自分自身の何かが嫌で投げ出したくもなったが、現実に戻り鞘に触れた。 真冬手前だと言うのに、刀の鞘も柄も下緒も冷たい。季節外れに弱々しく、蝶々は哀愁難く飛び去った。 「あれ、蜘蛛に食べられに行くんだよ」 "あれ"とは、蝶々である。左人差し指で示されたが、確かにそこは蝶の鱗粉の最中、蜘蛛にすら覚束無い銘記の追随であった。 綺麗であった、蜘蛛の長く鋭利な脚と牙は。汚くもあった、蜘蛛の糸に絡まる綺麗であった虫の死骸は。なにゆえ今更、心惜しくも喰らう必要が、喰らわれる必要があるのであろう、そう思った斎藤の眼だけは、蒼色に暉ったのだった。 「蝶々など食べない」 「一君は、でしょ」 「沖田さん」 「なあに、一君」 ぐるんと向いた顔が、まるで折れそうな首を支えていらっしゃるのではないか、黒くもない髪は口々にそう言う。 足袋と廊下の仄暗さが同化し、藍色の袴も誘われているようで喰われている気分になった。きっと、蜘蛛に喰らわれるモノの視界がそうである、死んではいるのだけれども。 「あまり深く考えない方がいい」 「ああ、平助のこと?それとも、私が山南さんを殺してしまったこと?」 「…沖田さん」 裸足のまま下駄を履くその指先は、何色か。暗黒色であれば壊死をしておられるのです。 「平助は、ガキだから…」 「ふふ、それ一君が言う台詞じゃないのに。同じ年なのにさあ」 「真面目に言っている」 「うん、」 「それに、あんたが山南さんを殺したんじゃない」 「…違うよ」 はあ、と白い息が渦を巻いて一瞬で消えた。月が雲隠れしたおかげで、何も見えなくなりそうにはなったが、それが反対に良く透かす。背筋を凍らしてしまうような指先は、爪が不安定に伸びているが親指は斜めに伸びている。 「私が殺したの」 人が死んだ後の、呻き声の後の、憎悪の後の、ゆっくりと流れる時間がどうにもなりはしない。 烏が鳴いている。帰路にも戻れない烏は泣く泣く、鳴くだけである。殺してしまったそれからの烏の貪欲さを、斎藤はよく知っている。目玉から喰らうわけである、蜘蛛は目玉に拘るわけでもないのに。 「山南さんを逃がしてあげられるの、私だけだったんだよ。なのに此処で切腹、一君おかしいと思わなかった?」 「……。」 烏が未だ鳴いている。 蝶々などいない。 烏が鳴いた。 蜘蛛が笑う。 「山南さんのこと大好き。けれど、近藤先生が頭に過ったらもうダメ、壬生に連れ戻してたんだもん。私は無意識に切腹させようとしてたんだ、さいあく」 言って爪を噛む。微かにパキリと音がした。深く刻み込んで横に滑らせる、ベリベリと爪は斜めに剥がれてしまった。深爪なんて一本ぐらいと、思ってそして、もう四本目には血を流しているわけである。指先が、脈をドクドクと打ったのであった。 「本望だったんじゃないか、沖田さんに介錯をしてもらえて」 「まさか。一君は見た?山南さんを」 「…あの人も屍も、眼球は澄んでいたが」 「やだなあ、濁ってたよ、あれは死人の眼だったもの、私をずっと見てた」 下駄を引きずらせて夜空を見上げると、星と言われるものが見えていた。それは懸命に光っている。それが沖田にとっては微笑ましくもあったが、それが斎藤にとってはどうでも良いことでもあった。 沖田の手背に紅を感じたのは、気のせいである。 「夜空の明るさに集って死ねばいいのに、蛾は」 沖田の小さくも広くもない背中に見たのは血まみれである。それはやはり気のせいである。 「でも散って舞っちゃうから、本当に鬱陶しいんだろうな、今の平助みたいにね」 「…ああ」 「嘘だよ、冗談。平助は大好きだよ」 「山南さんを殺したと、言われても…?」 「うん」 気味がわるいと棘のある脚等を振る舞うせいで、それらの影が寂々薄くなって赦さずと計られず。情を得てせまりし故に。 「そう言ってくる平助の顔は本当にいい顔をしてるんだ、いい殺気を持ってるんだよ、私に」 殆ど、人としての心地を失っていた。 「ねえ、あいつらに感情はないんだよ。ただ死ぬか生きるかだけ、それが苦難とも言えるでしょ?」 「あいつら、とは」 「蜘蛛と蝶々、蛾はちょっと違うんだけど…」 前触れもなくだしぬけに、急に行い始めることを浸食そして打惑い。深奥に達して悠然とする路傍の枯草のようだと声を揚げた。 「生きる事はいかに苦しむかだよ、だから私たちは感情があって殺したいとか思うの、平助が私をそう思っているように」 「感情…?」 「人間なんだもん、私も一君にそういう感情を抱く時がくるのかも」 「その時が来ても、俺は気にしない」 「私が嫌。だから今のうちに友達やめとかない?」 ボトリと蜘蛛が落ちてきた。脚が一本しか無く、そのような姿は滑稽である。蜘蛛の糸とも呼ばれる餌食用殺害ハクの中心で、蝶々が蜘蛛の脚を食していた。 「沖田さん」 「なあに、一君」 「友とは思っていない、それ以上だと思っている。だから心配などしなくてもいい」 沖田は笑って蜘蛛を殺してしまった。笑って蛾を見てはいたが、蝶々は手で握りつぶしてしまった。 「一君、気付くのは何もかも失ってからだよ」 「それは"後悔"というものではないのか…?」 「そう、だから後悔をしなければ人間なんて生きられないの」 羽が狂おしくも無用心に踊り地に至る。白刃に刺さる蜘蛛が映り、まるで生きているかのようだったが、土に染みを創るあたり完膚無きまで死に損なっていた。 夜風は冷たいままだ。 「私が死んで一君が後悔してくれたら嬉しいな」 「死にたい程するさ」 「はは…困っちゃうよ」 「して、心配事についての返事は?」 「有難う、一君」 蛾は黒烏に食された。 end ← ×
|