一刻も経たぬ。

繰り返される音は耳に馴染んだまま、写る視覚を凌駕していた。
ギィ、と静かに揺れ続ける舟は、水面の優雅さを小さな障子に燻らせ、月影と共に遊んでいる。
外に立つ船頭の伸びた影も、柳のように揺れていた。

すり抜けてきた花街の灯りが、自身の手に、畳に、弧を描くよう佇んでいる。万華鏡の中を想わせる色合いに、斎藤はそっと憂いを寄せた。


「物足りない?」

向かいに座る男は、にこりと笑う。
舟は緩やかに進み、色の繋ぎを幾重も羽織る。着物のように麗しい継ぎ目は、月の糸さえ織り込んでいるように白銀だ。

「十分で御座います」

斎藤の答えに、服部はもう一度だけ微笑んだ。
見透かされているような眼の奥が、深くも淡い紫に変えられる。模様が揺れたと思えば、舟の軌跡であるか跳ねた魚であるか、遂には何も解らない。

「本当かな」

前に置かれた御膳を真横に滑らせると、料理の飾られぬ皿の下を、箸は転がった。舟を漕ぐ音でもない奏は、あっという間に距離を縮めている。
優しく頬を撫でられながらも、斎藤は服部を真っ直ぐに見上げた。そうして、頷く。

「寂しい"舟遊び"になったね、二人きりの。芸者を呼べばよかったかな」
「いいえ、そんなこと…」
「ねぇ斎藤君、少しは嫌がった方がいいよ」

唇に生暖かい感触が伝わった。
離れた其れは求めるように、何度も何度も注がれる。呼応する吐息は、口を閉ざしたまま願事を告げない。

「舟が、揺れてしまいます」
「…そうだね、」



静かな重なりは結いを持ったまま、舟を岸へと歩かせている。
灯りの色彩が濃くなった障子を開けば、明るい黄泉の道のように舟乗場の橋は埀に続く。
船頭に頭を下げると、服部は舟乗場に足を着き、それから斎藤の手を引き上げた。

留まる空気を裂くものなど、一対もない。踏み入れてしまえば、そこまでである。自身が手を掴み続けているのか、執着は喪に消えていた。
動かぬ斎藤を見下ろすと、彼は服部の着物袖をクイと引っ張る。

「舟宿で、一休みして行きませんか…?」

舟の揺れは既に消失している筈であった。
服部は苦笑し、先程合わせたばかりの斎藤の唇を、丁寧に指で拭う。その指先は、震えているわけでも何でも無い。

「宵五つが近いから、それは無理だよ」
「…でも、」
「隊規違反で切腹になる」
「……でしたら、門限を許してもらえるよう、私が土方さんに文を送ります…」
「嘘の文を送ってまで、私と一緒にいる意味はあるのかい」
「……意味…?」

開いた瞳孔に燈籠が映っている。石垣の上に構えた立派な宿屋の天井が、嫌と言うほどに目に入った。
川沿いに並ぶ行灯が連なれば連なるほど、騒がしくも動悸は高鳴り続ける。それは抉り出せるほどに容易くもなく、存在を見詰めていた。

「陥れたいの?」
「…違います。私は、服部さんと一緒にいたいだけです…」

手離しも出来ない。抱き締める事も出来ない。
恍惚とは如何なる物であったろう。

「戯れを、本気にされても困るなぁ。私だって君を探っている。君を信用しているわけではない。あんなの、単純な遊びだよ」

三味線の音を、彼方に聞いた。懐かしくもない音は、耳よりも胸に染み渡っている。云われぬ感情が溢れるわけでもなく、ぼんやり浮かぶ月を、定まらぬ視点で見ているだけの狗だ。

「帰ろうか、」

服部は斎藤の手を引き、石段を上がった。舟宿の横道を抜け、柳を通りすぎれば細い小路は何処までも往く。

「お上手だね、人の心に入り込むの。」

黙ったままの斎藤の手は、やけに冷たい。
涼風のせいでもない。だらんとした白い手を握り込もうと、そこに血の気は一つも感じられなかった。
笑わぬ斎藤の顔を撫でると、色も光もない眼は下を向いている。
記憶に後悔を押し付けても、曖昧さは導かない。
(藍に、変わる)


「傷付くだけだよ、君が」


可笑しくなるとでも言うように、影は爪痕を残していた。呪縛のような永遠に、終わりは對を追う。
空っぽの空想に、何を結び付けると言うのであろうか。

「……嫌では、ありませんでした…」

胸を這う手は首を捕らえない。
絡まる片方の手は、何れ二つとなる。遮られた月明かりが届くことはなく、底は一憂して浅はかに笑う。




「冷たい手で、申し訳ありません…。」
「温かくなるまで離してあげないよ、」


刻々と過ぎ去る灯りに、さよならを訃げた。
互いに、知っている。

月は目を伏せた。



end











×