盃の中は何も映らぬ、酒瓶の中も決して映らぬ。

袖も合わさらぬ、視線も合わぬ。通り過ぎ去ることの渇望と儚さ、孤独。溝の出来てしまった器に、もう何もかも、慈しみさえ救えぬ事は分かっていた。
正とは、否、とは。自覚だけを押し込め痕は朽ちる。苦しい気持ちを胸は締め付けた。鎖のように無錆なく、追々と。




「土方さん、ここにいらしたのですね」

軽く頭を下げると、冷たき廊下へと影は座した。
庭にある百合の花のように、透き通る白は黒を見つめている。
美しいものほど壊したくなるが、百合を折るならば横に居る男を喰らってしまいたいと、土方は単純にそう思っていた。

「斎藤か…」

渦巻く心に手は届かぬ。
求めた物は更地に還った砂を髄に連想させていた。

「こんな所で一人酒ですか?」
「…俺の勝手だろ」
「宴会を勝手に抜け出して…みんな残念がっていましたよ」
「嬉しがってました、の間違いに決まってらァ。大体宴会っつぅもんは俺の性に合わねェ…嫌いなんだよ」
「確かに、…私も嫌いです」

明かりもない底が、心地好いと感じることがある。人であるからこそ、執着を見せるのだ。そして、抜け出す道を知っている。自身が行動を起こさず、自らを脱する八策を夜は自ずと焼き尽くす。

「"副長様"がお二人も宴会に顔を出さないとは…」
「………。」
「屯所で、二人仲良く酌み交わしていると思っておりました」
「綺麗な冗談だな、そりゃ…」

皮肉そうに笑う土方の顔を、斎藤はじっと見た。
涙の意図もない表情に、理由もなくそっと手を重ねる。気の抜けてしまった左腕を、斎藤は抱き締めた。
盃は転がり、酒は道筋のように流れている。

(侵食さえ、劣る)

重い心が閉ざす先に、何が見えると言うのだろうか。兆しすら無い厳戒に、持つべき物はすり抜けてしまっている。
断ち切られた無数の糸に、此方を手招く数多の手。般若の顔さえ頓挫した。

「もう、前のようにはいきませんよ」
「…何の事だ、」
「山南さんと土方さんのことです。」

左腕は、まだ斎藤が胸に抱き抱えている。
流れ出す酒が、斎藤の袴を濡れさせている。

「互いに大きな傷を負って、山南さんと土方さんはきっと死別します。あの人とあなたは、もう二度と、一生分かり合えない。憎しみ合う、理解しない、笑い合わない、"さよなら"だけ」

並べられた解に錆びた鉄はゆらゆら動く。蔓延る物は何であるか、閉じ込める物は何であるか。

「……覚悟ぐらい、してる」

斎藤の温かさに惑わされぬ自分自身の冷たさに、土方は心を吐き捨てた。
そこに見るのは碧。死すればそれは融けて行く。

「俺ァ笑って生に幕を下ろせねェ臆病者だ。傷ついたまま死ねれば光栄ってもんさ」
「……変えようとは、しないのですね」
「自分らしくねぇことはしない。…うまく行かねェのが人生ってもんだろ?」
「土方さん…」
「もう俺のことは気にかけんな、お前もどっか行け」

酒瓶が唸るように庭へと落ちた。罅が、入った。
溢れだすように酒は土を殺していく。黒白に光る倩を、殺されているのか榾されているのか予想はつかない。
突き刺さった鉄は、抜けることもなく刻まれる。

「………。」

腰に手を回すと、余裕などは消えていた。腕は己を問い詰めない。薄くもない胸板に顔を寝かせ、斎藤は静かに目を閉じた。

「私も、後悔だらけで死にそうです。」

何処にも行かなかった。
共に在るように、片方の蝋のように耿台を照らす。死出の旅には地蔵が会釈、河原の狛犬は笑い出す。

「何もうまく行かない何も掴めない残せない溶け込めない。貴方と、同じ」

土方に抱き着いたまま、斎藤は呟いた。哀惜を囲むように、土方は斎藤の頭を優しく撫でる。
腰に手を回すと、背中を衝動が全て切り裂いた。

「堕ちるか、共に」

甘えなど知らないが、香の甘ったるい匂いを知っている。どのように触れれば喜ばせることができるのか、躯の中は知っている。
(軆ごと、引きずり込んで)


「……苦しいですね」


目を開けると男は笑った。
死ぬ間際では無いから今の感情は妥当と表現出来ないが、嫌でもない好きでもない不でもない。

(けれど、)

自身の黒に染まった心の中に、この男の顔が一瞬でも浮かべばそれで良いと思った。
そうしたら死に際の抱え込んだものだって消えている。自分だって、消える。

くすりと笑うと、土方も斎藤を抱き締めたまま素直に笑った。
耳にかかる吐息が、刻を燻っている。

「苦しくても構わねェ」

実感が無い。
連鎖のような其れは壊れてなどくれず、螺旋を続けて死に向かう。
少なくとも、一人ではなかったのだと斎藤は安堵した。苦しいのも、自分だけではなかったのだ。
底の墓場に眠れば暗く寒く寂しいが、それはそれで良いのである。

(温かくても苦しくてしょうがない事だってあったんだ、)

自分の存在を否定せずに、そのまま溺れる事だけを願うことは、あまり意味がないというわけでもない。
くだらない事を考えながら、斎藤は土方の手を弱く握る。



死ぬと感情は消えてしまうのか覚えているのか、不思議に思いながら目を開けると、土方は切なさそうに泣いていた。


「…泣かないで、」


掛けた一声の震えは、いつ止まるのであろう。

(土方さんにも自分を思い出してもらいたいなんて浅はかだ、いやらしいな、)

堕ちるの意味を深く考えると、斎藤の目からは涙が出ていた。




涙は喋る、愚かなお前は可哀想であると。

end











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