ぐわんぐわんと畝った揺れと共に、隣の部屋で寝ていた勝の悲鳴で一は咄嗟に飛び起きた。
炊事場からはガシャンと茶碗が割れる音、庭からはゴトゴトと鈍い音が呻いている。きっと、並んだ重い植木鉢が台から真っ逆さまに落ちているのだ、次々と我先に。

「姉さん!」

一は寝起きの縺れる足を無理矢理前に進めながら襖を開け、怯える勝の身体を抱きしめた。
(何ごとだろう、暗い、何刻だ、夜更けなのか明け方なのか、何が起きているのか)
考え切れぬ程の考えを頭いっぱいに巡らせ、一は勝の肩をぎゅうと強く握り締めた。やけに冴えた頭と耳に、色んな轟音が入り身体の中は大きな恐怖で埋め尽くされて行く。
すると、一つだけよく知った足音が廊下からドタドタと近づき、自身のよく知った声音が庭に出ろと懸命な声で叫ぶのだ。大声を上げる父の声に、一は唇をきゅっと結んだ。

「姉さん、庭に出よう。立てる?」

一は勝の腰を抱き、ぐらぐらと揺れる視界の中、裸足で一目散に庭先へと飛び出した。その後、すぐに母を連れた兄、最後に父である山口祐助が猛然と庭へ駆け出して来たのであった。
隣の家、向かいの家の住人も酷い揺れに目を覚まし外へ飛び出したのか、普段静かな飯田町は忽ち騒がしいものとなっていた。このような真っ暗な夜に人々の悲鳴や数々の足音、忙しない会話が嵐のように飛び交う。そこで初めて、江戸市中に大きな地震が到来しているのだと一は気付いたのだ。

「よし、皆無事だな。玄関から下駄を取って来たから、とりあえず履きなさい。割れた植木鉢や瓦の破片で足を怪我するからな」

頼れる父、山口祐助は懐から手際良く人数分の下駄や草履を取り出し皆に履かせると、自分の寝床から持ってきた掛布団で家族を包み、家屋との距離を取りながら揺れが収まるまで必死に抱き締めてくれた。
一番背丈が低い一は家族の中心に埋もれ何も見えなくなっていたが、僅かな隙間からちらりと見えたのは父の逞しい裸足だけである。外の酷い雑音も、傍にいる家族のおかげで遠い記憶のように思える。
不思議と一時的に恐怖は消えていた。不謹慎にも家族に包まれたおかげで安心感さえ在る。


しばらくすると大きな揺れは無くなり、自宅の損害は炊事場の陶器や庭の植木鉢が落ちて割れただけであったが、飯田町付近の古い屋敷などは一部傾いたり、倒壊した家屋もあったようだ。良心の塊である祐助はじっともしておれず、家の門から顔を出し、困った人がいれば声を掛け続けていた。

「この間、東海道で地震が起きたばっかりだったのになァ。それに最近、災害が多い。また大きな揺れが来るかもしれん。しばらく外で様子を見よう」

数日前に粋な色合いで呉服屋から羽織を仕立ててもらったと一に自慢していた祐助であったが、惜しみもなく其れを地面に広げ家族を座らせた。家族や近所の人達を想う気持ちも、災害時の行動も此処までは完璧なのに、彼はずっと裸足のままだ。人に裸足は怪我をする、危ない、などと口煩く言っておきながら、どうして自分の分の下駄まで持って来なかったのか。そう妻に突っ込まれ、これは晩年、山口家の笑い話の一つとなっている。
家族と笑い合えた事で、不安に身を縮こませ泣き続けていた勝も、今は一の手を握りながらクスクスと笑っていた。姉の笑う顔を見ると、一はホッとした。優しく頭を撫でてくれる母と兄の手も心地良かった。


──しかし、笑い合えていたのも束の間。一刻もしないうちに遠くの方から半鐘がけたたましく鳴り響いて来たのである。先程の地震で江戸市中の至る所から火の手が上がり出したようだ。

「今回の地震は地域差があるのか…。火が此方に回って来たら厄介だな。高台がないから市中の様子は全く分からん。情報を待つしかないか…、」

ううむ、と一家の主は首を傾け考える。大きな地震が完全に収まったのかは誰にも見当がつかない。家族を残して様子を見に行く事も出来ないため、祐助は家族と共にこの場へ留まる事にした。

(火事ってどこが燃えてるんだろう…。日本橋?浅草?僕の家族は無事だったけど…、佐々木さんも長倉さんも大丈夫かな…)
考える余裕が出て来た一の頭の中に、とめどなく黒いモヤモヤとした不安が押し寄せてくる。遠くの半鐘は一向に鳴り止まない。無意識に勝の手を力強く握るたび、背中をゆっくり摩られた。

「大丈夫よ、大丈夫」
「うん…。」

おまじないのような言葉に頷き、一は勝の肩に頭を寄せる。ふと見上げた空は心の中のように重い暗雲が広がっている。
(みんな無事だといいな…、)
そう願ってまた不安に陥って、夜は長く心細い。この繰り返しを幾度しただろう。家族、時には近所の人達と励まし合いながら夜を過ごしていたが、子の刻へさしかかろうとした時、突然祐助の元に訃報が入ってきた。

「品川の砲台が崩れたらしい」

その一言に一の顔は真っ青になった。得体の知れない黒い恐怖が身体を蝕む。この感情を呑み込むにはまだ早い。一は父である祐助の腕に飛び付き、着物袖をグイグイ引っ張るが、言葉は喉を上手く通らない。腹に溜まった言葉は万華鏡のように目を回転させる。

「父上っ、砲台、って、どの砲台ですか…っ」
「さァ…そこまでは分からんが、砲台が崩れる程だ。品川は揺れが酷かったんだろうなァ、あそこは埋め立て地だから地盤も緩い」
「佐々木さんが第二砲台に…、どうしようどうしよう、」
「おや、佐々木殿は富津の陣屋敷に居たのでは…」

そこまで言って一の方を見ると、もう既に小さな一の姿は無かった。裏庭の木戸がバタンと大きな音を出して閉まる。祐助の背筋に、冷たい汗が流れた。心の臓がきゅっと絞め殺されるようだ。

「おいおい…嘘だろう?何でこんな事態にあいつは飛び出して行くんだ…あンの馬鹿息子…!」

親の心配、苦労を子供はいつだって少しも分からない。




──安政二年十月二日、江戸を襲った地震は元禄十六年以来。これが世に言う安政の大地震である。

この大地震で品川砲台は多大な被害を出した。特に被害が大きかったのは会津藩が守備していた第二砲台である。砲台は番小屋共に崩壊、埋め立ての脆い地盤は割れ、地面より海水が噴き上げた。自然災害の恐ろしい所は、命が惜しい弱い人間の事情など、知ろうともしない所だ。事情を待ってやる義理も関係もない。
このような歴史上最悪な日に、この時期に、佐々木只三郎は江戸湾品川第二台場の防備に専任、陣将隊当番として現場に赴任していた。祐助の訃報通り、品川台場は地獄絵図のように変わり果て、どうしようもない由々しき事態に巻き込まれていた──。


「おい、無事か──!?」


崩れた番小屋の隙間に顔を突っ込み、佐々木は叫んだ。
藩士たちに逃げろと声を掛け、家屋の下敷きになっている者を救助しながら一旦外へと出た瞬間、番小屋は大きな咆哮を上げて崩れたのだった。あと一歩遅かった場合、砂煙に巻かれ自ずと圧死の運命を辿っていた。妙に背筋が冷えたが、自分の死よりも中にまだ人が取り残されている事に身震いを覚える。
しかし、不運は重なるもので、番小屋の崩壊だけでは留まらず、取り残された藩士たちに追い打ちを掛けるよう、最悪な事に内部から出火した。
中からは声が聞こえる。瓦礫の下敷きになったまま、生きている者もいる。
(助かる見込みはある、考えろ、どうにかしろ、落ち着いて考えろ、)
自分に言い聞かせながら佐々木は冷静に辺りを一度見渡すと、動ける藩士たちの数を瞬時に把握し、迅速に救助する方法を頭に並べ消化した。


「火が回る前に崩れた番小屋の木材を退けろ!他の砲台の状況は分からねェが、こっちに小舟と人員を出せる藩がいねェか聞き回れ!火薬を船着場へ…!」

いつもは冷静な佐々木が、声を荒げて次々に指示を出して行く。彼はいつ何時、何が起こっても焦らず的確な指示を出す。そんな佐々木に周囲は常に圧倒されつつも、彼を頼ってきた。人望も厚い。が、今回ばかりは救助のために正しい判断を下し、正しい指示を出したにも関わらず、佐々木は地面に頭を捻じ伏せられていた。

「何しやがる…っ」

状況が理解出来ない佐々木は、自分を押さえつけた同僚を一人、蹴飛ばした。藩士たちの命が掛かっているこの緊急事態に一体何をしやがるのか、立ち上がって一発殴ってやろうかと思ったが、押さえつけられた状況で、たった一人での抵抗は無意味に等しい。組頭の指示で羽交い絞めにされた佐々木は無理矢理引き摺られ、すぐさま小舟に乗せられた。足を押さえつけようとしてきた同僚だか上司だか、別に誰だっていい男の鼻に、佐々木は馬鹿力を振り絞り膝蹴りを喰らわせた。

「触ンなッ…!早く助けねェとあいつら焼け死んじまうだろうが…ッ」

同僚数人から押さえつけられようとも、佐々木の力はそれに勝る程。湾内に出た小舟がゆらゆらと大きく揺れる。ゆらゆら揺れながらも、確実に第二砲台の船着場から遠ざかって行く。

「嘘だろ…っ、なに見捨てようとしてンだ意味わかんねェ…!助けなきゃなんねェんだから、俺は置いていけってば…!」

声が枯れる程叫び、押さえつけられた腕に血が滲む程抵抗し続けた。このように暴れられては堪らない。藩内での争いごとは極力避けたい。小舟の舵を取る組頭は意を決め、何も悪くない、唯々真っ当で正しすぎる佐々木の顔を思い切り蹴り上げたのだった。小舟が大きく揺れたのも、大声を聞いたのも、もうそれきり、それが最後である。


崩れた番小屋からはとうとう火や煙が高く舞い上がり、手の付けようが無くなってしまった。中に取り残された人々が生きながらにして身体を焼かれているのか、苦しみの悲鳴が途切れる事なく聞こえて来る。
砲台に居る会津藩士たちはその光景を黙って見ているだけで誰も救出しようとはしなかった。他の砲台を守備している他藩に助けを乞う行動も起こさない。
そんな現状を遠目に、組頭はうつ伏せのまま怒りに震える佐々木の頭を撫でた。

「すまなかったな、佐々木殿。佐々木殿があそこに居ると少し迷惑だった。だからもう砲台に手も声も届かない品川の船着き場に送還する事にした、大人しく私に見張られていて欲しい」
「………クソったれ。」
「助けたい気持ちは痛いほどよく分かる。しかしあの崩れた番小屋の材木を運んで火の粉を撒き散らせば、当然火薬に引火する。引火すればそこら一体が吹き飛ぶだろう」
「他の砲台に居る藩士に火薬運べって言やァ良かったンだ、船でいくらでも運べるだろうが…」
「他藩に迷惑を掛ける事は会津藩の失態、つまりは恥辱だ」
「……迷惑を掛ける事と助けを委ねる事を一緒にすンな、藩の誇りのために仲間見殺しにしてンじゃねェ、助けられたかもしんねーだろ…」
「助けられたかもしれない。だけど助けられなかったかもしれない。最悪、皆死んだかもしれない。だったら、時には少しでも多く助かる方を選ばなければならない。それが正しい」
「………そんなの、正しくねェよ、本当にクソったれだ…」
「クソったれで良い。良いから、もう、何も言わないでくれ」

佐々木の声以上に、組頭の声は震えていた。会津藩のために彼は屈辱に耐え難い心苦しい判断をしたのだ。分かりたい、されども理解はしたくない。喉に閊える苦しさを一思いに容易く呑み込めるものか。出来るかもしれない事を最初から決めつけてしようとしない。何でも耐えて諦めようとする会津藩の姿勢が佐々木は大嫌いであった。それが、今日確実なものとなってしまった。
(何が正しいのか分からない、何もかも、もう手遅れだ、)
諦めてしまった自分にも、佐々木は嫌気がさした。


小舟は燃える第二砲台を背に、ゆっくりと品川の船着き場へと辿り着く。船着き場はいつにもなく騒がしく、砲台から上がる火の手を見物している者も多くいる。
幕府の役人が既に数人到着しており、小舟を降りてから組頭は砲台の被害状況を報告したりと忙しなく動かざるをえない。隙を付いて小舟に乗り、第二砲台へ戻ったとしても、もう仲間は焼け死んでいる頃だろう。
(あいつらが死ぬなら俺が死ねば良かった、なんて思うのは今生きているからこんな、くだらない偽善者みたいなことが言えるんだろ、どうせ、)
大人しくなった自分を横目に、仲間たちは安堵の表情をしていた。
(寄ってたかって押さえつけて来た奴全員ぶん殴りてェ…)
自分を羽交い絞めにした仲間たちを睨み付け、聞こえる程の舌打ちをした。殴ってやってもいいが、苦渋の決断をした組頭の事を思うと、佐々木は爪が食い込んだ拳を振りかざすわけにはいかなかった。
頭がぐるぐる回る。藩の命に従うだけではなく、他に助かる別の方法があった筈だ。視界がぼんやりとして曖昧になる。何が起こったのか一瞬分からなくなった。頭を抱えていると動悸がする。海を見ると澱む波の間から焼け焦げた黒い手が出ている。手招きをする。お前みたいなのが助かったのか、呪ってやる、そう聞こえる。あの手から引き千切られる、
(焼け死ぬって、どういう思い?怖い?喚き狂う?そりゃあ怖いよな、俺がそうなれば良かった、死ねば良かった、将来もクソもない俺が死ねば、希望もない俺が死ねば良かっただろうに、)
妙な罪悪感が押し寄せる最中、大きな声で名を呼ばれ、佐々木はハッと現実に引き戻された。
(聞き慣れた大好きな声、俺の大好きな、)


「佐々木さん…!」


船着き場に座り込む佐々木をめがけ、小さな塊は突進してきた。あまりに突然の出来事で佐々木は夢かとも思ったが、縋りついてわんわん泣く少年を虚像とは思いたくなかった。いつもの可愛い顔は涙でぐちゃぐちゃに濡れており、寝間着のまま飛び出してきたのか袴も付けていない有様である。その淡い寝間着は煤で灰色に染まっていた。

「一君……?何でいるの…、どうしたの…?」
「父上が品川の砲台が崩れたって、それで佐々木さんが心配でたまらなくて…、此処に来れば会えると思って…っ」

過呼吸気味になりながら一は一生懸命に話そうとする。道中何度も転んだのか着物袖より覗く腕からは血が垂れている。こんな時、泣いた子供をどのように扱えばいいのか佐々木には分からなかった。こんなにも自分を考えて心配してくれる存在がいるという事を、初めて知ってしまったのだ。

「なに…、俺が心配でこんな夜更けに品川まで来たっていうの…?一人で?会える確信もないのに?」
「はい……、良かったです、ご無事で…」
「………馬鹿、お前、危ないだろうが。こんな時に何一人で飛び出して来てンだよ、俺のことはいいのに、」

(死んでもいいやって、俺が死ねば良かった、なんて思ってた奴の心配なんか何でするんだろう、自分のことばかりで一君からの心配なんかアテにしてなかった、死んだら一君に二度と会えないのに、一君の悲しむ顔をちっとも思い出さなかった俺のことなんか、)
考えることも考えられない。また新たな罪悪感だけが首に巻き付いて離れない。
一の小さな身体を引き寄せ抱き締めると、緩んだ帯のせいか着物の裾から太腿が見えた。膝に幾つも擦り傷を作っている。飯田町から品川まで、大人でも歩いて一刻程はかかる距離だ。それが子供の歩幅だともっとかかった筈だ。

「馬鹿だね、一君…。自分と家族の心配だけしてりゃアいいのに、何で俺なんかのこと…。誰も救えやしなかった奴のことなんか、心配したって無駄なのに、」
「そんな事ないです。僕にとって佐々木さんは家族と同じぐらい大事な人です。」
「……ほんと馬鹿、ガキのくせに」

考え方は甘いとしても、自分の気持ちに従って素直に行動出来る子供の方が、よっぽど正しい気がした。歳を重ねれば重ねる程、素直な気持ちは無くなっていく。大人になればなる程、体裁、建前、大人の穢れた事情、事情、事情、間違いだらけの弁えに溺れ、馬鹿にはなれない。そう考えると悔しさが込み上げ、大粒の涙が溢れ出た。燃え上がる品川砲台の火はぐにゃりと歪み、視界の中は一面の蜃気楼を広げる。

「救えなかった、見殺しにした。どうすれば良かったんだろうね、」

佐々木が思っている程、一は子供ではない。第二砲台で何が起きたのか、佐々木が何を思って涙を流すのか、一は何も聞こうとはしなかった。佐々木がいつもしてくれるように身体を抱き締め、唯沈黙に身を委ねながら燃える品川沖を佐々木と一緒に静かに眺めた。

「誰だって、誰かの大事な人です。僕は大事な佐々木さんが生きてて良かった。生きる事に縁があった、運があった、それだけの理由では駄目ですか…?」
「縁と運…、ね。賽子振って生きてるみてェじゃん、俺たち」
「案外そんなものかもしれません。賽子振っても振っても結果は変わらない」
「振ったら変わるでしょ、まア、振らなくても変わるか、振っても変わらない事もあった。だったら結局、一君が言うように縁と運、なのかなァ」

夜明けが近いのか、黒い曇天が所々鼠色になっている。
汚れた袖口を外側に捲り、着物の裏生地で佐々木の頬の掠り傷を優しく拭った。

「怪我、これだけですか…?鼻血も出てますけど…」
「うン…、これだけ。何てない傷だよ。俺は助けられた側だから」

頬を擦り合わせ、佐々木は小さな一の体温を味わう。

「くるしいです、佐々木さん…」
「こういう時に目一杯抱き締めさせてよ、ずる賢く生きてて良かったって、最低だって、心の底から思いたい」
「佐々木さんは最低じゃないよ。最低じゃないって知ってます。僕は佐々木さんが誰よりも優しいの、知ってますから」

佐々木の頭を撫でた。
(僕が佐々木さんのこと一番知ってる。佐々木さんは優しいから何でもかんでも自分のせいにして、責めて、自分を殺しちゃって。見殺しにしたなんて言って責め続けるけど、それは佐々木さんが優しいから思うことなんだよ。そんな佐々木さんが僕は好き、ずっと好き、本当に好き、大好き、)

そればかりを想いながら好き、と小さく呟いたが佐々木は聞こえていないのか黙ったままであった。それから抱き合ったまま、暫く一緒の時間を過ごしたが、一の腰に回された腕の力は強いまま畏怖を忘れようとしない。
忘れてくれたら良いのに、そう願って好き、という文字を象るよう今度は佐々木の広い背中を撫でたのに気付きもしない。
鳶が空高く飛びながら旋回している。無感情のまま見上げていたのに、出た言葉は難しくも簡単な言葉であった。

「佐々木さん死なないでね、僕を置いて死んじゃだめ」

途端に出た一の言葉に、佐々木は普段の調子で笑った。沈黙していた時間、何を整理していたのか、いつものように一の頭を大きな手でぐしゃぐしゃと撫で回す。何も言葉を返さない代わりに、その両手が返事の意味なのか。返事であれば何と言ったのか。

「つーか一君、もう心臓縮むことしないでよね、こういう時は自分の身と家族を一番に考えないといけねェんだから…」
「ごめんなさい、でも佐々木さんに会いたかったから」
「勝手に行動したら危ないの。一君の御両親と兄姉さん凄く心配してるよ。…後で家まで送ってやるから」
「でも、でも…、どうしても佐々木さんに会いたかったんだもん」

膝上に座られ、上目遣いで言われては何も言い返す事が出来なかった。本当は嬉しかった。嬉しくて堪らなくて、頬が熱い。こんなに緩んだ顔を人に見せたことはない。

「会いたいって、一君方向音痴なのに。品川までの道程よく分かったね、勘で来たの?」
「遠くから火が上がってるのが見えて、それを一生懸命に辿って来ました。佐々木さんかなァと思って、佐々木さんが居るような気がして」

照れ顔が訝しんだ表情に変わるのが自分でも分かる。佐々木は引き攣った顔を一から逸らした。

「……あ、」

丁度顔を逸らした視線の先に、凄い形相の男が立っていた。身体から滲み出ている覇気は鬼神五人分といったところか。遠くに立っているのに閻魔大王のような圧がある。その男を、佐々木はよく知っている。

「ね、一君、あそこに立ってるの、もしかしなくても…御父様じゃない…?」
「えっ?」

一が佐々木の身体から身を乗り出すと同時に、品川の船着き場に祐助の怒号が降り注いだ。此方に向かって凄い勢いで走って来る般若顔の祐助に、二人は一瞬身構えたが、一を膝上に乗せていた佐々木ごと自分の腕の中に閉じ込め、祐助はうおんうおんと男泣きを始めたのだった。

「勝手に出て行くな馬鹿息子…!心配しただろうが…っ!佐々木殿は御無事で何より…ッ」

息子の身勝手な行動に対しての怒りと、息子を無事見つけられた嬉しさと、佐々木が無事生きている事の嬉しさに感情が混ざりに混ざり、祐助の男泣きを更に加速させている。
可愛い山口家の次男坊を必死に追って来たのだろう、いつもぴっしりとしている祐助の髷は使い古された箒のようになっていた。


それから船着き場で夜明けを待ち、小雨が降る中を一は父に背負われ、手を振りながら帰って行った。佐々木は可愛い親子の後ろ姿が見えなくなるまで、一は佐々木の姿が見えなくなるまで父の背中から何度も振り向き、互いに手を振り合った。振り合った後の一の手は父の首に回されたが、佐々木の手は何にも触れず、だらんと垂れるだけである。
希望も絶望も掴まない、絶望が手を引っ張るのだ。

(上がる火を辿って来ただなんて、なんでそんな、そういうふうに思ったの一君。君に会いたかったのは本当だけど、まさか、そんなつもりで、俺は)

対照的な感情を述べて黒い海を見た。崩れた砲台を見た。黒煙だけを上げる番小屋を見た。何も無くなってしまった。皆とうに死んだ。無力さを知った。諦めた。
(顔が引き攣った理由を思い出した、思い出してしまった、あの時、)
肩に羽織が掛けられるまで、間近で咳払いをされたことに気付かなかった。顔を上げると、そこには組頭の顔が此方を心配そうに見下ろしていた。

「少しは落ち着いたか?」
「……あァ、…うん、さっきはどーも。冷静になって色々考えてた、あんたのこと助けなかったらどうなってたかな、とか」
「佐々木殿も意地が悪い。番小屋が崩れる中、わざわざ出戻ってまで私を探しに来てくれたくせに」
「たまたまあんたを見つけたから、たまたま気分で助けただけだよ」
「嘘をつけ。私が倒れてきた箪笥に足を挟まれてるのを助ける間、他の人を助けられただろう」
「うるせぇな、助けてやったんだから感謝しろよ」
「おや、私は存外只三郎君に感謝しているが…」
「感謝してる奴の顔を平然と蹴ってきた奴がよく言う。国元の娘に聞かせてやりてェわ、親父殿の冷酷っぷりをな」
「それは勘弁して欲しい」

佐々木の隣で組頭は喉を鳴らして笑った。

「あのさァ、土屋サン、八百屋お七って知ってる?」
「ああ、知っているが」
「……別にそんなんじゃないけど、俺ね、何で番小屋から火が上がったんだろうって疑問に思っててさァ、それで、思い出した。地震が起きる前に部屋で手紙書いてたんだ。さっき会いに来てくれたあの子にさ、ほんとに、どうでもいい内容の手紙、くだらないやつ。寝れなかったからわざわざ蝋燭までつけて。で、いきなり地震来たから、その蝋燭がね、」

その話を切るように、組頭は佐々木の頭を撫でた。小舟の中で頭を撫でられた時よりもうんと優しく、心強かった。子供みたいに頭を撫でられるのは好きではないが、この組頭は昔から何かと親のように頭を撫でてくれる。そして四角い顔に笑窪を作り、自分も娘に手紙を書いていたよ、君だけじゃない、そう明るく言うのだ。

気にかけてくれるより、庇ってくれるより、何より責めてもらった方が気が楽な事もある。人間のくだらない感情なんてものは理解出来ないことの方が多い。
組頭が嘘を付いてる事を、佐々木は知っている。国元の家族に手紙すら書いたこともないくせに、よく平然と嘘がつけるものだ、笑ってしまう。


(手紙を書きながら会いたいと願ったことは覚えてる。書いてた手紙の内容も覚えてる。転がっていった蝋燭の上に、羽織を掛けてた衣紋掛けが倒れてきたのも覚えてる。書きかけの手紙だけを握って逃げたことも覚えてる。火の行方なんかどうでも良かった、君へ渡す手紙の方が大事だった)

「ああ、やっぱり俺のせい」

それで自分は悪くないと正当化して、人はよく平然と生きていられるものだ、笑ってしまう。



end











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