいたい…?中に入ってもらってハラワタ喰わせてあげる?」
「いや、…いやっ」
「俺が食ってるからいっか、」
「あッ…、ぅ」
「そうだ、一君も蛇を身体に共存させてあげなよ」


思い立ったように、佐々木は少年から奪い取った脇差の切っ先を、トン、と柔らかい脇腹へと刺した。
グ、と力を入れるとズブリ、ズブリ、刃は沈む。其れを手前へ引くと、ギチ、と卑しい音を立てて切り裂いた肉が叫び、裏返った白い脂肪が蛇腹のように踊り出ていた。

「痛い痛いぃ…っ!いやァっ…」

少年が狂ったように、酷く泣き喚いている。身を捩って、男の手中から逃れようとしている。

「一君が最初から蛇の頭を切らないから悪いんだよ、ちゃんと殺さないから」
「ひ…ギ…あ、あ、……あ」
「死と再生、不死、無限、永遠…そういう意味の生き物なんだよ、蛇って。始まりも終わりもない意味に惹かれて白い蛇を飼い出したんだけど…本当はくだらない理由に惹かれてね、その可笑しな理由、聞いてくれる?」

佐々木は少年の肉を悠長に刃で裂いていった。右、左、下、下、着いてくる血はまるで蛇殺しの軌跡とも。

「蛇の交尾って凄く長いの、知ってた?」
「たす、けてっ!…たすけ…っ!」
「それって、すげェそそるでしょ?俺も好きなやつとズット絡んでいたいのよ、互いが腐るぐらい融け合うぐらい食べ合ってもどちらの物か分からないぐらいに。…ねぇ一君、俺一回ぐれェじゃ身が持たねェんだわ。でも一君まだガキだからさ、体力ねェじゃん?だから俺さ、時々あの川辺の遊郭に通ってンだよ。昨日もその遊郭の女と一晩中まぐわってて、身体だるくて道場の練習に行く気も起らなかった。だけど女抱いてても考えンのはガキの一君ばっかでさ、ああ俺狂ってンだって思うわけ。これって…白蛇に、俺、呪われてンのかなぁ?」
「うぅッ…んッ、ひぐっ、う」
「一君のここ、俺のに絡みついて “ 蛇 ” みたい。」

畳に血を滲み込ませ、少年は肉を裂かれる痛みに悶絶しそうであった。
左脇腹から這う朱い蛇は、腰まで続いている。心臓を喰らいに行く途中であるのか、それとも腸を食べに後ろの孔へ入ろうとしている途中であるのか、はて、頭は上か下か。

「綺麗だね、一君の身体に這っている蛇は。ああ憎いなァ、此の蛇」

足元に脇差を放ると、血まみれの手で涙を流す少年の唇を撫でた。




「ほら、軒下にぶら下がってるの、存分に見ればいい。夜風に吹かれて綺麗な音色、鳴らしているね」

雨戸を大きく開き、手前の重厚な木造の窓辺に少年の手をつかせた。その小さな手が震えているのは、大人しく佐々木の膝上に乗せられるようにして、情交が行なわれているせいでもある。
互いの股へ血が流れ、生渇きの皮膚は離れない。

「こうすれば良かったんだね、ずっと一君の中に居れば良かった、最初から」
「佐々木さん、カラスが鳴いたら帰らなきゃです…」
「もう鴉は寝床に帰ってるから鳴かないよ、」
「鳴いてます…、迷子になって…。」
「一君は迷子になんかなってないでしょ、俺と一緒に居るじゃない」
「でも…」
「お腹空いた?お蕎麦でも食べる?」

頼もうか?と優しく気遣う佐々木の顔をちらりと見るなり、少年は顔を真っ赤にした。

「こんなことしてるの…お店の方に見られたら恥ずかしいです…。」
「そう?恥ずかしいの?」
「……うん」
「だってここはさ、“蕎麦屋”だもの。普通だよ」
「…佐々木、さん」

少年は振り向くと、着物の衿をいじりながら独り言のように呟いた。拗ねた素振りで目を合わせないように喋る姿が、途轍もなく可愛らしい。


「白蛇さん…もう怒ってない…?」


眉を寄せて首を傾げる。首筋の渇いた血跡を舐め取ると、佐々木は其処を吸って紅い痕を付けた。

「怒ってないよ、」
「白蛇さんちょん切ってごめんなさい。佐々木さんを絞め殺してほしくなかったの、嫌だったの」

佐々木の腹部には、白蛇を断裂するように切り傷がある。既に血は乾いてしまっている。
少年の左腹部、左脇腹、腰には切り傷でもない、じゅくじゅくとした濡れた傷口がある。刺した脇差は行方知れず、悲鳴すらも所在不明、在るものは始まりも終わりもない程の、共愛。

「ふふ、俺らが此処で毎日毎日交尾するからさァ、一君のお腹に赤ちゃん蛇が孵化したね」
「孵化…?」
「生まれたって事。一君があったかいお腹の中で俺の精液を大切に育ててくれたから。」
「赤ちゃんが生まれて、嬉しいですか…?」
「うん、嬉しいよ」
「佐々木さんが嬉しいのなら、僕も嬉しいです」


幼蛇のような傷に触れた。
(その身体に一生飼い続けるが良い、死ぬまで、忘れずに。)


「佐々木さん、」
「ん?」
「僕、お腹が空きました。お蕎麦が食べたいです」
「うん、一緒にお蕎麦たべようね」




蛇は、獲物を喰い千切るような食べ方はしない。


end

…memo…
・蛇の刺青/身体を一周させるように彫ると、刺青に絞め殺されるという噂がある。そのため、身体に巻き付かせるように彫る場合、わざと絵を途切れさせる必要がある。
・汁粉屋は男女の逢引場。
・蕎麦屋も汁粉屋と同様、一部は淫売屋。
・失感情症(alexithymia/アレキシサイミア)
・手負蛇/百物語











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