鴉も鳴きもしない。屍が落つる刻に鈴の音も鳴らぬ。 白鯉の餌にと、下駄を捨てられてしまったおかげで、白い足袋は泥だらけである。ふんわり吐いた白い息が消え去ってしまうと共に、冷えた汗が身体を凍えさせる。 道端の椿首を踏んでも、残雪を踏んでも骸を踏もうとも、感覚はない。 ひたり、ひたり、主人である男の部屋へと廊下を歩く。 伸びる影に感情を浸らせる間なく、青白い障子は真横に開いた。 「…副長、ただいま、戻りました…。」 藍色の柔らかい髪を、頭を撫でるわけでもない男は、斎藤の破瓜を迎えたような顔を掴むと、グイと引き寄せた。 「誰の許しを得て夜遅くまで遊んでいいと言った?」 「遊んでは、…いません……。」 「口答えするな、」 静まり返った暗く長い廊下に、頬を叩かれた音がやけに響く。 「誰に犯されたのか言ってみろ」 「犯されてなど、おりません」 「下帯は…?着物の帯はどこに落としてきた?俺が与えた綺麗な着物は?その羽織は誰の羽織だ?口端と両手首に滲む血はどうした?」 「……これは、」 息が詰まる。溺れた時の感覚に類似などはしていないのだろうが、泡沫に消え逝く胡蝶の最期と似つかわしい。 (犯された痛みよりも、心の痛みの方が、とても痛い。) 土方の黒い眼に、自身が映っていた。 浄玻璃鏡のように映し出される其れは、斎藤の全てを縛り付けている。何処にも逃げられないように、自身の罪をいつだって見せているのだ。 「汚い」 淡色の羽織を纏っているだけの哀れな姿の斎藤に、土方は舌打ちをする。必然と、右手がガタガタと震えた。 隠し様もない虞が、狛のように、白い大腿を伝い落ちて行く。 (…冷たい、気持ち悪い…) 糸を引くように魅了すると、足元に仄暗いシミを作った。 「誰のを咥え込んでた?」 「…何も、してないです……。」 否定し続ける斎藤の髪を掴むと、土方は引きずるように井戸近くへ連れて行くなり、氷の張りかけていた桶の冷水を斎藤の頭に浴びさせた。 「俺に嘘をつくな、お前を飼ってるのは誰だと思ってる」 「……ごめんなさい…」 「お前の行き場所なんて俺のところにしかない。お前は、俺の所にしか帰れない」 「…はい、」 「そのまま朝まで頭を冷やしていろ、部屋に戻る事は許さない」 「……仰る通りに、致します。」 羽織の袖を弱々しく握る斎藤の指先は、寒風のせいで紫色になっている。 「土方さん、」 「まだ口答えする気力があるのか?」 「…土方さん………、私を、捨てないで下さい…。」 「それは夜伽の台詞か?捨てられたくないのなら、捨てられぬように考えろ」 「……申し訳ありません…、」 樹氷の中、木花は咲き誇っていた。 去って行く土方の背中を見つめながら、斎藤は顔を真下へと下げる。涙を零す意味がよく分からないのだ。 (溺水はこれよりもきっと、冷たい) 「泥だらけ……」 斎藤の小さな声は、吹花擘柳にさえ消されていた。 ← ×
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