一頻り雨が降り、一層に強くなりながらも雫は跳ねている。瓦を滑ってきた水は、死骸のように土へと還って行った。
(雨も死ぬ、人も死ぬ)
そう思いながら障子に手をかけ、見えもしない自身の袴の色を、ぼんやりと見つめる。

「沖田さん」

愛しそうに名を呼んで、障子を横に滑らせた。素直に開いた部屋に暗闇と陰影は隠せない。
布団に横たわった沖田が、にこやかに笑った気もするが、背後に立った烏が笑ったような気さえする。振り向くと放たれた縁側には誰もいない。ただ単に、底無し沼が広がっているだけである。
部屋に足を踏み入れ、消失させるかのように直ぐ様障子を閉めた。背筋を撫でられた様だ。

「雨、酷いね」

口元を押さえながら蝋燭に手を伸ばそうとしている手は、暗闇でも細く映り、腕ごと折れそうな程にどうでも良い筈はなかった。
先に先にと行ってしまった気持ちが、遂には体温までも奪ってしまう。

「一君、体が冷たい。巡察だったの?」
「ええ、さっきまで」
「どしゃ降りなのに、ご苦労様です」

どことなく、いつもの声ではなかった。こういう声をするようになったのは、いつからだったのだろう。
斎藤は温もりを感じながらも記憶を探す。探しすぎて爪が取れたのだと自覚していたが、綺麗な爪は現実状綺麗のままにある。
(ここまでに中身と外が違う、外側の認めざるを得ないものが大嫌いだ、殺したい)
常にそう思っていた。

「調子は、」
「凄くいいよ」
「…嘘八百」
「聞いておいてそれはないんじゃないの」
「聞かれておいて嘘はないだろう」

抱き締めた後の感覚に喘鳴を覚えるばかりか、ゆるやかな肩呼吸が苦しそうに呼応する。
斎藤は目を瞑りながら、沖田の頬に口をつけた。こういう事をされる度に、首へと手を回していたが、それさえも今は何も出来ない。
(ああなんで、こんなにも、一君がいない部屋は監獄のようなんだろう)
涙さえ出てきそうだった感情を大きく飲み込むと、込み上げてくるのは嘔吐に似たような何かだった。

「息苦しい」
「痰は」
「あまり出ない。何でだろう、こんなに胸は響くのに」
「背中、少し叩こうか」
「いいよ、まるで病人みたい。私はそんなに弱くない…」

何を堪えているのか、最早わからなくなっていた。斎藤の身体を押し返すだけで、だるく感じる手が、指先が、心が頭が眼窩が心臓が。

「このまま窒息して死にたいな」

言うとピクリ、脇腹に触れていた斎藤の指が震えた。これが何を意味するのかさえ、よく知らない。沖田は知りたくもないと思っているが、どうも向こう側は違うのだと嘆くばかりの瞳を触れさせる。

「一君、もうおやすみしよう」
「…冷えきった部屋に戻れというのか、あんたのいないあの部屋に」
「うん、だって、もう同室じゃないもの」

床の間に飾られた花から一片、腐っていたのか脆かったのかどうなのか、自然に不可解もなく落ちた。
それだけは稲光がなる中でも鮮明に見えている。

「ね、疲れてるから。お願い…」

懇願は込み上げてくる花と比例していた。それなのに、抱かれたままの姿勢は何にも振らない。

「一君、聞いてるの」
「…咳」
「え?」

咄嗟に強くなった力に、そのまま接吻をされてしまっては反動など出来る筈はなかった。
息苦しさを紛らわすために高く調整した枕を、乱雑に弾かれる。それから押さえ込むように其処へ埋めると、沖田の唇から自身の唇を未だ離しはしなかった。

妙な音を立て、沖田が息を吸った時には既に接吻などされていなかったが、上から見つめる斎藤の顔に愛しさを感じている。
死に際でも何でもない、雨が降り続く夜の、些細な出来事であるだけなのに。

「少しは楽になりましたか」

口に紙を当てた後に、優しく聞かれた。その紙を丸めて畳へと転がせば、それは重くのし掛かり、不安ばかりか全ての構想を神経へと到着させてしまっている。

「何で、こういうことするの…。私は、私は死ぬよりも他人にうつすことが嫌でたまらないだけなのに…」

斎藤の腕を強く握り、爪を多少食い込ませる。伸びた爪は蒼白に近い。
その痛みに耐えながらも、斎藤は口内に残った分泌物を生唾で飲み干した。

「あんたは、喉に血を詰まらせて死にたいのか」
「私を咳き込ませたのは一君だよ」
「あんなこと、言うから」
「だからって…」

酷い息苦しさを接吻で緩和されたのだと思うと、心は変になるばかり。喉に舌を入れられた錯覚を見るばかりか、吸い出されたものが今は少なからず斎藤の体内にある。
転がり丸まった紙を見ようと横を向けば、鎖骨に口付けられ視界に陽炎が浮かんでしまった。そうしてまた、咳き込む胸廓の中身。

「どうしよう、一君にうつっちゃう…」

憎らしそうに再び丸まった紙を見ると、血が混じっているのかが気になってしまう。確かに自分は血の味を感じたが、それは抱いてくれる人に聞けないと思っていた。
人は幾人も殺してきたが自らが殺してしまうのは初めてで、他人に殺されるのは知っていたが自らを殺すとは自刃以上に思いもつかない。
菊の花は綺麗である。

「沖田さん、結核は不治ではない。だから血を喉に詰まらせて死ぬことは許さない、病で死ぬこともだ」
「不治だから、うつらないとでも言うの…?」
「ああ」

背中をさすられるのは何年ぶりだったのだろう。沖田は江戸に居た頃を思い出したが、浮かぶのは冬も間近の秋であった。
乾いた咳が、綺麗を醜く変えている。離れて行かない人が、こんなにも近くに存在していると、明後日が怖くなるのは螺旋に等しい。

「うつらないから、あんなこと言わないで欲しい」
「うん、ごめんね」

(あなたが不治の病にかかってしまってから、何だか世の中に人間に死者に希望に勝敗に生きている事に、興味が全く無くなったようなのです。だから早く死にたいと思わずにはいられないので、死に急ぐあなたを抱き締めていたいと)
言えば彼はどんな顔をするのだろう、きっと心配する、思いながらも斎藤は微笑んでいた。

「一君と一緒に寝るの、やっぱり大好き」

音を立てる雨水はやはり死ぬことを選ぶ悲鳴である。跳ねたものを食べるために烏は飛んでいる。何もかも食べて腹を満たし腐食までを喰らい尽くす。

「ずっと好きだ」

呟くと、恥ずかしそうに沖田は斎藤の腕の中で蠢いた。それには背筋を触られたようにも浸すほど感じる。
愛しすぎると烏が立ってこちらを見るのだ。雪が降る頃には桜を喰らうくせに、曇天雨ならば人を喰らってしまうのか。

「抱きたい」
「うん、抱いて」

黒い慈雨に偽りはない。


end











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