黒に穴が空いたみたいに臘月が此方を覗いている。柳は黙ったまま動かずに潜んでいるし、川は並んだ料亭の提灯を燻らせ、玻璃のような輝きを魅せている。
悴んだ冷たい指先を一本ずつ折りながら、斎藤は眉を顰めもせず折られていく自身の指先だけを見ていた。


「意地悪、傲慢、下劣、性悪、悪辣、粗雑、横着、軽薄、愚鈍、狡猾、」


もう自分の指が十本折られ無くなってしまった。今度は指を伸ばし折り返していけば自分の指は戻って来るのだが、大きな溜め息が隣から溢れ、楽しい愉快な言葉遊びを阻止するように手首を掴まれたのだった。

「もう言わないでいいから。一君が俺を凄く嫌いだってこと凄く分かったよ、凄く傷付いた」
「佐々木さんが嫌いなとこ言えって言ったんでしょ」
「いや言ったけどさ、……まだあるの?」
「まだあるよ」

もういいよ、と飽きたように言葉遊びは突如として幕を閉じる。それでも手首はまだ握られたままだ。

「身体温まってたのにもう冷えてる」
「佐々木さんが宴会抜け出そうって勝手に引っ張って来たから…、こんな寒空の中こんな所に座って身体もっと冷えた」
「あ、ほら見て、六つの花が降って来たよ。こりゃ冷える筈だよなァ」
「ほらまたそうやって話逸らす」
「話逸さなきゃ一君文句ばっか言うじゃん」
「佐々木さんは嘘ばっか吐くでしょ。そもそも花なんか空から降って来ないし、これ雪だから」

握られていない方の手を開き、宙へ翳してみると其処には小さな舞台が出来上がった。役者が生まれて消え去るまでの儚い舞台。消えると水になる。柔らかい優しい雨である。やはり異様に片方の掌が冷たいと感じるのは片方の手首を握られているからだ。握ったまま、握ってないようなフリをして平然としている佐々木を、斎藤は狡いと思った。

「何にも知らないんだね、一君。六つの花は雪の別名。雪ってねェ、六角形なンだよ」
「…白い小さな粒にしか見えない」
「よォく見なきゃ見えない。人間の心みたいなもんかなァ」

グイと手首を自身の方へ誘うかのように引いては、その着物袖から出た手首を握ったまま、親指で撫でては人差し指中指薬指小指を一緒に動かし撫でてくる。
慣れたような手先だった。このようなことを佐々木は誰か自分の知らない人にしたことがあるのだろうか、癖のように。それとも、特別な愛しい想い人にしかしないのだろうか、
その想い人は自分自身ではない事を自分自身がよく知っているのに、だって自分自身がよく自分自身の事もよく分かろうとしないからそう思うしかないのだ。
(どうしてこんなに知らない事を寂しく思えるのだろう、知ってしまっても悲しくて堪らないと思うのに)

「嫌、」
「何が嫌なの?」
「嘘吐きなところ…。」
「一君、嘘は自分のため相手のために吐くんだよ」

急に胸が締め付けられ景色が歪んだ。
(佐々木さんの顔、見なきゃ良かった)


「後悔してる、ずっと。置いてきぼりになんかしなきゃ良かった、大切だったのに」


言われた時に笑えば良かった我慢していた涙を溢せば良かった、
(頷けば良かった言葉に詰まらずすぐに返せば良かった、離さないでって言えば良かった素直になれば良かった、貴方の心をよく見れば良かっただって貴方はそんな顔をして平然と嘘を付ける人じゃないってそれだけは自分自身が一番分かってるのに、解っていたのに、)


「番傘の話だよ、今の。昔気に入ってた丈夫な傘をさ、酒呑んだ帰りに荷物になっちゃって置いて来たンだよね。それちゃあんと持って帰って来てたらさァ、降って来る雪凌ぎながら二人でまだ喋れてたのに、こんな冷たい思いなんかしなくて済んだのになァ。寒ィからもう帰るわ」
「………いつもみたいに送ってくれないの?」
「あの橋渡って真っ直ぐ大通り歩いてりゃ嫌でも屯所に着くよ」
「…それでも、迷うかもしれないよ…?」
「こンな雪降って来てる中、一君送って一君のとこから俺のとこまで歩いて帰ったら俺が濡れて風邪引くっての」

いつの間にか手首を握っていた大きな温かい手は着物袖の中に帰ってしまっていた。その手は今度いつ自分の手首を愛しそうに撫でてくれるのか、もう二度と触れてきてくれないかもしれない、ずっと、それならば欲しい、その手を千切り取ってしまいたい。

「無理矢理連れ出したの、佐々木さんなのに…。どうして勝手にそういう事するくせに置いて帰るの…責任取ってくれないの?傘、また買えばいい…でしょ、傘があればお互い濡れずに済むし…送ってくれるでしょ、そうしようよ、ね、…お願い」
「どうして今更我儘ばっかり言うの?」
「寒い、佐々木さんの首巻き、無いとこっちが寒くて死んじゃう。手、だって、さっきまで…、お願い、頂戴。手、切って、欲しい、無いと帰れない、道、分かんない…」
「一君ごめんね、俺もう帰るから。なんか今日具合悪くてさァ。気を付けて帰るんだよ、じゃあね」

じゃあね、と言う前に気を付けて、と言う前にはもう背を向けられていた。振り向いてくれないかな、という期待を抱きながらずっと立ち尽くしていたのに、一度も振り返って微笑んでくれる事は無かった。
涙を溢してしまえば視界は澄んで輝いて見えた事が心と比例していなくて憎かった。

雪がどんどん降ってきて、所々は白や銀で埋まっている。帰路は白銀。佐々木は雪を花と云っていた、なるほど、と単純に思うのだ。だってまるで、
(白い花が咲いてる中を一人で歩くなんてまるで死んでいる人間みたいだ)

ふわ、と両掌を開いてみた。彼の嫌いな所をそれぞれ言った滑稽な指を眺めるが、また滑稽な指は指で滑稽で弱虫な自分を眺めているのだ。
(好きなところ、十以上言えたのに指が足りなかったんだよって言って、だから貴方の手も必要だから欲しいなって言って、握りしめたまま温かいねって言えたらどんなに良かったんだろ)


こんなにも煌々とした玻璃色が煤けて爛れて冴えない見えないなんてこと無かったかもしれない有ったとしても無かったことにしているかもしれない無かったことに出来たかもしれない今はもう何も出来ずに有ったことだけを覚えて醜く消えずに存在しているけれど。


end











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