このまま桜の花弁が散り散り散る散る散り積もれば、やがて自身の足などは埋もれて見えなくなるどころではなく泣く泣く無くなってしまうだろうと思ってしまう程である。埋もれるであろう脚と、埋もれて見えなくなるであろう腕は、他人の手足と何ら変わりはない。まだまだ風は冷たい。



「斎藤君のくしゃみは貧弱過ぎてだな、聞くに堪えない」
「谷さんのくしゃみが豪快なだけです、吹き飛んでしまいそう」

散り積もった桜の花弁が目の前の小川にも集まって、何千隻もの花筏を出航させている。或いは桜の舟葬墓、花の屍を乗せて有終の美と云う終末を飾る。満月で在りながら清けし水面、それを呑み込み映したる月明かり、を、真っ当に覆い隠す桜は心豊かにさやぎ笑んだ、醜いと目を細め。


澱んだ夜桜を楽しみながら、斎藤は谷が肩に掛けてくれた藍染の羽織を握り締めた。

「あまり其方に行くんじゃない、斎藤君」
「道みたいに歩けそうだなって思って、ほら、花筏の道に見えるでしょう」

花弁が敷き詰まった小川に近寄ると、谷は行くなと言わんばかりに羽織の袖を引っ張ってくる。先程からこの繰り返しが続いている。一人は心配を寄せ、一人は好奇心を一途に追う。谷の長男気質と斎藤の末っ子気質が見事にはっきりと滲み出ている光景だ。

「確かに道みたいに見えるが、歩けそうだとは思わん」
「谷さんの正論は面白くないです。そういう時は歩けそうだね、って言うのが正論ですよ」

正論を捻じ曲げる言い回しに納得が行かなかったのか、谷は顎に皺が出来るほど口角を下げた。余程言いたい事が山のようにあるのだろう、更には唸りながら腕を組み、眉間に深い皺を作っている。
この顔を見ると斎藤は至極愉快な気分になる。どんな言葉を選び、並べ、繋げ、捻じに捻じ曲げた正論を元通りに捻じ曲げ返してくれるのか。それが些細な日常の、何気ない小さな小さな楽しみの一つです、と言いたい所だが、斎藤は唯単に真面目な谷を揶揄いたい。遊びたい。それだけだ。

そんな事を思って自分の答えを待っているなどと谷は知る筈もなく、立ち止まって顔をじっと見上げてくる青年を、谷は訝しむように横目でちらりと見下ろした。

「言っておくがね斎藤君、」
「はい、何でしょう」
「花弁のせいで道が在るように見えるだけで其れは小川であって道じゃない。歩けそうだ、と言った所で非現実的な話でしかないのだよ。この非現実を正論だと述べるのは可笑しい話になってしまう。よって前者が正論になるため私は決して正論を間違えていない」

枠に当てはまった、真面目で正直者な谷らしい回答の仕方だ。これには自分も納得がいったのだろう、フン、と勝ち誇ったように鼻を鳴らした。彼はいつだって間違えない。
しかし、此処で気を抜いてはならないのが本題だ。斎藤は谷を揶揄う事に全力を注いでいる。まさに此処が正念場である。

「ええと、よく分からないです」
「は、…分からない?何故分からんのだ」

勝ち誇った顔が一瞬で曇った。雲行きは怪しさを通り過ぎて春雷の訪れを示唆する。斎藤の顔は梅雨明けの新緑だ。二人の間には気候のずれが必ず存在する。

「言葉が難しいです。谷さんが何を言いたいのか回りくどすぎて理解出来ません」
「だから…、歩けそうと言うのは主観であって実際は歩けないのだから正論にならんという事だ。主観を信じて正論を無視すると結果的に危ない」
「谷さんはどうしていつも簡単なことを複雑にしてくるんですか?」
「どうして複雑にしてくるんですかと言われてもだな…私は単に説明をしただけだ、ちゃんと分かりやすく述べたではないか」
「分かりやすくって…、谷さん的にどこらへんを分かりやすく述べたと思ってるんです全部分かりにくいです」
「何故私が斎藤君に怒られる側になってるんだ…」
「怒ってません、もっと噛み砕いて言って欲しいだけです。正論を無視すると何がどうなって、どういう事になるんですか、この通りに言ってください。言わないと怒ります」
「歩けそうだという気持ちだけで歩けぬ所を歩くと小川に落ちる。夜はただでさえ暗い、落ちたらどうするんだ」
「びしょ濡れになります」

はああ、と斎藤の隣で長い溜め息が吐き出された。谷の顔が明らかに疲弊している。対する斎藤は含み笑いを隠しきれず、口を一文字に保つのがやっとだ。
疲弊しながらも、この男は揶揄われていると自覚していないのか認めたくないのか冗談がそもそも通じないのか、どんな事でも真面目に応えてくれる。谷の長い蘊蓄を斎藤はいつも半分以上聞いていないというのに、谷はしっかりと斎藤のくだらない話を隅々まで、最後の最後まで耳を傾け聞いてくれるのだ。だから常々こういう事になる。

「……そうだな、びしょ濡れになる。だからあまりそっちを歩くんじゃない」
「歩けそうだから試しに歩いてみても良いですか?」
「なぁ、私の話を聞いていたか?小川に落ちたらびしょ濡れになると君は先程理解したのでは…?夏ならまだしも、今は桜が咲いている季節だぞ?桜が咲く季節ぐらいは分かるだろう」
「馬鹿にしすぎです、春です」
「ああそうだよ春なのだよ。まだ寒さが残るこんな春先にやめてくれたまえ。私が君に貸した羽織が濡れてしまうだろ」
「谷さんは自分の羽織の心配しかしないんですね」
「そ、そんなことは断じて言ってない…!」
「言いましたよ今」

今度は揚げ足を取るように反論に反論を乗せ、いつも冷静沈着を装う男の慌て具合を愉しんだ。


谷三十郎という男は優しい人間だ。だが、惜しくもその優しさを上手く言葉に出来ぬ人間なのである。加えて言葉足らずであり、よく悪い方へ誤解を招く事が多い。当の本人は誤解を招いてしまってから気付く事が殆どで、後々自己嫌悪に陥っている。
しっかりと弁解すればまだしも、谷は相手を引き留めてまで自分の事を話そうとはしなかった。それに輪をかけて誤解が誤解を生み出し、隊内の一部では面倒な人認定をされてしまっている。

「わ、私はだな…っ、君が…っ」
「君って名前じゃないです」
「斎藤君…!なァ、聞いてくれ頼むから…っ、私はそんなつもりで言ったのではなくてだな…!斎藤君が…っ」

そんな谷が今、誤解されたくない一心で一生懸命に弁解しようとしているのだ。普段は堂々と胸を張っている男が、背中を丸めうろうろ、おろおろする様は見ていて大変興味深い。
笑いを堪えきれなくなった斎藤は、最終的に両手で顔を覆った。それがまた谷の不安を煽る。

「顔、とりあえず顔を見せてくれ…!ちゃんと顔を見て話したい…っ」
「嫌です、泣き顔なんか見せたくありません」
「なっ、泣き顔だと…!?」

泣き顔だと告げれば、谷は更に慌てふためいた。斎藤が左に顔を背ければ左から顔を覗き込もうとする。右に顔を背ければ右から顔を覗き込もうとする。

大袈裟に顔を両手で覆い、左、右、右に顔を向けた時だった。近くで、それも足元で大きな魚がどぶん、と跳ねた音がした。


「あ、」


斎藤の顔を覗き込もうとした谷の片足が、膝下あたりまで小川に浸かっている。暗くてよく見えなかったのだろうか、それとも斎藤が唱える花筏の道に騙されたのだろうか。立派に正論を諭しておいて、御立派に自ら罠に嵌っている。
無言で小川から片足を引き上げると、袴、足袋、下駄、浸かったところ全てに満遍なく花弁が付いていた。それがなんと可憐で似合わぬことか。
二度目の深い溜め息を吐き、谷は疲れ果てたように遂にはその場へ座り込んでしまった。

「そこ、道だと思いましたか?道に見えますが、そこは小川です。やっぱり歩けませんでしたね」
「斎藤君、泣き顔どころか可笑しくて堪らないって顔をしているように見えるが」
「谷さんの言う通りでした、非現実を正論だと述べるのは可笑しい話でしたね。主観を信じて正論を無視するのは危険だって、身体で証明して下さったんですね」
「よく分かってるじゃあないか…」

谷が小川に足を突っ込んでしまったせいか、水面はゆらゆら揺れ出し夜空の丸い黄金色を溶かしている。鏡に照らされたようにきらきら、四方八方を封じて艶やかに誘う。それが乱反射し、真上に広がる桜たちは優雅にさめざめ青白く、紺青色に染まろうとしていた。
それが何と美しきことか、
(いや、それが何と気持ち悪きことか、)
水に浸った脚まで溶けそうだ、真上に広がる桜たちに頭から食べられてしまいそうだ。

足に張り付いた花弁を拭えど、ぬたぬたと手に絡み、執拗に纏わりついてくる。これは、あれだ、忘れられぬ嫌な思い出に似ている。素直に風情を愛でるでもなく、嫌な思い出として被せてしまう自分自身が途端嫌になった。そんな谷の表情はいつにもなく冴えない。

谷は桜がどうしても苦手であった。
(それは故郷の桜を思い出すからだ、二度と帰れぬ故郷の桜を、)
そんな事を斎藤が知るわけがない。知らないからこうやって、呑みに行った帰路ついでに夜桜見物に誘われている。誘いに乗ったのは自分自身だ。それが何故だかよく知っているようで分からない。

「最悪だ、酔いが覚めてしまったよ。桜なんか見に来なければよかった…。君には嘘泣きもされるし散々だ」

嫌な思い出と被せて自棄になっていると感じた。言ってしまえば終わりだ、言ってしまえば取り返しが付かない。斎藤の不安そうな顔を見て、何でも無いとは取り繕えない。不安は大きくなって胸を圧迫する。

「あの…、桜はお好きじゃありませんでしたか?」
「好きでも嫌いでもない。こんな最低な花見は二度とごめんだ」

君が誘ってくれた事が何より嬉しかった、嫌な事も嫌な思い出も少しは忘れる事が出来るのではないかと思った。自分が素直じゃないばかりに、君を傷付けてしまった、狼狽えて焦ってしまったのだ、君を悲しませたくはないのに。
此処まで言えたらどんなに楽だろう、結論まで考えて谷は言うのをやめた。また逃げてしまった。逃げて嫌われて、普段通りそれで良かった。

「好きでも嫌いでもないって、悲しい事言わないで下さい。桜が嫌いなのですか、それとも嘘泣きした私の事を嫌いだと仰りたいんですか、そもそも一緒に居たくないのですか、どれなんですか?」
「君を嫌いだとは言ってないだろう…」
「谷さんの顔が嫌いだと仰っています。好きだと言葉にしない限り、限りなく嫌いという意味です」
「好きと嫌いは極端すぎる、曖昧なものもある」
「曖昧にされては困ります」

それで良かった、なんてことに斎藤は結び付かせようとはしてくれない。存外、この青年は手強い。

「はっきり仰ってくれないと、一緒にいながらむすっとした顔をされるのは御免です」
「生憎この顔は生まれつきだ。嫌なら他の奴と呑みに行くなり花見に行くなりすれば良かったじゃないか」
「酔っても醒めても素直じゃない大酒呑みのくせに、そういう事はハッキリ仰るんですね」
「いや君も大概ぶり大酒呑みだろう、何言ってるんだ」
「私は谷さんと一緒に居たかったから、だから…」
「そういう思っても無い適当な物言いはよしてくれ。上辺だけの言葉は聞いていて疲れるんだ、君だって…」

言葉を遮って言葉を重ねておきながら、考える事をやめてしまえば言葉に詰まる。


「いや、何でもない……。悪いが斎藤君、先に帰ってくれ。君といると頭がおかしくなりそうだ…」


理由を提げて何度も逃げる。逃して欲しかった。話さないと何も伝わらない。他人は察してくれはしない。そんなに、人は優しくない、待ってもくれない。だったら、と、勇気を振り絞って正直に話したとしても、言葉が足りないが故に拒絶されることもある。他人と馴れ合うのは難しいのだ。それを谷はよく知っている。知っているからこそ、治せない。前進も後退もせず仄暗い水底に足を浸けている、そう、さっきみたいに脚を、自分の脚を自分で沈めて他人の脚ではない自分の脚を、傍観する。


「羽織、お返しします」


ばさり、と斎藤に掛けてあげた羽織を本人から潔く突き返されてしまった。それも頭に被せられるように。

被せられた羽織を捲ってしまえば、もう斎藤の姿は無いだろう。あれだけ手が触れる距離にいたのに、二度と手に触れられないまま、視界からも消えてしまう。去った後に気持ちに気付いても、去る前に伝えなければ死んだ者と同じだ。

これで良い、これが定番、この惨めな自分が一番自分に似合っている。谷は自身をそう決め付けている。今まで何一つ変えようとしなかった、見向きもしなかった、所詮人との関わりで何かを得られるものはないと知っていた。何かを得たいと思えば思うほど空回るのは自分だけだと知っている、知っていたとしても、

(私はきっと、斎藤君のことを好いているのだろう、な)

率直な想いを何故有耶無耶にしてしまうのか、怖いのか、では想いにしてしまった意味は何だ、虚しい。
項垂れると、髷に引っ掛かっていた羽織がぱさり、地面に落ちた。孤独で寂しい景色が並べられていると思えば、谷の眼前には斎藤の顔があった。

谷は今日一番の悲鳴を上げ、見事に後ろへひっくり返って夜空を一漕ぎ。それはもう、落とした握り飯が彼方へ転がる如く──。


「そんなに驚かないで下さい、こっちが驚きます」
「いやいやいや驚くに決まっているだろう!?君は…っ、私の寿命を縮める気なのか…!?」
「帰ったと思いました?」
「私は先に帰ってくれと言った筈なんだが…!?」
「谷さんを置いて先に帰るわけないじゃないですか、帰り道忘れました。それに、」

斎藤はひっくり返った谷の身体に跨るよう、のし、と上に乗っかった。

「さっき、顔を見て話したいと必死に言っていたのが気になって。さあ存分に顔を見て話して下さいませ」

腑を愛でるように谷の腹下を撫で、するする胸の方へ両手を這わせた。着物越しからでも谷の太い骨格、大きな硬い筋肉の形を掌全体で感じ取ることが出来る。斎藤自身もこのように人の身体を触ってみたのは初めてだった。悪戯のつもりが悪戯では済まされない。悪戯で致しているわけではない。何処まで一緒に流れてくれるのか試したかった、一緒に流されてみたかった。だが、谷は流されぬよう必死に止まろうとする。それではやはり面白くない。

「待ってくれ斎藤君!分かったからやめてくれ離れてくれ!こんなのは破廉恥だ…っ!君、君なァっ、何をしているのか分かっているのかね…!?」
「谷さんの上に乗って身体を触ってます」
「それが問題だ大問題だッ!!何故っ、なにゆえな出来事だぞこれは…ッ」

混乱しているのか、口達者な谷も己が何を喋っているのかさえ不明だ。

「谷さんが素直に思っていた事を顔を合わせて素直に仰ってくれれば良いのです。それだけなのに何をそんな、」
「何をそんな、だと…っ?これが、こんな…ッ」
「羽織を被って羽織の中でお喋りしてもいいですよ。そうすれば谷さんの興奮も鎮まると思います」
「そ、それはもっともっと興奮するやつになるだろォが…ッ!いかん!やめてくれ斎藤君っ!この体勢はよくない…っ、本当に、よくない…!もうこれ以上私に触れないでくれ!」

斎藤を押し返そうと身体に跨った脚を掴むと、ふに、と白い太腿に谷の親指が食い込んだ。柔らかい感触に、指先から心の臓を目掛け、果ては頭の中を貫かれた感覚に陥った。
それだけではない──。袴を履いていない斎藤の脚が、谷の身体にこれでもかと密着している。太腿にみっちりと身体を挟み込まれているのだ。それに、柔らかい太腿以上に柔らかい尻が、谷の下半身の上にある。
意識すればする程、触れている部分が熱を帯びていくのが分かる。

「堪忍だ、斎藤君…っ、完敗だッ、こんなのは気が狂ってしまう。拷問と一緒だよ…、私は何か君に恨まれることでもしてしまったかね…?」
「本当の事を言ったのに、"思っても無い適当な物言い"だって谷さんから言われました」
「わ、悪かった!謝る…ッ!本当に悪かった!」
「谷さんも素直に言いますか?」
「言う!言う、から勘弁してくれ…っ」
「では、聞かせて下さい」

桜並木の下、春を喜ぶ獣のように大の字に寝転がる男と、その男に馬乗りする青年の何とも春画紛いな芳しい図が出来上がっている。それもこのような事件を誘発しておきながら、斎藤は涼しげな顔でくすりと笑った。この情景のどこらへんが涼しげに笑えるのか、最早谷には理解し難い。余裕もない。
悔しそうに、完敗してしまった谷は斎藤の目を見て大人しく口を開いた。

「斎藤君のくしゃみ、あれは、可愛すぎると言いたかったんだ…!だから風邪を引かないように羽織を掛けた…っ、それなのに君は土手を降りてっ…全く、夜道は危ないのに…、小川に落ちたらもっと冷えるだろ、私の羽織も濡れたら君の身体を何で温めてあげたらいいんだ…っ」
「……それ、話の冒頭に遡りすぎです。谷さんはやっぱり回りくどすぎます」
「ああもうっ…だから言いたくなかったんだ…!」
「いいえ、言ってくれて嬉しい」

やんわり微笑んだ斎藤の綺麗な顔が近付き、谷の厚い下唇に生温かいものが触れた。触れられた部分に神経が集中し、感触や質感が頭を占領する。思考回路が繋がらない、とはこの事だ。

「斎藤君、今、何を……」
「花弁が口元に付いていたので。谷さんが触れるなと言ったから触れました。これは嫌がらせです」

咥えた花弁を舌で押し出し、指先で取ろうとした時だった、視界がぐるんと回転し、見下ろしていた谷の顔を今度は斎藤が見上げている。

「谷さん…?」
「君はもうちょっと、いや、かなり危機感を持った方が良い…。君は強いから心配ないとは思うが…、もしも、こんなことになってしまえばどうすることも出来んだろう…?」
「こんなこと、って…」

大きな手が斎藤の髪を撫でた。
乱れた着物の隙間から、指先が中に入る。それさえも熱い。それは、愛しい者に触れる手付きだ。

「男が男に惚れるなど、全く可笑しな話だというのは分かっている。こんな、強姦まがいな…」
「谷さん、これは和姦です、よ?」

谷の着物の袖口から、するすると中に手を伸ばした。強張った腕を欲しがるように撫で、爪を立てた。欲しがるのではなく、欲しいのだ。

「嘘泣きすれば、谷さんがもっと困るだろうなって。面白いなって、焦って欲しいなって、…思っちゃいました」
「可愛い事をするのだな、斎藤君は」

(ああ、そういう目で、顔で、)
女を抱くのだな、と斎藤は思った。では、どんな風に抱くのだろう、どんな優しい声を掛けるのだろう、男では味わえない谷の一面を覗きたい独り占めしたい愛されてみたい。
(嬲られたい。)
覆い被さってきた谷の首に腕を巻き付けた。が、ひょいと腰を引かれ身体を抱き起こされていた。

「帰るぞ、斎藤君」

手を引いて土手を登る谷の耳は真っ赤である。
濁った濃い羨望を見せつけてくるくせに、此方の気持ちも聞こうとしないで。

「斎藤君、すまなかった…。思っても無い適当な物言い、だとか…上辺だけの言葉、とか…」
「私は本当の事しか口にしませんので、お見知りおきを」

握った谷の手が、ぴく、と動く。それは了解されたという意味なのか、それさえも信じ難い信じられない信じ切れないという揺るがせか、信じてみようという暗示だったか。目を見なければ分からない。目を見ても心の裏は分からない。


「谷さんのこと、もっと知りたい。何が嫌いで、何が好きなのか、とか」
「桜がどうしようもなく嫌いだ。……藤は、好きだ。白藤は君に似合う」
「どうぞ、今度は白藤の下で抱いて下さい」


もうすぐ、藤の花が開く。咲き誇れば抱かれるのも、もうすぐである。
前屈みになりながら辛そうに歩く谷に手を引かれ、斎藤は満開の美しい桜を見納めた。





手を少し引っ張られ気味に後ろを歩いても、一番見たい谷の顔はちっとも見えなかった。絡んだ指が熱いと、身体まで熱くなってくる。
貸してもらった羽織を小脇に抱えていたせいか、立派な羽織には無数の皺が入っている。それを悦ばしそうに眺めつつ片手で雑に手繰り寄せ、斎藤はこっそりと衿元の匂いを嗅いだ。匂いを嗅いで、その衿元を口に含むと、口の中に心地良い谷の味が広がった。じんわり唾液を吸い込んだ衿は、じっとりと濡れている。
屯所に帰り、谷に礼を言って羽織を返す頃には濡れた衿元もすっかり乾いているだろう。斎藤の唾液が染み込んでいるとは知らずに、谷は此の羽織を着るのだろう。皺くちゃな羽織を見て今日のことを思い出すのだろう。

(喰らわれたいのではなくて、喰らいたいのかもしれない)

あの時に、真っ先に噛み付いて、谷の汗ばんだ首筋を舐めておけばよかった、羽織の衿元より一層濃い彼の味がしただろうに。斎藤はそればかりをずっと後悔したまま、谷と一緒に無言で帰路を辿った。



end











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