杳として分からなかった朝空が、もうそれはそれは大虚となっている。雲旗が遠くを彷徨っていて、まるで宵へと繋がる梯のようであった。
大空はこのようにして人間の表情のように折々と変わって行くのだが、この男は朝から屯所の竹垣の前に座ったまま、そのままである。斎藤が巡察に出た時も、何事もなく巡察を終えて戻って来た時も、このまま、そのまま、相変わらず。多少変わった所といえば、天高く上がった太陽を嫌うように、古びた番傘を差していることだろうか。

「御熱心なこと、」

斎藤が声を掛けると、久米部は差していた番傘をひょいと傾け、満面の笑みでお疲れ様ですお帰りなさいと嬉しそうに言った。確か、夕べもお疲れ様ですおやすみなさいと、薄れる意識の中で耳元に囁かれたような気がした。

「これ、見てた」

久米部の人差し指の先には、綺麗な柳色をした蟷螂の番が二匹、重なり合っている。傾けられた番傘の隙間に入り込むと、肩が少しだけ触れ合った。蟷螂の蠢く腹色が変わる様は、萌木色と緑青色の掛け合い。彼の目も、そうである。

「蟷螂は共食いをするのか、」
「うん、最初は交尾しとっただけやったのに。お腹空いとったんやろかァ」
「どちらが食べられているの」
「こっちの大きいのが雌、喰われとんのが雄」

私たちと同じ赤い血は噴き出さない物静かさが奇妙であった。左目しか残されていない頭は、あと数口で消滅してしまうのに、それでいて雄蟷螂の身体は雌蟷螂にしがみついたまま果てなく動き続けている。本能なのだろうか、奥底に感情と痛みがあるとすれば、何を思って黙って喰われるのだろう。不意に久米部の顔を見たくなって、斎藤は首を真横に向けた。先手を打ったと思ったのに、真っ先に目が合わさった。
やはり彼はいつものようににっこり笑う。

「切ないなァ、て、斎藤せんせぇもそう、思う?」
「思ってる、切ないなって。それに、蟷螂の気持ちがよく分からない」
「そうやな、分からへんなァ。分かろう思て、ずっと見てた筈やったのに見るのに夢中になってしもて。ほいたらなんか、斎藤せんせぇと俺みたいやなって気持ちになって、」

半穹より低い此の空間は咫尺を辨ぜず。

「俺は交尾の最中に久米部のこと食べないよ。」
「……斎藤せんせぇ、顔、青白うなっとる」
「これは、久米部が差してる傘が桔梗色だから、」

蟷螂の後ろ足と羽が落ちた。それだけで、後は何も残さずゆっくり喰ろうていく。詩吟を詠するように、和歌を朗詠するように、優雅に喰ろうていくのだ。長い手で、こうやって腰を掴まれ背中を撫でられ頭を撫でられ、腕の中へ優しく抱かれてしまってはどうしようもこうしようも、

「蟷、螂は、嫌じゃ、ないの、か、も」

唇を舐められ舌を吸われると、なかなかどうして言葉を発しにくい。言葉が繋がらぬ由々しき事態であると、温かい脳天の中ではその言葉がひたすらに繰り返されている。それでも伝わらずじまいで良いと思えるのは、彼自身のせいだった。

(目先の事しか考えられなくなったのは、貴方がそうしてくるから、だから、)

斎藤はぼんやりと久米部の唇を舐めながら、舌を奥へ奥へと差し出した。それにまた舌を絡めて絡めて、どろどろと互いに縺れていく。
足りない、もっと欲しいと言わんばかりに、久米部は自身の腰を斎藤の腹に擦り付けた。これは、情交前の彼の“癖”だ。

「蟷螂の交尾を見て興奮した?」
「ん、夕べの斎藤せんせぇ思い出してもうた」

かたり、と久米部が手にしていた番傘が地面へと滑り落ちた。気付けば墨雲が空一面に広がり、このまま七下がりの雨が降り出しそうである。竹垣にぶら下がっていた蟷螂たちは気付けば既に雌蟷螂一匹となっていた。雄蟷螂は足一本と羽二枚を残したまま、雌蟷螂の腹の中に行方をくらましている。これは死骸というより、残飯、或いは忘れ物と云った方が良いだろう。

「斎藤せんせぇ、俺のこと喰わんって言うてくれて有難う」

さあらぬ顔をして、心ばせは何とするか。ざわざわ蠢け心の縛り。垂れるは足枷。

「喰う喰わんの話をしてくれるっちゅうことは、斎藤せんせぇが雌蟷螂、で、俺のこと雄って思うてくれてんのやな、ああなんか雄って認識されんのほんま嬉しいわァ」
「だって、こんなに分かるほど膨らんでるのをお腹に当てられたら…。それに、これ、中に入ってくるんだから」

久米部の厚い胸に斎藤はちょこんと顎を乗せた。

「なんやの、斎藤せんせぇ可愛ぇ…。はよう斎藤せんせぇの中にいっぱい注ぎ込みたい。そんで注ぎ込みすぎたの垂らしたまま眠る斎藤せんせぇぎゅーってしたい」
「うん、いいよ」

指を重ねたまま手を引かれた。

「今日は蟷螂の交尾より長うまぐわいたいから、早う布団入ろなァ」
「そういえば、お布団敷きっぱなし」
「夕べ濡れたとこ乾いとるやろか。毎晩毎晩濡らしよったら布団も湿気てあかんしなァ」
「久米部の匂いが染み付いてる方が落ち着く。だから毎晩毎晩お布団濡らして」
「ああ、斎藤せんせぇになら喰われてもええわァ」
「蟷螂の気持ち、分かったの?」
「いんや、ちっとも分からへんよ」

ずるずる、落とした番傘が遠くへと引きずられていく。番傘を持って蟷螂は歩き続ける。開いたままの番傘は菖蒲に見誤るほど綺麗である。行方は知らぬ。知らぬが良い。
全ては分からぬ、それで良い。


end











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