轟轟と燃え上がる火の中から叫び声が聞こえる。声だけを頼りに斎藤は崩れた家屋の柱を懸命に除けようとするが、自分だけの力ではどうにも出来なかった。早くしないと火に巻かれ、戦とは無関係の町人が死んでしまう。どど、と馬が駆けるような重い振動を腑に伴っている。いっそのこと、潰された痛みの方がどんなに良かったか、
(戦には勝った筈なのに、どうしてこんな、)
長州藩邸に放たれた火が瞬く間に広がり町中を焼き尽くす中、幕府は長州の残党狩りを優先した。巻き込んだ京の人々を助けるのが優先ではないかと訴えたが、幕兵は誰一人として取り合ってはくれなかった。


煙を上げ燃えきった黒い木材を何度も掴んだせいか、斎藤の両掌は真っ赤になっている。膨れ上がる皮膚など、目先の事に比べればどうだって良い。真っ黒な煙が上がり続ける隙間に手を差し込み、助けを求める声の主を懸命に探った。
(手を掴んで引っ張る事が出来れば、)
必死になるほど周囲には気が向かない。後ろから力強く肩を掴まれ、今更ながら背後の気配にハッとした。

「佐々木、さん…」

火に包まれたこのような灼熱の場でこの男と対峙するとは。見廻組も長州兵を追討している最中なのだろうか。汗だくで煤まみれの斎藤とは違い、佐々木は涼しい顔をしていた。いつものように口角を上げて斎藤の名を呼び、笑う。分かっているくせに、わざとらしくどうしたのと彼はいつも聞く。それが彼の悪い癖だと、斎藤は随分前から知っていた。

「見たら分かる事を一々聞くな……っ」
「おや、今日は口調が穏やかじゃないね。どうして?」
「いいからっ…手伝えってば、中に人が取り残されてる…っ」
「やだよ、助からない奴を助けようとするなんて。俺は一君と違って無駄な労力は使わない主義だから。それに今は人助けが任務じゃないよね、なに堂々と藩命に背いてるの?」
「あんたいい加減に…」

言葉を遮るように後頭部を押さえつけられると、強制的に目線は下へと向けられた。
斎藤の足元に転がっていたのは焼けた家屋に圧し潰され、火で炙られた真っ黒な手、のような物である。それが誰の物かは分からない。呻き声と目先の事に気を囚われすぎていたせいか、足元の状況把握さえ冷静に出来ていなかったようだ。黒い物体から突き出た白い骨が最期の現実を物語っていた。

「人助けしたいんなら、ちゃんと周囲を見ろよ。見て策を練って方法を把握しろ。そこに落ちてる千切れた手の状態からして随分前から火に炙られてる。家屋の中なんてもっと酷い。引き摺り出しても意味はないよ」

冷酷ながら、佐々木は御尤もな正論を一々突き付けて来る。感情で動いてしまう斎藤にとって、その正論が心苦しくもあり、至極苦手だ。
意味がない、の肯定か否定か、返事をするように、鳥、まるで怪鳥であるかのような太く低い聞いた事もない鳴き声が聞こえた。鳴き声の正体はすぐ傍、崩れた家屋の中である。先程まで確かに人間の声であった筈だが。

「でも、まだ声が……っ」
「人間って凄いよね、身体焼かれながらでも声は出せるんだから」
「…っ」
「こんな所で油売ってないでさァ、さっさと長州の残党狩りに行けっての」

佐々木は冷たい言葉を言い放ち、斎藤の髪を指に巻き付け引っ張った。その手を叩くように払うと、斎藤は佐々木を思いきり睨み付けた。赤い瞳はゆらゆらと燃え上がる火を映している。持ち合わせた感情とは別に、綺麗な色をしていた。
(濁らせても綺麗だろうなァ)
不謹慎にも想像し、佐々木は笑った。

「こんな状況でなに笑ってるの…。信じらんない……」
「んん、こんな大戦になったのはお前たちのせいなのにさ、自覚もないんだなって思って。そうしたら可笑しくって」
「新撰組のせいだって言いたいの?」
「うん、だってこんなに長州を怒らせたのってお前たちが池田屋襲撃したからでしょ。こっちとしてはもう少し穏便に行きたかったのに…。まあどっちにしろ戦になってたのかなァ、長州は血気盛んだから」
「何も行動しなかった奴に言われたくない…!」
「勝手に行動して掻き乱されんのも此方としては大迷惑」


尊王攘夷論を掲げていた長州藩は、前年の八月十八日の政変で京を追放されている。政局への復帰を望み、これまで慎重に行動していた長州であったが、池田屋事件をきっかけに一気に武力行使派に傾いた。長州藩が京へ挙兵したことで、このような戦火を引き起こしたのである。
新撰組が誇る池田屋事件が、討幕への道を早めたのか遅らせたのか、その答えは誰にも分からない。
(幕府の確実な衰退と、薩摩が勢力を温存してる嫌な感じは分かったけどね。ま、それだけ分かれば収穫はあったかなァ)
腕を組んだまま、佐々木は気怠そうに首を回した。

ゆったりした気持ちで空を見上げると、灰色の厚い雲が右から左にずるずると流れて行く。
(雲の流れが早いから、此処も時期に火の海だ)
火は残酷だ、手も付けられない。諦めるしかない。佐々木は昔の経験から、火というものが一番怖いものだとよく知っている。火は何も残さない。時には大事な物も奪って行く。だから心配で気になって何より大事な物を迎えに来たというのに…、
(昔から諦めが悪いンだよなァ、この子は)
佐々木が暢気に欠伸をする一方、斎藤はその場に座り込んだまま、無我夢中で燃える材木を掴んでは投げ、掴んでは投げ、黒い煙を吸って咳き込みながらも瓦礫の間に腕を何度も突っ込んでいた。そのせいで着物袖は焦げつき、上腕までも真っ赤に染まっている。
(馬鹿らしい…)

「一君、まだ人助けを続けるの?もう無駄だよ。いい子だから俺と一緒に本陣へ戻ろ?」
「……何もしてくれないのなら放っておいて」
「だって、それ、絶対死んでるから」
「違う、生きてる、もう少しなの」
「生きてないってば、」
「俺にもう構わないで、放っておいて、……佐々木さん放っておくの得意でしょ」

一生懸命な斎藤の姿に苛々としたのか、言われた言葉に苛々としたのか、佐々木は斜めに突き出た燃える柱に手の甲を添えると、その上の崩れた屋根板までも軽々と押し上げた。中から現れたのは、金切り声を上げ続ける黒焦げの達磨であった。怪鳥の鳴き声だと思えば、人間の叫び声だったとは。

「ほら、もう死んでるじゃん」

しっかり死んでるよ、と目に焼き付けさせてあげた。意味の無い人助けのために、ここまで手を貸すつもりはなかったが、こうでもしなければ諦めの悪い斎藤は納得しないからだ。もっと早くにこうやっていれば、瓦礫に埋もれた人間は助かっただろうか。今此処で死なず、引き摺り出した後に死ねたのだろうか。果たして其れに何の違いや意味があるのだろうか。後味が悪い思いをするのは面倒である。
(だから極力手を出したくはないんだよ、こうなるって分かってるから)
いざおさらばと言ったように佐々木は押し上げていた屋根板から手を引くと、瓦礫は好物である死体をグワリと呑み込んだ。燃える木材に手を添えていたせいか、刺すような痛みが嵌めている籠手をも貫いてくる。

佐々木は浅い溜め息を吐きながら斎藤を見た。焼け焦げた死体を見るのは初めてだったのだろう、身体が分断された死体を見るのが初めてだったのだろう、彼は座り込んだまま、破瓜を迎えた少女のようにピクリとも動かなくなってしまった。
立ち上がろうともしない斎藤は、燃える火を眺め続けている。叫び声は途切れ途切れ、終いには金切り声に変わり、もう聞こえなくなっていた。

「無駄な人助け、ご苦労様。ほら、火の手が回ると俺たちも死んじゃうから、早く立って」

差し出した手に、斎藤の手は一向に重ならない。
じわじわと熱風が近づき、瞬きをする度に眼球と瞼の境に温もりを感じる。火に囲まれてしまえば出口は無くなる。無くなればこの場で焼かれて終わりだ。そんなのは苦しくて痛いに決まっている。此処で死ぬ予定はない。

「ね、いつまでそこに居る気?たった一人の命、諦めつかなくて炭の塊でも助けたいって思ったの?此処でお前も一緒に燃えて死んで詫びるの?」
「………。」
「何とか言えよ、気持ち悪ィな」

燃える火が煌々と目の前に迫っているのに、斎藤の顔は死人のように蒼白い。


「死んでなかった、ついさっきまで、手を必死に掴まれてた…」


不可解な事を言った。
そんな馬鹿な事があるものか。瓦礫の中に在ったのは確かに黒焦げの死体だったが、手足もない達磨だった。一体何が斎藤の手を掴んでいたというのか。

「気味悪い冗談はやめろって、」
「…冗談じゃない。本当に、手をぎゅうぎゅう握ってきて、助けて助けて連れて行って、って。だから俺、一生懸命に瓦礫を…」

熱い空気に妙な冷気が入り込む。
ふと、真下で座り込む斎藤の手を見ると、黒焦げの手が何重にも絡まっていた。この焼け焦げた手を、佐々木は前にも見た事がある。あの日、江戸で大地震が起きた日、品川沖であの手を見た。あの日は自分に向かって手招きをしていたが、今日久しぶりに見た手は自分の大事な物に触れている。やはり、この黒焦げの手は何としてでも道連れにしたいのだ。長い間、焦がれながら待ち続けていたのだ。
助けて助けて連れて行って、ではない。おいでおいで連れて行く、の間違いである、と思う。
(失くし物の前触れみたいに俺の大事な物奪っていくの、そういうの、ほんとやめて欲しい)



そう思った時だった。
みし、と小さく軋む音が聞こえ、次に駆け抜ける音は異様に早く、突き出ていた梁がガランガランと火の粉を撒き散らし、座り込む斎藤を目掛け襲ってきた。
「危ない───ッ!」
一瞬の出来事に、瞬きをする暇もなかった。
平衡感覚を無くしてしまった頭と、視界が繋がるまで少しの時間を要したが、仰向けに倒れている事だけは鮮明に分かる。そして、斎藤の身体は佐々木の胸の中に在った。


「こんなことになるから…、だから人助けするの嫌なんだよなァ。早く立てって言ったのに、一君がとろいからお化けに足引っ張られて、これ二の舞演じちゃってるじゃん俺ら」


咄嗟に佐々木が庇ってくれたおかげで斎藤は何一つ怪我をすることはなかったが、倒れて来た梁は佐々木の背中に重く伸し掛かっていた。火に炙られ煙を上げたまま、煉獄の熱さは佐々木の皮膚をじわりじわり喰っている。

「なんで、なんで庇ってくれたの……?」

そうは言われても、身体が動いたのだからしょうがない。自分の大事な人を見捨てたりはしない。自分の命に代えてでも大事な人は守りたいものだ。佐々木はそういう男だった。

「何だよその言い草、傷付くだろ」
「いつも自分優先のくせに、何でこういう時だけ…どうして、」
「そりゃあ好きな奴に怪我はさせたくないからね」
「…っそれ、今言うの…?」
「いつ言おうが俺の勝手でしょ。それより、俺すっげェ押し倒しちゃったけど、一君大丈夫?頭とか打ってない?」

怪我をさせないよう斎藤の頭を大事に抱え押し倒しておきながら、もう一度大丈夫かと確認をする。それも優しい声で聞いてくるのだ。

「自分が大丈夫じゃないでしょ…っ?少しは自分の心配してよ…っ、このままだと佐々木さん背中火傷しちゃう、早くなんとか…」
「俺は大丈夫だって、頑丈な鎖帷子着てるから。それより乗りかかって来たコレ、ちょっと重くて支える腕が耐えれそうにないから、地面と俺の間に隙間があるうちにさ、一君、お逃げよ」

とっくに鎖帷子は溶け、中の肉を溶かしに掛かっている。人肉が焼けた独特の、嫌な匂いが鼻を突いた。
斎藤に心配を掛けまいと笑顔を無理矢理作っているが、その笑顔は普段よりぎこちない。背中の肉を焼かれる痛みが、佐々木の余裕を奪っている。余程辛いのを我慢しているのか、額から噴き出た汗が顎まで流れ出ていた。

「待って、待ってて、その材木退けるから」
「重いから一君の力で退かすなんて無理だよ、火傷するから触んな。俺の事はいいから、早く逃げなよ。道、分かる?ちゃんと火が回ってない所を通って帰るんだよ」
「嫌、…嫌だ、なんで俺だけが助かる前提で話すの…?」

力に自信のある佐々木でも、大きな大木そのものである梁には到底太刀打ち出来ない。佐々木より力の無い斎藤が梁を持ち上げるのは、もっと難しいだろう。それに燃えている梁を素手で掴む事など、先ず以て不可能である。刀を振るう武士にとって、両手に大怪我を負うのは致命的だ。そして何より、斎藤が自分のために怪我をする所など見たくない。それだけは避けたかった。

「俺はいいから、お願い、もういいから逃げろって。それしか助かる方法ないんだから」
「嫌だよ佐々木さん、俺だけ助かるなんて嫌だ、何でそんなこと言うの、最低…っ。どうにか、待って、二人で助からなきゃ意味ない…っ」
「うん、もういい、もう最低でいいから。火が待ってくれるわけないでしょ、焼け死ぬのは俺だけで十分」

つまりは助かる方法など無いという事だ。死ぬ方法はたくさんあるのに。
(憑りつかれるのも罪悪感に囚われるのも、もう疲れた。これで終わり。一君を逃がしたら、刀で首突いてさっさと死のう)

「死ぬこと考えてるの?佐々木さん…」
「お前のこと考えてる」

あの時死ぬべきだった、ずっと死ななければならなかったのに生きてしまった。だから謝罪をし続けていれば何処かで泥沼に沈ませてくれると期待していた。長らく待たされた今、やっと同じ方法で死なせてくれようとしている。
「早く赦されたい。これでやっと赦される」
赦されたい、なんて似合わない事を佐々木は呟いてしまった。
そこまで考えて呟いて、また同じ事を繰り返していると佐々木は気付いた。残される斎藤の悲しむ顔を、また思い出さなかった。もう諦めてしまった。


「本当に似合わない似合ってない。憎たらしい小言ばっかり言うくせに、心の中ではずっと首吊りしてる。あの時からずっと、どうしてそんなに自分を責めるの自分ばかりを責め続けて来たの、もうやめて欲しい、もうやめてあげて」


諦めてしまった佐々木を前に、斎藤自身も誰に向かって言ったのか頭の片隅で言ったのかよく分からなかった。頭の中心で賽子がじゃらじゃら石段を転げて行く。
(賽子振ったら変わる、振らなくても変わる、振っても変わらない、考えろ考えろ、)
下段に散らばった賽子の目は、長なのか半なのか。縁と運、どちらなのか。どちらもなのか。

「佐々木さん。俺、諦めが悪いから……ごめんなさい」

身体に覆い被さる佐々木の腰から、刀をスラリと抜いた。
そして刀を左手に握ったまま、すゥと呼吸を整えるよう片手で上段に構える。まさか、刀で梁を斬るというのか。刀で斬れるわけがない。刀は人を斬るためにあるのだ。諦めが悪いと豪語したとて、諦めが悪いこと此の上なし。
斎藤の行動に、佐々木は声を出して笑ってしまった。

「馬鹿だね、一君。刀で木が斬れると思ってるの…?」
「斬れなかったその時は、佐々木さんとあの世で一緒に笑うつもり」

珍しく昔みたいに、にっこりと斎藤は笑った。笑って、左腕に力を込めて佐々木の刀を思い切り振り下ろしたのだった。
力任せに打ち込まれた刀の刀身は、僅かに埋もれ恰好悪く刃こぼれを起こしただけで、大きく分厚い梁は未だ我が物顔をしている。案の定、刀で梁を斬れはしないのだ。さて、もう結末は大きく決まっている。それなのに、斎藤の目はまだ死んではいない曇ってもいない。開いた瞳孔に青い閃光が走る。梁に打ち込んだ刀の峰を、斎藤はこれでもかと言うように左足で蹴り上げたのである。
その大きな衝撃のおかげで燃えて焼け焦げた部分に罅が入り、分厚く重い梁は真っ二つに折れたのだった。


折れた梁は斬り落とされた首のようにゴロゴロと悔しそうに転がって行く。二人を下敷きにしたまま苦しむ顔をうっとり眺めていたのに、もうそれは叶わず灰になる。
佐々木は解放されると思っていなかった痛みに解放され、項垂れるよう横たわった。自分よりも大事な人を守るため、圧し潰されまいと必死に抵抗していた腕の震えが止まらない。指先がびりびりと痺れ、手を開いているのか握っているのか感覚も知覚も無い。火傷を負った背中の感覚も心の感覚も無くなってしまったのか、正直、助かるとは思っていなかった。助けられるとも思っていなかった。
(焼け死ぬと思ってた、罪滅ぼしになると安堵していたのに)

拍子抜けしたのか動こうともしない佐々木の首に、斎藤は両腕を強く巻き付けた。
「ごめんなさい…、ごめんね、早く、早く火傷の手当しなきゃ、」
片足を棺桶に突っ込んでいた時には強く美しい瞳をしていたのに、棺桶を見送った今の斎藤は死に際の弱々しい瞳で狼狽えている。

(泣きそうな顔してる。さっきは怒ってたのに、困った顔してみたり笑ってみせたり泣きそうになってみたり、忙しい奴だね、)

「一君、笑ってる顔、可愛かったのに。もう笑ってくれないの?」
「馬鹿…、笑えないでしょ…、最低、なんで死のうとしたの、やめてよ…」
「だってほら、俺恨まれてるから、死に場を用意されてたのかなって思って。」
「誰も佐々木さんのこと恨んでないよ、あれは違う、もう終わったんだから、終わってよ、もう終わらなきゃ…、佐々木さんは悪くないんだから、死んだら終わりだよ」

涙を零す斎藤の顔に見惚れ、曖昧な返事しか出来なかったが、ずっと目に入り続けていた黒焦げの手は佐々木の前に三度現れる事は無かった。
死んだら終わり、そういう事だ。何かに縛られて生きるより、何か理由を付けて死ぬ方が簡単なのだが、いざ生きてしまえば死ななくて良かったと都合良く思える絡繰りが滑稽だ。
(もうそれでいっか、死ぬ時は死ぬんだから、また生きてて良かったって思ってみるかァ。せっかく君が助けてくれたんだから)
斎藤を腹上に乗せて大の字に寝転がると、硝煙を仰ぐよう手を伸ばす。感覚が戻って来た掌で、愛しい斎藤の頬を優しく撫でた。これが一番したかった。生き延びた暁には一番大事な物に触れたかった。

「…佐々木さん、背中…っ、だめだよ下にしちゃ、」
「大丈夫、そんなに大した火傷じゃないから平気。上等で頑丈な鎖帷子着てるって言ったでしょ。だからそんな顔すんなって」

終わった事など、どうでも良い。痛みなんてどうでも良い。抱き付いてきた斎藤を抱き締め返すことの方が、佐々木にとって何よりの最優先事項なのだ。

「大事な人を守って死ぬの、本望だったんだけどなァ」
「冗談言うのやめて」
「でもあの状況でよく冷静に考えたね、一君。自暴自棄になって刀振り下ろしたと思ってたんだけど、焦げた部分しっかり狙ってたんだね、炭って罅入ったら割れるもんね。刀打ち付けて蹴ったのは凄い野蛮だったけど…。しかも俺の刀、斬り合いもしてねェのにすっごい刃こぼれしたし」
「刀の一本ぐらい安いもんでしょ。助かる方法、一生懸命考えたんだから…」
「あのさ、もし一君が必死で考えた苦肉の策が失敗してたら…、本当に俺と一緒に焼け死んでくれた?」

こんなことを子供みたいに素直に聞くのは甚だ可笑しい。それでも佐々木は聞いておきたかった。こんなに身体と身体を引っ付けて、寄せ合って、笑ったり泣いたりしたのは久しぶりだ。もっと触れていたい。戦の最中なのに、そっちのけであやふやな事を考えている。だからこそ、駄目だと分かっていても馬鹿みたいに聞いておきたいのだ。好きな人が目の前にいると真面目な思考ほど消え去っていく。それが感情の醍醐味だ。
佐々木の質問に応えるよう、斎藤はゆっくりと上体を倒し、そっと唇を合わせた。

「僕を置いて死なないでって、昔、言った」

それが全ての答え、それが全ての返事。斎藤の頬が真っ赤に染まっているのは、燃え上がる周囲の焔のせいではない。身体の芯から湧き上がる熱のせいだ。縺れた糸が解けたみたいに、開いた両掌は自身の腹上に居座る斎藤の身体を撫でて強く弱く強く抱き締めた。

「そうだね、昔言ってくれたもんね。…俺さ、一君が昔探しに来てくれたように、俺も一君が心配で探しに来たんだよ、本当は」

二度目は佐々木から深い口付けをした。
好き合ってるのに、何度擦れ違えば好き合ってると確信出来たのだろう。いつだって修復出来たのに、距離を埋めないまま距離を置いたまま、時間だけを無駄にして。気付いた時には天秤が壊れる寸前。もう後悔。
(人間って難しいなァ、想いを伝えられるくせに身体は動かなかったり、身体は動くけれど上手く言葉を喋れなかったり。言わなくてもいい事は言って、言いたい事は言えなくて。どうやって伝えたら良いんだろう、一君も同じこと、思ってるのかなァ。結局言葉なのか行動なのか、何が一番伝わるのか)
口付けをした後の斎藤の笑顔が印象的であった。




「佐々木さん、立てる?」
「一君に心配されるなんてねェ、我ながら恰好悪い」

互いに砂埃を被り、おまけに煤だらけである。佐々木は斎藤の肩に掴まりながら立ち上がり、二人は肩を並べて歩き出した。背中の火傷を見られないよう、羽織の襟元を前方に引っ張り傷を隠したが、予想していたよりも歩く振動が背中の火傷に響き、風に靡く羽織が傷口を擦って痛みを助長する。
痛みが寂しさも助長するのか、佐々木は身体を支えてくれている斎藤に頼るよう、あからさまに重心を傾けた。掴まった肩から真横、斎藤の項を撫でると、その手は背中を撫で腰を撫で、好き、という文字をそこに指で描いた。悪戯なお遊びに気付いたのか、斎藤は佐々木を見上げると恥ずかしいような困ったような顔をする。

「……なに、」
「一君も昔してくれたじゃん、あの時俺の背中撫でながら好きって文字描いてくれた。好きって、小さく呟いてもくれた」
「あれ気付いてたの…っ?」
「知ってるよ、気付かないわけないでしょ」
「じゃあ何であの時黙ってたの…!ひどい…っ、ちゃんと反応して欲しかった…」

顔を両手で覆う斎藤を、柔らかい温かな感情で包み込んだ。
(死ぬほど愛してるということは中々隠せないものなんだね)
納得の行く答えを述べ、佐々木は懐からクタクタに古びて折れ曲がった紙を取り出し、斎藤の手に握らせたのだった。
今、絶対に渡しておかなければならない。

「これ、一君に渡そうと思ってた手紙。くだらない事しか書いてないけれど、あの日、これだけは手に持って逃げてた。あの日から気持ち、変わってないよ。だからずっと渡したかった、」

あの時、地震で死ぬかもしれない時に何故書きかけの手紙だけを握って逃げたのだろう。佐々木はずっと疑問に思っていた。昔の自分も、こんな時に改めて手紙を渡す事になるなんて思いもしなかっただろうに。

「一君、もう一度好きってちゃんと言ってよ」

好き、そう発した口を塞いで、その中に好きと吹き込み返すつもりだ。互いに向き合ったまま、指先だけがいじらしく触れている。これだけでは足りないと知っている。今から溺れる事も解り合えている。
(佐々木さんは狡い、身体でも言葉でも伝えるのが下手くそな振りして、何でこういう時だけ上手く伝えて来てくれるんだろう。佐々木さんも同じこと思ってるのかな、昔みたいに好きって言ってもいいのかな、言葉にしてもいいのかな、)
一文字目を発するために結んでいた斎藤の口が開いた、その時だった。
背後から佐々木の名を呼ぶ声が聞こえた。後ろ髪を引っ張られたのか、引っ付いていた身体が僅かに離れる。

「あ、速水くん」

パッと指先同士も離れてしまった。
速水と呼ばれた男は、佐々木を軽く睨み付けると、眉間に皺を寄せたまま斎藤を無表情な目で見つめる。ボロボロになった二人の姿を頭から爪先まで目に収めると、さっそく男は深い溜め息を吐いた。

「佐々木さん…、あんたいきなり居なくなったと思えばこんな所で何をしてるんですか…」
「何って、逢引き」
「冗談きついですよ、背中に火傷まで負う逢引きなんて。」
「それぐらい熱い逢引きだった」
「はい、もう黙って下さい」

同僚の冷たい視線に、佐々木はやれやれと頭を掻いた。二人のやりとりからして、互いに気心の知れた仲なのだろう。速水、という名も聞いた事がある。佐々木と同じ組与頭勤方であり、佐々木と共に清川八郎を斬った男だ。どうりで隙が無い。同志である二人と自分の間には目に見えない高い壁がある。それが余計に大きな溝、大きな距離を感じさせた。

「で、勝手に居なくなった間の報告は?」
「こっちに長州の残党は見当たらなかった、少し人助けをしてただけだよ」
「そうですか、それなら良いんですが」

不可解な怪異に巻き込まれた事を隠すよう、それ以外、佐々木は何も話そうとはしなかった。
速水もそれ以上は踏み込まず、横目で斎藤をちらりと見ただけで、すぐに視線を逸らす。初対面ではあったが、快く思われていない事がひしひしと伝わってくる。速水は斎藤の事など最初から認識していない。後ずさりをしてしまった斎藤に背を向けたまま、会津藩や薩摩藩の近況、長州の進軍状況、福井藩との戦闘状況を簡潔に告げていく。五条通りで斬り合った長州の者が実質何人であっただの、町奉行所が誰の死亡確認をしただの、身元がどうだの、報告内容は斎藤には分からない事ばかりだ。組与頭勤方としての役割を担う佐々木の真剣な顔を、斎藤は初めて見た。
彼とは、身分も与えられた役職も、何もかもが自分とは違うのだ。

「それと、勧修寺宮邸の門前警備をするよう会津から要請がありました」
「ああそう、後で行くから。先にこの子送っていかなきゃ」
「何言ってるんですか、あんたの火傷の手当が先に決まってるでしょう?」

速水が目配せをすると、同行してきた浅尾藩兵は佐々木の両脇を抱えた。
「こんなことされないでも歩けるけど?」
「またふらふら何処かへ道草しに行かれたら困るので」
前科だらけの佐々木には最善の対処法だ。
斎藤の方に向いていた佐々木の身体が、正反対を向く。そこで初めて斎藤に背中を向ける事になるのだが、その背中を見て斎藤は言葉を失ってしまった。焼け焦げた羽織から覗く鎖帷子は無惨に破け、背中は肉が見えるほど痛々しく焼け爛れていたからだ。悶絶する程、突き刺す痛みに襲われていただろうに、彼は今まで平然と振る舞っていた。それが斎藤と離されてしまえば、急に足元が覚束なくなり、立っているのも精一杯といった体である。
(平然を最後まで押し通したかったのに、速水君も意地悪だ。背中の傷見せるってすごく恰好悪ィし恥ずかしい。一君にだけは見られたくなかったんだけどな)

「速水君、この子すぐ道に迷っちゃうから送ってあげてね」
支えられて連れて行かれながらも、佐々木は自分の事より斎藤の心配をする。痛くて上がらないであろう利き腕を振って、じゃあね一君、またね、と明るく笑ってみせる。こんなに、想われている。斎藤は頷きながらも、佐々木の後ろ姿を見送る事しか出来なかった。気の利いた言葉掛けも出来なかった。助けてくれて有難うと結局言えなかった。佐々木が望んだ好き、という一言さえもちゃんと言えなかった。

「佐々木さんには本当、困ったものです」
その場に残った斎藤に、速水は面倒くさそうに呟いて、悪態をつく。斎藤とやっと視線を合わせたかと思えば、不信感を募らせるよう目を細めた。

「貴方が、佐々木さんの」
「あ…、私は、」
「知ってます。新撰組の、斎藤一くん」

低い声で名を言われ、肩がびくりと跳ねた。空気が重い。向けられているのは、殺気なんかではない。牽制だ。嫌悪にも読み取れる。この男の表情が何一つ読めやしない。足が竦む。生唾を飲む余裕すら与えてくれない。

「佐々木さんは貴方と違って簡単に消えていい命じゃない。あの人を失っては困る。それを貴方は全く分かっていない。分かっていないからあの人にあんな怪我をさせて…。こんな事になったのも全部自分のせいだと思いませんか?」

鋭い棘がある。言葉の棘が心に刺さる。
謝る事しか出来ない斎藤を暗い色の瞳で見つめたまま逃さない。速水にとっても、佐々木は大事な存在であった。その大事な存在を傷付けられたのだ、謝って許される問題でもない、彼は冷たく言い足した。

「悪かったと思うならばこれ以上、佐々木さんと懇意になるのはやめてもらいたい。あの人は貴方の事になると自分を大事にしない。もうあの人をおかしくするのはやめて欲しい、解放してあげて欲しい」

そう言われると、好き合っているという自信が急に無くなってしまった。あれだけ好きだと自覚しながら、感じさせながら、あれは夢だった、頭ごなしにそう言われている。手に握った佐々木からの手紙だけが救いだ。この手紙を握っていれば、佐々木が守ってくれるような気がしたからだ。好き合ってもいいと許されている気がした。好き合っている何よりの証拠だと思えた。お守りのように、斎藤は手紙をぎゅう、と握った。

愛しい人を想うその漏れる感情、動作や表情を速水が見逃すわけがない。

「それは?」
「これは佐々木さんから…、」

する、と斎藤の手中から手紙を奪いあげると、速水は斎藤の手が届かぬよう腕を高く挙げた。何だか、その手紙を二度と読めないような気がして、急に不安が足を掬う。斎藤はよく知りもしない速水の着物袖を無遠慮に掴み、力強く引っ張った。

「返して下さいっ…、それはっ」

見下げる目が恐ろしい。これは軽蔑の目だ。

「佐々木さんと一生関わるな。この約束を生涯守れたら手紙、返してあげても良いですよ」
「え……?」
「この先ずっとずっと彼を拒んで拒んで、そうしたら彼は簡単にお前を諦める。すぐに手放す。だって、佐々木さんは誰よりも優しいから」

“誰よりも優しい”。それは斎藤だけが一番知っていた事だ。一番知っていた事を、この男も知っている。それを一番理解しているように平然と簡単に言葉にしてくる。

「佐々木さんは過保護だなぁ。貴方を新撰組の陣営まで送り届けろと言っていたが、新撰組は人数も多い烏合の衆なのだから、誰かが貴方を迎えに来るのでは?それまで貴方はこの場で一人、ずっと待っていれば良い事だ」

斟酌もせず心中立を諧謔する。

「私が貴方を無事送り届けましたと言えば、佐々木さんは疑いもせず私の言葉を信じるので御安心を。貴方は彼への信頼を一度捨てたけど、私はずっと信頼し続けてる。彼とは昔から信頼し合ってる仲なので」

微笑んで、速水は手にした恋文を手放した。強い風に吹かれ、蝶の如く飛んで往ってしまった。提灯の火に突っ込む馬鹿な蛾、みたいに。

「おや、手紙、もう読めませんねェ」

その場に独り残された斎藤はどんな感情に呑み込まれているのか、どんな感情を並べたって、どんな感情を混ぜたとして、最終的に人間は皆泣くのだ、それが感情の最期なのだ。
(好きって言う前に、好きって言えなくなっちゃった、手紙も読めなくなっちゃった、手紙の返事も書けなくなっちゃったよ佐々木さん、苦しい助けて、)


「どうして昔みたいに笑い合っちゃ駄目なの…?」


黒焦げの手が火の中から燃えた恋文を差し出してくれたが、斎藤の手の中で、恋文は死んで眠るよう灰になり、二度と読めなくなってしまった。

灰の中で唯一、白菊の押し花だけが咲いていた。


end











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