朝から思わしくない天気だということは知っていた。正しくは夕べ。小雨が庭の葉を打っている、そのような音を聞きながら床についた。
半刻すら立たぬうちに、原田の寝息しか聞こえなくなってはいたが、朝日も拝めぬ早朝には、大きい水溜まりが揺れていた。


朝稽古を終えた頃には雲間から僅かに光が射し、澱んだ水溜まりが晴晴と眩しい光を放っている。片目を瞑りながら手拭いで汗を拭いていると、後ろから新八、と名前を呼ばれていた。



「買い出し当番、回ってくんの早くねぇ?」



土方から食事の買い出しを頼まれた二人、永倉と斎藤は本日二度目の橋を渡る。
朝稽古中に木刀を握り締めすぎたせいか、米を持つ永倉の手はじんわりと震えた。それを持ち変えるわけでもなく、重い米袋を粗雑に自身の肩へヨイショと乗せる。一方、前を歩く斎藤の手には、野菜を入れた包みだけが寂しそうにぶら下がっていた。

さて、"犬猿の仲"だと言われるこの二人であるが、今日は屯所を出てから一度たりとも些細な言い合いをしていない。それに比べ、前回の買い出しは案の定、見事に悲惨なものであった。
米屋にて斎藤が米袋を持てと永倉に命令し、店の前で取っ組み合いになっている。そしてその結果、買ったばかりの米を市中にばらまくという大惨事を起こしているようだ。
…まあそのような事があったなどと、永倉という男の頭には御丁寧にさっぱり留まってはいないのだが――、


既に過ぎたる帰り道、珍しく今日は他愛もない話をした。重い米袋も真っ先に永倉が担ぎ上げた。買い出しの途中に見た真っ白くもない灰色でもない鷺を指差し、斎藤は永倉に微笑んだ。子供のように鷺が居ると、橋から身を乗りだし無邪気に笑っていた。しかし帰路を歩く今、全くその姿は見当たらない。

「鷺、もういねェなぁ」

確かに川の岸辺に立っていたのだ。欄干に手を掛けて下を見やるが、水面を歪ませるように風が強く駆け抜けるのみ。それから円を描くように、川は一帯に模様を創らせる。空を見上げれば、いつの間にか灰色だ。

さっそくあやふやに降りだした小雨が、しなりと辺りをおもむろに濡らした。

「雨宿りでもして行くか?」

晴れ間とは無縁、ぐずついた天気が雲を流す。それに伴って永倉の言葉も流れてしまったのか、前を歩く斎藤は、耳さえ傾けぬまま後ろを見向きもしなくなっていた。

(変な空模様だと思っちゃいたが、)

雲行きがそうであるように、斎藤の態度も先程とは正反対のように程遠い。振り返る事もなく、黙ったまま前を足早に歩くばかり。
まるで、愛想の欠片さえ落としてきたようである。

(…何だってんだ。)

雨粒が藍色の着物に染みを作る。同様に、永倉の麹塵色の着物にも染みを作り出していた。
それであるから濡れぬように、急いているのかもしれない。が、いきなり先程と真逆の態度を示されていては腹が立つ。
永倉のことだ、相手が斎藤であるからこそ余計に苛立ちは募るもの。
斎藤の腕を掴み、何が気に入らなかったのかハッキリ聞いてやろうとも思った。
(結局、かよ…)
何も変わらない。その割には複雑な想いがある。笑顔を向けられた分、こうなってしまっては駄目だと感じながらも、心は揺れ動く。

期待しているつもりはなかった。いつだって思い通りにはならなかった。結局、今日の天気がいつにもなく可笑しかったのだ。

そう言い聞かせても前を歩く斎藤が脚を進めるたび、着流しから見える足が白く気を誘う。誘っては化身に消失を促し、永倉は懸念に目を逸らし続ける。


下駄が、ガランと鳴った。思わず、ハ、とする。


前を歩く斎藤が、突如路地へと姿を消してしまった。白鷺のように、彼は白い翅を残していっちゃあくれまいが。



影を追い、薄暗い路地に佇む斎藤の後姿に声を張る。

「おい、なに天気みてぇにテメェもぐずついてンだ。」

苛立ちをぶつけるように、素っ気なく永倉は言い放った。それでもなお、斎藤は背を向けたままだ。
どのような表情をしているのか何を思っているのか、後ろ姿だけでは掴めない。気付けば、いい加減にしやァがれ、そう永倉の口は言っていた。
一緒に笑い合いたかった、それだけであるのに大きくすれ違ってしまっては、開いた溝を埋めることなど出来はしない。

「先に、帰れ」

歯車を狂わせたまま永倉に返す斎藤の言葉は、水溜まりを跳ねる雨のように弱々しい。拒否をするならば、もっと声をあらげてくれれば諦めはつく筈であるのに、呟かれた声は助けを求めている。
永倉にはそれが今一つ理解し難く、また、零れた雫により花が死ぬる葉の喜びも、全く理解は出来なかった。

「俺、何かお前の気に障ることでも言ったかよ…?」

対する返事はない。ただ、こちらを見てくれないことだけは確かである。身体が冷えて行くのも確かだ。
不確かであるのは二人の心中だけ、それだけが決して交わろうとはしない。

「気に食わねェなら文句の一つぐらい言やァいいだろ」

軒下が浅いせいか屋根から伝い落ちてきた雨の雫は、斎藤の背中をじわじわと濡らして行った。

「…何とか言えよ、一」



ざあざあと雨が降る。
さめざめと泣いている。


見兼ねた永倉は斎藤の肩を荒々しく掴み、細い腰に手を回して密着させるよう引き寄せていた。遂には、足元にどさりと米袋が落ちてしまっている。

反射、だったのかも知れない。無意識に、だったのかも知れない。
(違う、欲念だった。)
困惑するでもなく虚ろな目の斎藤を抱き締め、夢中に唇を貪っていた。そこで初めて目が重なったのだと思えば、奥底がぐらり、燃ゆる。

「こんなこと、二度とされたくなかったら…我儘言ってねェでさっさと帰れ」

雨はやまない。
やむどころか、引き留めようと浸食を繰り返す。
斎藤が永倉の背中に手を回せど、愛しくも冷たく濡れていた。

「……帰りたくない」
「じゃあいつ帰るんだよ」
「雨がやんだら、帰る」
「そりャいつの話だ。風邪ひいちまうぜ」
「あんたが、な。」

自分を濡らさないようにと壁へ押し付け、冷やさないようにと身体を密着させてくれている。そんな永倉の優しさに、胸は泣くように傷付くのだ。
重なるばかりの目と唇は、先を知りたがっていた。どくどくと脈をうつ太く大きな永倉の手は、斎藤の白い太股をなぞるように、着流しの中へと入り込む。

「……食っちまうぞ、」
「いいよ、…食べて」

永倉の頭を撫でるように髪を指に絡ませると、斎藤はゆっくり引き寄せ首筋に顔を埋めた。

「…雨が、怖いんだ」

首へと回された腕に、力が入る。

「…怖いなんて言ったら、笑われそうだな」
「笑うかっての」
「……すまない。弱音を吐くぐらいなら、嫌われた方がいいと思ったんだ。いつもみたいに…」
「だからって、いきなりあの態度はねェだろ。お前は自分勝手すぎる」

吐息を返し、生けるように温もりを探せば怖さなど消える。耳朶を甘噛みされ、舐められる水音に身を委ねれば、雨音など消える。


「初めて、人を斬り殺した時も、こんな雨だった。…嫌なんだ、…下駄に纏わりつく、泥、が…血、みたいで……嫌、」


唇を幾度となく吸われながら吐き出す弱音を、受け止めるように永倉は強く斎藤を抱き締めた。

「くだらねェことばっか思い出して勝手に沈ンでんじゃねえよ、馬鹿」

片足を上げさせられたせいで、下駄は水溜まりの中へと逃げるように落ちて行った。

「もう忘れろ、全部」
「ん…っ…」

軒下から外へ出た爪先が、雨に濡れる。
ばしゃりと落ちた下駄、股を割って入る、冷たい足。

「今度からは雨が降りゃアおめェ、俺とイヤらしいことしたんだって、そう思い出せるよな…?」
「ッ……ばか…っ、」

ほどけない腕が優しく弄る。吐いた声を呑み込むように、息をする間も与えられない。汚れた指先をも愛皎するように求められたのでは、手先からするりと流れ行くのみ。
(余裕も、無い。)
濡れた爪先を目に入れたと思えば、唇を舐められ、そのまま溺れてしまっていた。
(あんたのことで頭がいっぱいだと言えば、鼻で笑われるだろうか、)
ぎゅ、と永倉の背を抱く。


「熱いよ、…永倉さん」


折わるく降る雨さえ、不遣(やらず)の雨だと今は静かに囁いた。


end











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