流れる汗がじわりと滲む。おまけに汗の感覚など知るよしもなく、身体の中心とも言えない所で脈が早く打った。
それは自由気ままであるのに、精神と呼応している。

いつ襲われるか分からない身を素早く物陰に隠せども、不安など止まる筈もなく。無情に足下の砂利が下駄に反応し、ザリザリと鳴るだけで更に無情を呼び寄せる。
平助は自身の胸にそっと手を当てた。

息が出る度に沈み、苦しくも吸えば胸は浮き上がる。
「う、げほっ…」
それは空咳とは言えないものであった。

「大丈夫か」
「…うん」

一に返すと民家の壁に背中を預け、気力もなさそうに地へと尻をつける。もう一度空咳でもない湿った咳をすると、路地裏の天井には青空が広がっていた。
「血の味が、する」
駄目だと思った。いくら逃げても逃れはしない。故に追手はすぐに手を伸ばす。諦めにも似た感情が目を虚ろにし、瞑ってしまえと言わんばかりだ。
「もう駄目だよ…」
弱々しく呟くと、一は眉を吊り上げながら振り向き、「まだだ」と一言放って平助の手首を引っ張った。

「いいか、見つからないように逃げろ」

そう言って軽く平助の肩を押し、路地裏から逃げ出すようにと一歩を踏ませる。
「はじめは…!?」
「俺はあいつを殺す。お前は道場裏の崖下で待っていろ」
無表情でそう言われたのだが、汗は確かに顎を伝っていた。肩で息をしているのか、少し眉をひそめて苦しそうにしている。それでいて、一はどうしても平助を逃がしたかったのだ。

「行け!」と言われたと同時に、路地の向こう側からは「見ィーつけた」と愉快な男の声がする。したと思えば、一は平助を思い切り突き飛ばし、自ら男の元へと駆けていったのだった。


身体に籠る熱さなど、とうに忘れて下駄を鳴らすと、平助は懸命に走った。辺りに目を配らせながら走るには、体力がいる。
――見つかってはならないのだ。見つかってしまえば、先は分かっているようなもの。それを思うと急に一の事が思い浮かび、無事に崖下の木陰へと身を潜めても、異様な不安は休むことなく押し寄せる。
手が、震えた。

「平助」

ビクッと肩を揺らすと、声の先には肩を押さえて息を切らす一人の男が。
「俺だよ」
「はじめ…肩、」
「かすっただけだ」
言って平助の横に重く座り込むと、下駄の鼻緒に砂埃が付着した。そして隣の身体からは、心臓の音が聞こえてくるような気さえする程、息が荒い。

「殺し損なった、直ここにいることもバレるだろう」
「…うん」
「今度は大久保通り沿いに逃げるぞ」
「あの、さ」
「?」

ザワザワと深緑色の葉が揺れる。涼しいと目も細められない風が吹き去ったが、妙に生温い。嫌な感じしか覚えない風だ。

「足手まといになってばかりだし、僕を置いて行って」

風は崖を昇っていく。雪が降るような静けさが、辺りの音を強調した。蝉は鳴きはしなかったが一匹だけ死骸となり、目の前で朽ち果てている。そこは生憎の草むらで、蟻にはまだ食われていない。

「ふざけるな」
「…だって、」
「だっても何もない。お前がやられたら俺はどうすればいい。俺は断固絶対に道場の掃除などしたくはない」
「そういう奴だったよね、はじめって」

木刀を握ると、汗が滲んでいるのか冷やりとした。

「クソ、あいつを殺して永倉一人に道場掃除を押し付けるつもりが…」
「はじめ、永倉さん殺しちゃったら道場掃除出来ないよ」
「いや、させる」

木陰でゴニョゴニョと言い合う二人。
彼ら、否、いつもの五人は道場の掃除を賭けて勝負をしている真っ最中だったのだ。決まり事として、誰かに一本を取られた時点で失格。組んでいる者同士、片方が失格になれば共に道連れとなる。そのため、平助が一本を取られれば必然的に一も掃除当番は否めない。
だから余計に力が入るのも無理はなかった。

「そんなに永倉さんに道場掃除させたいの?」
「めちゃくちゃさせたい」
「別にさ、原田さんとか沖田さんでもいいじゃん」
「アホ。沖田さんと原田さんは組むと最強になるんだ。俺の相方がお前という時点で勝ち目はない」
「なにそれ!」

どうやら沖田と原田が組んでおり、永倉は一人のようだ。これはくじ引きで決められたのだが、どうも一はこの結果に不服のようである。

「俺と沖田さんが組んで入れば天下統一も夢ではなかった」
「あーハイハイ!僕で悪うござんしたね!」
「道連れ制じゃお前を囮にも出来ん…」
「ちょっ、なにそれヒドイ!囮とか言わないでよ!僕だって一生懸命なんだから!」
「ああ?黙らねーと田安稲荷に埋めるぞ」
「田安稲荷?」
「冬青木坂の向こう側にある神社だ」
「えー、分からないよ」
「中坂沿いの!俺ン家の少し奥!!」
「あ、分かったかも」

鳴きもしない蝉が、バサバサと頭上の木から飛び立っていった。少し大きい鳥が枝に止まったのかと気にはしなかったが、あまりにもヒドイ揺れに二人は顔を見上げる。
「隠れんぼは声出しちゃ見つかるんだぜ」
二人が見た光景とは、崖上で木に掴まりながらニヤリと笑う原田の姿であった。
「一君も平助も覚悟お願いします」
再び聞き慣れた声に振り向くと、そこには道を塞ぐ沖田が悠々と立っている。

「しまった…!」

一が後退りをしたのも既に遅く、原田は豪快に崖から下り立ち、二人を挟み撃ちにする。こうされてはどうしようもない。平助の目には原田と沖田が鬼のように映ったのだった。

「どうしようはじめ…」
「取り合えずお前は沖田さんを相手しろ」
「はァ!?」
「そっちが道に近いだろ、隙を見て逃げれる。お前は逃げる事しか取り柄がないから、逃げてくれれば有難い。掃除だけは絶対に嫌だからな」

そう言って一に思い切り蹴り出された時には、数間先に沖田は構えていた。息を飲むと、右足が動かない。
(死んじゃう…)
泣きたかった。一には悪いが降参したい気持ちは大いにある。一応剣術として形だけでも木刀を構えはしたが、振る気は全く起こらない。平助はもう一度泣いてしまいたいと思ったのだが、思った瞬間に目の前から木刀が手を離れ、空を高く舞っていた。

左に重心が傾いた沖田が、ススと移動する。
「一本取った!」
なんとも笑顔がいつもらしかった。平助は迫り来る太刀筋の良い気迫に負け、目を瞑ってしゃがみ込む。
けれども、一向に頭にも肩にも痛みは来ない。

大きな下駄の音が鳴ったと、そればかりが気になって恐る恐る目を開いて見ると、そこには沖田と木刀を交わす永倉がいたのだ。
「永倉さん…!」
――が、永倉は敵である。彼は豪快に木刀をぐるんと回すと、「俺を置いて楽しんでんじゃねぇ」といかにも楽しそうな表情で沖田に言った。

「あ」

沖田が永倉の相手をしてる今、逃げ道は閉ざされている筈もない。平助は一が言ったことを思い出しながら、少し頭に来つつも身を起こす。

「逃げろ平助!掃除は嫌だ!」
後ろから一の声がした。原田の突きを塞ぎつつ、懸命に平助へと声を張り上げる。
「僕も嫌だよ!」

そう言い残して戦場を脱出したのだ。後は一だけ脱出してくれればいい。一なら大丈夫だ、絶対一本も取られず逃げ出して来る。
(もしかしたら原田さんから一本取って掃除は免れるかも…)
平助は色々と希望に満ちたものを思いながらも、その場を離れたつもりだった。


だが、道に出た平助は誰かとぶつかり、イキナリ撥ね飛ばされてしまう。
鼻を押さえながら何事かと見上げると、逆光でよく見えはしなかったが…それは恐怖を知らされる第一歩の原因に過ぎなかった。


「テメェら、いなくなったと思えば…道場の掃除を賭けてチャンバラごっこか。いいお遊びしてやがる!」


怒りに溢れた土方の声は、牛込柳町一帯を焼きつくしたとか。
結局、「土方さん綺麗好きだから嫌なんだもん」と文句を真っ先に垂れた沖田は、日が暮れるまで厠掃除をやらされたらしい。それまで後の四人はというと、土方監視の元、一列に正座をさせられていた。
それを心配そうに、オロオロと柱の影から見守る近藤であった。


end











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