「金魚鉢、また大きくなってる」

祭日に一匹だけ売れ残った金魚が可哀想だと、久米部が買った金魚は透き通った金魚鉢で優雅に泳いでいた。あの日、桶の中に居た哀れな金魚とは別人に為っている。
金魚玉に入れられて斎藤の部屋の小窓に下げられていた。風にけなげに操られていた。しかし、久米部は可哀想可哀想だと言い、四日毎に鉢を変えていく。一月も立たぬうちに、金魚鉢は文机の半分程の大きさになっていた。相変わらず、彼は優雅に泳ぐ。

「こんだけ立派な金魚さんはやっぱ“上見”せななァ」
「もうこれ以上大きい金魚鉢買わないでね」
「うん、もう買わへん。これで丁度ええ、やっぱこれぐらいのが、」

久米部は頷いて金魚鉢を上から覗き込んだ。斎藤も膝を立てて一緒に覗き込む。別に彼の気持ちまでは知れないが、嬉しそうにぐるぐるグルグルと鉢の中を回るのだ。

「元気良すぎ…。久米部みたい」
「でもこの赤いひらひらしたべべは、斎藤せんせぇが着たら似合うと思うんやけど」
「男の俺が赤なんか似合うわけないだろう」
「どうせ脱ぐからええやんかァ、着てくれたってェ」

耳元で囁かれると、それからすぐに天井を仰いでいた。
綺麗に浮き出た鎖骨を舐め、腹に頬擦りをしながら久米部は斎藤の両足を左右に開く。開いた脚の間に自身の身体を入れ、斎藤の胸に片頬を重ねた。こうされる時は、互いに大抵余裕は無く、大抵欲望のままに果てる。
(これはすぐに入って来る、ほら、)
それまで斎藤は黙って久米部の頭をいつも撫で続けた。久米部の硬く熱い其れが自身の中へ入ってくると、頭を撫でていた手は久米部の背中を自然に抱き締めている。

話しかけられた気がして、斎藤はちらりと金魚を見た。

「久米部、出たいって、言った…?」
「ええ、まだ出ェへんよ、まだ斎藤せんせぇのなか突き足りひんのやけど…」
「馬鹿、ちがう」
「違うってなにがァ?」
「あ、久米部、金魚がこっち、見てる。じーって、」
「はは、俺らが熱々やからなァ、羨ましぃて言うてはるんよ。ほら、やらしいとこ見せつけたろかァ」

口角を下げて涎を垂らすように、金魚は大きな目で此方をじっと見ていた。

「さっきまでぐるぐる回ってたのに…」
「なんや今日は斎藤せんせぇ金魚さんに夢中やなァ」
「だっ、て」
「ほなこうしたろォ」

軽々と抱き起こされ、文机に頭を押し付けられた。隣に見えるのは透明な硝子の金魚鉢に入っている赤い金魚だ。彼は先程まで見下げていた視線を、隣へと変えた。グルリと身体と目を回し、斎藤の顔を見続けている。
斎藤の項を噛んだまま行為を止めない久米部が、どれだけ斎藤の身体を揺らし、どれだけ文机と鉢が揺れようが、荒々しくちゃぷちゃぷとした水の波動を諸共せず、やはり微動だにしない。斎藤の涎を垂らすまで、その涎を久米部が舐め取るまでもを、じっと見続けているのだ。
(けっきょく、ずっと…)
ハアハアと息を整えるたび、透明な金魚鉢は息で曇って金魚は終いには見えなくなっていた。不安になって上から覗き込むと、ぐるぐるグルグル回り泳いでいる。

「曇った硝子、舐めたら中よう見えるんとちゃう、ほらァ舌出して」
「ん、う、」
「一緒に舐めたろか、…ああ、ちゃうちゃう、俺の舌やんそれは」

久米部は斎藤の背中に抱きついたままであった。

「ごめん、怒ってる…?」
「正妻が妾はんを金魚鉢の中に顔沈めて殺した話、知っとる?」
「……知ら、ない。」
「どこぞで聞いたんかなァ、この怪談話」
「ごめんなさ、い。金魚ばっかり、その、気にして…」
「金魚好きなんやな、斎藤せんせぇ」
「好きじゃない。ただ、気になっただけで、」
「別に怒ってへんよ?ええやん、金魚が好きなら好きなだけ見とったら」

斎藤の中から情も無さ気に自身を引き抜くと、拭った精液がべっとりと付いた手を、金魚鉢の中でばしゃばしゃと洗い、久米部は何も言わずに部屋を出て行った。少しだけ濁った水の中でゆらゆら、金魚は元気に泳いでいた。
斎藤は文机に伏したまま、久米部が去っていく足音と、未だ静まらない鉢の中のぱしゃぱしゃと奏でられる水音を交互に、無意味に、空っぽの心で聞いていた。


そのまま、あのまま、寝てしまったのか、伏していた右目だけが少し腫れていた。何も無かったかのように隣に居座る赤い金魚は今日も機嫌が良い。鼻唄を歌っている。
「何の歌なの?出たいって、どこに行きたいの?」
金魚鉢の中に指を差し込むと、斎藤の指を餌だと思ったのか、ぱくぱくと口を開けて相変わらずぐるぐる泳いだ。

寝間着を衝立に放り投げ、長持を開けると、そこには丁寧に丁度半分、赤い着物と赤い帯が数枚入っていた。が、そのまた半分、自身の好む暗色の着物へと手を伸ばす。何も考えない、何も考えては為らぬ。不可思議をどう考えろと言うのか。
「お前が、悪戯したの?ねぇ、俺の着物、半分、何処に隠したの、」
金魚に話しかけても何の返事も無かった。



その日、斎藤は切腹者の介錯を四回した。四人死んだと云うことになる。一人、切腹の途中で逃げ出したので一人、殺した事になる。三人の首は転げ落ちたが、一人の首は天高く舞い上がって落ちた、後に転がった。準備された首桶は四つである。確認のために開けると、そこに首は無く金魚が泳いでいた。咄嗟に寒気がして斎藤は首桶を蹴ってしまった。転がる桶から飛び出た金魚はびちびちと苦しそうにバタついている。平隊士が慌てて金魚を掴み、桶に戻すのだが、その行為にさえ斎藤は吐き気を覚えていた。再び覗いた首桶にはしっかりと首が入っていたからだ。
(頭がおかしくなったのだろうか、)
自室へ戻ると金魚は唄を唄っていた。笑覧されている。

斎藤は優雅に泳ぐ金魚を鷲掴みにすると、そのまま部屋を飛び出していた。銀箭が綺麗に縦線を描く中、斎藤は番傘を左手に差し遠くへと走った。息が出来ない癖に、金魚は美しく滔々と唄い続けている。

(言葉にしたり、唄ったり、あるいはそれに何の意味があるの、何を見てたの、気持ち悪い、消えて、どうしたらいいのか知らない、教えてくれない、それは喋らないのに、もうその目でこっちを見ないで、何処かへ消えて、)

握っていた赤い金魚を、大雨で騒がしくなった川へと斎藤は投げ捨てた。
座り込み、足元の水溜りに掌を沈めた。唄は聞こえなくなっている。胸の締め付けが解かれたのか、息が出た、金魚も口からぼとりと出てきた。ばたばたと番傘に金魚が降って来る。べちゃべちゃと地面に金魚が、数十、数百、数万、ぼちゃぼちゃと降って来る。

「おかしい、おかしくなってる、なんで、金魚が、これじゃあ帰れない…、帰して。」

一本の針を刺されたようであった。

「あーあ、斎藤せんせぇ金魚捨てたん?」

肩を震わせる間もなく、肩を握られていた。顔を上げると、久米部が眉を顰めながら遠くを見ている。捨てた金魚の行方を見ているのだろう。耳をすましているのは、金魚の唄を深く聞いているからであろう。唄など唄わないと知っている癖に。
それでも自身を探しに来てくれた久米部の指を、斎藤は握っていた。追って来たのだと知っている癖に。

「出たいなって言ってたの、金魚が」
「ふぅん、金魚が喋るわけないやん」
「違う、ほんとに、出たいって唄って、それで頭おかしくなりそうで、介錯した首も金魚になってて、おかしい、どうしよう、金魚吐いちゃった、それにぼたぼた降って来るし、久米部、どうしよう、」
「斎藤せんせぇ、もうええから。もう帰ろな、身体冷えてんで」
「だ、だめ、歩いたら金魚潰しちゃう、どうしよ、どうすれば、」
「じゃあおんぶして帰ったるわ、ふふ、ちゃあんと傘持っとってや?」

異様にしがみ付いて来る斎藤を可愛いと感じながらも、久米部は斎藤を背負ったまま雨の中を歩いた。歩くたびに、ぐちゃぐちゃと金魚が潰れていく。

「そんなしがみついたら首絞まるわァ」
「う、ん…。だって、気持ち悪い…。潰れた金魚、可哀想…、生臭い…、吐きそう。」
「ただの雨やのになァ?」

まるで斎藤にとっては赤い話であっても、それは久米部にとって笑い話である。
笑い話ついでに、グルグルと狂い泳いでいた金魚を思い出し、久米部はぐるぐると回る回り灯籠の話を斎藤に聞かせた。屯所へ帰るまでずっと、回り灯籠のしかけはどんなものだとか、影絵のうつる仕組みだとか、それを走馬灯と言うのだとかなんとか。


いつ帰ってきたのか、斎藤が目を開くとそこは自室であった。


重たい身体を無理矢理起こし、布団を這い出ると、斎藤は自身の長持を開けた。さっき開けた時には半分が赤い着物に変わっていたのに、もう、今は全ての着物が赤い着物に変わっている。
(あれで終わりの筈なのに、)
振り向くと、文机の上に置かれてあった金魚鉢は跡形も無い。代わりに金魚鉢と同じ大きさの首桶が置いてある。
(殺さなきゃ、頭がおかしくなる、どうせ中に居る、居る、赤いのが、)
短刀を握り締め、首桶の蓋を開けた。

「金魚さん、居ると思ったやろ?」

中には久米部の首が在った。
ギャア、と叫んだのは自分だったのか、それともあまりにも驚いて首桶を投げたせいで首桶から出た久米部が驚いて叫んだのかは定かではない、今となっては確信が尽かぬ。

転がった久米部の首はころころとまだまだ転がり、土砂降りの中、外へと出て行ってしまった。斎藤は泣きながら待って待ってと追い駆けるが、久米部は笑い声を残しながら何処かへ消えてしまったのだった。

「嘘、どうしたらいいの、久米部帰って来て、首ないと死んじゃうよ、身体は何処にあるの?何処に行っちゃうの?ごめんね、ごめんなさい、もう金魚なんて夢中にならないから、捨てたから、だから帰って来てよう」

滅紫色の着物は、泥を啜って墨色へと朽ち果てている。
蹲って泣いていると、どん、と背中から刀を突き刺されたような、そのような感覚がした。じわじわと広がるのは、血ではなく赤い着物、である。

「斎藤せんせぇ捕まえたァ」

赤い着物ごと斎藤を抱き締め、久米部は幸せそうに嗤った。

「赤いべべ似合うとるやん、金魚みたいやでェ」
「嫌、違う、金魚じゃない」
「出たいな出たいな、」
「やめて、唄、うたわないで、聞きたくない、やめて」
「出したいな出したいなァ。そや、俺が金魚踏み潰した数だけ中犯したるからなァ、そんでいきたいないきたいなって、今度はあんたが唄う番や。可愛く唄ってや、金魚さんみたいになァ」
「嫌、嫌、やめて離して、助けて──」

引き摺られながら部屋へ押し込まれると、雨戸が物凄い勢いで、とち狂ったように、ガタンゴトン、ベキベキ、ゴットンと閉まった。中から聞こえるのは鼻唄だけである。



──濫觴、と託けまして、物事のはじまりとは此の事である。
はじまったばかりだと、よもや口を揃えて云うまいな──?


end











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