痛い痛いと歯を食いしばっていた口元が暢気にぽかんと開き、声掛けに頷き煌かせていた眼光も、今はもう酷く汚く澱んだ目色で何処か遠くを見上げたままである。

(痛いて、もう言わんくなった、小指小指小指て、変な譫言も言わんくなったなア)

浅い呼吸を繰り返し、それが止まったり、止まったのかと思えばまたゆっくりと息を吸ったり、繋がる事のない連鎖は続く。
船に揺られ風を浴び、曇り空を少しだけ一緒に眺めていた。頭は空っぽになったが、彼の云っていた小指が気になり致し方がなくなると、清々しい気分の裏返しであるように深呼吸を自身に促してみても体内に小指が転がるようである。ふと視線を落とすと、息を吸って吐くという当たり前の生きる行為は、疲れてしまったのだろうか、どんなに眺めても動きはしなかった。息が止まると、暫くして人は完全に死ぬのだ。

(ほんまは斎藤せんせぇに渡そう思っとったんやけど、)

懐から懐紙を取り出して開くと、そこに挟まれていた枯花を同志の血まみれに染まった胸元と組ませた両手の下に置いた。するとどうだろう、血を吸って吸って、
(白い花は赤になって紫の花は赤になって橙の花は赤になって、全部赤になって赤になって、あれ、変わり果てた枯花が生き生きしとる、なんで、びっくりするわ、なんでそっちが生き返るん、こっちやなくて、)
ぼんやりと見つめたまま、薄ら開いたままの当人の目を閉じてあげた方がいいのか、当人はこの世の景色をまだ見ていたいがために目を開けているのか、小指が何だったのか、小指を噛み千切りたかったのか、聞けども還らぬ、二度と起きぬ眠る当人の前で久米部は考えるのを諦めた。何も考えないまま立ち上がって地図を開くと、ふらつきもしない足取りで船の後方へと久米部は無意識に歩く。
後方で舵を取り続ける船頭に、経路の確認と会津までの陸路を細かく聞き、考えない頭に情報を無理矢理捻じ込んだ。すると頭は考えないままに記憶した物を律儀に一列に並べだす。時には前後、時には途切れた合間を縫い続けながら。

「ほんなら、板戸で下船させてもらいます。あと、傷病者が一人亡くなってしもて」

言うと暗黙の了解のように茣蓙を数枚手渡され、久米部は深く頭を下げた。
茣蓙を抱えたまま舳へ戻ると、ついに死んでしまった彼の周りを囲むように皆が集まっていた。その中に斎藤も蹲っている。儚げで寂しそうな顔をしていた。自分は寂しそうな顔を作れているだろうか。

「…あ、ええと、ついさっき池田君の息が、止まって…」
「久米部が看取ってくれたのか?」
「ん、隣におっただけやけど、」
「有難う、……花まで。綺麗だ」

斎藤は戦死した仲間に敬意を払い手を合わせると、右手で優しく目を閉じさせ歪んだ肩に触れ所々指のない組まれた両手を摩り、別れを惜しむように自身が着ていた外套を強張った身体に掛けた。
(俺が躊躇ったこと、嫌なこと、全部するんやなア)
それから死んだ彼は丁重に茣蓙に包まれると、皆から惜しまれ盛大な拍手の中、たった一人で別の道を反対方向へと進んで行く。戸板に乗ったまま、勇敢に旅立って往く姿が見えなくなっても、斎藤は一人船の艫から顔を出して彼を見送り続けていた。
何と言われぬ感情がやけに自身を蝕み、心に小さな風穴を空ける。これに見合う表現を久米部は探すことが出来ないでいる。
斎藤の視線がやっと久米部に当てられたのは、肩に触れた時だった。泣いていたのだろうか、目元がほんのり紅色に染まっていた。

「斎藤せんせぇ、そんな顔せんといて。誰も責めんし誰も悪者やないんやから…」
「……分かってる、けど…、会津で治療を受けさせてあげたかった。間に合わなかった…、申し訳なかった」
「斎藤せんせぇが謝ることないやんか」
「早く撤退させて、傷病者の先発を早急にすべきだった」
「それは過程やん、あれは結果。あの傷は治療も難しかった」
「結果をよくするために過程が大事で、だからそれは」
「もうええよ、斎藤せんせ、ええから」

肩を引き寄せ抱き締めると、首が外れた人形のように斎藤の頭は久米部の胸へと安易に凭れ掛かった。こうするといつもは頭や頬や腕に触れてきてくれたのに、その手はだらんとぶら下がったままである。触れて欲しい、死体には触れた癖に、そこまで考えて久米部は頭の中を棄てた。

「…さっき船頭さんにな、会津までの経路とか土地の情報色々聞いたし、うんと頭に叩き込んだから。これからのことは心配せんでええよ」
「うん…。」
「大丈夫、皆一緒に会津まで行こな。もう誰も死なんから」

言うのは容易い筈であるのに心持ちは重い。頭では理解しているのに心は耳を塞いでいる。では身体が動く理由は、と問われると難しい。難しいのだ、そもそも自分たちは難しい生き物なのだ。晴れもしない空はまるで心を表しているようで、それなのに河岸沿いの桜は蕾を実らせ華やかな春を待っている。飛んでいる鳶は何も知らない。其々が必然であって意味などない。そんなものだ。

肉体に縋る身体を支えて腰を引くと、余程疲弊していたのか斎藤はその場へ座り込んでしまった。久米部も斎藤に合わせるよう座ると、船の棚板に阻まれ、川の流れや単調な景色は一切見えなくなってしまった。斎藤が見ているのは、死者の黄泉道ではなく自身の眼である。そちら側には渡さないと決めている。
背中を抱くように撫でて、身体も気持ちも此方側だと言い聞かせると、それに少しの支配感と独占欲を実感したのか、久米部は安堵を覚えた。

「少し、落ち着いた…?」
「有難う。……優しいな、久米部は。もう大丈夫だから、…前、しっかり向かないと。久米部の考えた経路、聞かせて欲しい」

蠢く感情を何も知らない斎藤は、足元に広げられた地図を見渡した。四角が破れた地図は靡く風に邪魔をされたが、それを押さえる久米部の大きな手、長い小指を斎藤は無意識に握る。無意識に小首を傾げ、無意識に、小指と小指を、何度も、絡める。
久米部は其の指を目的地へ進めるよう移動させた。

「とりあえず此処、板戸で下船する。氏家までは歩こ。ここら辺は宇都宮藩の領地やから、会津藩と親しい藩やし通してくれるやろ」
「そうだな…。会津若松への経路は二つ、か」
「会津中街道の方が直結でええんやけど、地形的にこの経路は峠を越えないかん。戸板で運ばなあかん傷病者がおる中、体力的にちときつい。やから氏家から白河まで進もか」
「官軍がいないことを願うしかないな…」
「いや、俺らが分裂しとることも舟運利用して水路を通っとることもまだ知られてないやろうし、無事行けるて思う」

余程真剣な顔をしていたのか、斎藤は久米部の顔をじっくり見つめると、くすりと笑った。

「お前が側に居てくれて本当に良かった」
「なんやいきなり、気難しい顔そんなに似合わん?」
「そんなことない。頼りにしてる。俺は地図が読めないから、とても助かる」
「斎藤せんせぇ土地勘壊滅的やもんな。大丈夫、陸路は俺に任せてな、斎藤せんせぇは見張り役」
「戸板ぐらい運べるが…?」
「俺の方が体力あるから、それも俺に任せてや。官軍と鉢合わせになった時は盾になることしか出来ひんかもやけど…」
「その時は俺に任せておけ。銃弾を浴びる前に斬り伏せる」

いつもの調子が戻りつつある斎藤の凛とした表情を、久しぶりに見た気がする。が、笑いながらも地図上に在る小指は川の水路を真逆に辿るのだ。真逆に辿れば最期は海に出るのは当たり前だ。それは先程死体を流した行先であって、自分たちが行くべき行先ではない。死体の辿る行先を確認したかったのか、必ずしも確認しておかなければならない事だったのか、どうせ海に辿り着くのは精々髪の毛数本ぐらいだ。あとは腐れて沈むなり野鳥から啄まれるなり、死ねば誰しもそういう結末だ。
急に哀しくなって、久米部は斎藤の身体を腕の中に閉じ込めたくなった。
(ああ、ずっと触れときたい。身体も言葉も心も全て支配してしまいたい、とは言いたくない、言いたくもないが聞きたくもない、)

「なあ、俺が死んだら触ってくれた?」

指先が震える。

「どうしたの、久米部…」
「俺の手ェ摩ってくれた?泣いてくれた?流した後、死んだ俺の後をずっと見つめてくれた?死んで流された俺がどこに辿り着くか、流した場所からどういう川を辿って海まで行くか、ちゃんと小指で考えてくれた?小指で俺の後を辿ってくれた?悲しんでくれた?俺の小指、さっきから握ったままなのはなんで?」
「死んでもないのに死んだ話をしないで」
「あっさり死ぬかもしれへんやんか、俺が、さっきみたいに。小指小指言うて、小指に囚われて、小指が、小指が、って、……小指って、なに、」

肩に掛けていた外套を斎藤の頭に被せ、余裕が無い素振りで唇を合わせた。こんな時にこんな事をするのは常識的に考えて如何なものか。しかし合わせた唇をそろり開くと、斎藤の閉じていた口も応えるように開き、今度は舌が合わさる。唯一の生温かい肉片を溶かすようにして、身体の髄を燻らせる。
このような事をしなくとも理解し合っていたのに、それでも拒まないのは理解し難いものの哀れを受け止めて欲しいと肚の底で想っているからだ。互いに互いを溺れさせてしまいたいぐらいの、

「彼に、小指、もらって欲しいって言われてたの。でも、小指が、無かった」
「あったらもらうつもりやったん?」
「ううん。小指をもらうなんて出来ない。もらうつもりもなかったから。だから、最期に小指、握ってあげれば良かったかな、なんて」
「…勝沼で斬り合って、そこで落としてきたのかもしれへんなア」
「うん、ごめんね、少しだけ小指何処に行ったのかなって思って、小指で地図を辿れば無くなった小指、彼が見つけられるかなって、思って。落とした小指、ちゃんと彼の後を追いかけて行ったかな。あ、小指、ごめんね、いっぱい握って。小指なんか欲しくないよ、でも、久米部の小指なら欲しいなって、思って」

そうしてまた口を合わせ、互いに互いを溺れさせる。長い睫毛に隠れた欲情的な瞳も口から漏れる小さな声も全てが苦しく愛しい。

「斎藤せんせぇ、前髪伸びたなぁ」
「久米部こそ、襟足伸びて結べるぐらい掴めるよ」

久米部の厚い胸に顔を埋め、皺を作る程に上衣を握りしめて子供のような振りをする。そんな斎藤の頭や背中や腰を、久米部は壊れないように優しく撫でた。
(ああ中を弄りたい)
腰より下へ下へと伸びてしまう悩ましい手を斎藤は掴み、悦を含んだ顔で久米部の右胸の突起を上衣の上から甘噛みした。ピリ、と痛みが走ったと思えば赤い舌で上下左右に弄られ小さな口で吸い付かれ、そこはもう下帯の中のように濡れている。ドクンと鼓動した脈が体内の膓から上に向かって這い上がる。背筋がぞわぞわと唸った。
それも束の間、一緒に被っていた外套を斎藤から奪われ、一気に外気が頬に触れる。仕掛けて来た張本人は肩を竦め、顔を真っ赤にしたまま斎藤を恨めしそうに見上げた。

「わ、わざとしとるやろ…っ、ここ、涎でびちゃびちゃ…。しかも外套着て隠さな見えるとこやんかっ」
「久米部がいきなり外套被せて勝手に口吸ってきたんでしょ?これ返さない、寒いの苦手だから」
「だからって何で乳首噛むんっ?」
「駄目だった?」
「いや、気持ちよかったです…。って、ちゃうやん、良くないやん!これ、俺の気持ち焚き付けといて…どない責任取ってくれんの…」

久米部の焦りを軽く受け流すように笑うと、腰紐に挟んでいた地図をしたたかに奪い取り、腕の中からするりと身体を交わした。

「久米部が決めてくれた経路のこと、皆に話して来る」
「まっ、待って斎藤せんせぇ…!」
「なに?」
「……俺、斎藤せんせぇ絶対守るから、…絶対死なんから」

言ったのは良いが、中々恥ずかしくなって目を合わせるのが億劫になり視界がやがて狭くなった。口は閉じたが目は泳ぐ。顔は熱い。それを逃すわけもなく、斎藤は久米部の顔を覗き込んで綺麗な顔で笑うと、少し大きな久米部の外套を翻しながら船梁を跨いで行ってしまった。
斎藤の澄んだ後ろ姿を見送りながら、久米部は船の小縁に肘を付いて熱い頬を両手で覆う。鼻で嗤うのではない、口で嗤うのだ。鼻唄を歌うのではない、あやふやに口ずさむのだ。

「いろはぶね、惚れてほの字の…なんやったっけ、」

思い出したように懐から枯花を挟んでいた懐紙を取り出すと、萎びた懐紙を広げ今度は中に包んでいた物体を無表情で眺めた。その中には二本の小指が在る。久米部はそれを転がして、懐紙ごと川へと捨てた。音を立てる事もなく二度と浮き上がって来る事もなく、何も無かったかのように水面はたった一場面を呑み込んで何も見なかったかのように何も知らなかったかのように何も起こらなかったかのように諭すのだ。

「池田君は斎藤せんせぇに小指やるつもりやったんやなア、斎藤せんせぇ優しいよなア、そんな阿呆な約束最期まで覚えとってくれて、最期まで池田君の無くなった小指の心配もしてくれて、最期に握ってあげれば良かった、なんて言うてくれて。──誰だって、好きな人が他の奴の小指握るとこなんか見たないんやで」

肚から出た溜め息は見えない水底よりもっと深い。

「俺が先に小指切り取っておいてほんまに良かったわア。意識ある時に切り取ってもうたから何度も何度も痛い痛い言うてたんかなア、」

頬肘を付いたまま久米部は鼻で嗤い上機嫌で鼻唄を歌った。

「跡へうろうろ先へうごうご、小指は狼狽え回って、ええと、」


知っている唄を知らないと唄う。



end











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