潺潺と水のような声を出したのは夜鳥だったか。正体が分からぬので闇へと手を伸ばすのをやめるのも、正体を確信し手を伸ばしたとしても其れは同じ事。


男の姿を見たのは久方ぶりでもなかった。陽が沈みすぎた後の月は天高く、真夜中の暗い夜道で擦れ違っただけであったのに。それだけであったのに伊庭は男の往こうとする身体の一部、左腕を掴んだまま離せなかった。そして自身の指先は固まったまま、自ずと開かぬ。往かせてはならないと強く願っている、何故だろう。
刎ねられた三日月が紅く恨めしそうに斃れながら、此方二人を見下ろしていた。

「もう江戸に帰ェって来ねェような格好で何処へ行くってンだよ、お前。」
「……こんな夜更けにこんな田舎道、誰一人会わないと思ったのに、誰にも見付からないと思ったのに、どうして最後の最期であなたに会ってしまったのか、」
「必然だろ、馬鹿め」
「伊庭さんがいなくても、もう道には迷いませんので大丈夫ですよ」
「そういう事じゃねぇって、あのなァ、」
「迷う必要がありません、遠くに行くだけなのですから。ああ早く行かないと、追手が、もう刀が駄目になる、脂で、今度は突かないと、ふふ、可笑しい」

芯の無い嗤い方で一は嗤った。真っ黒な目だけは嗤わず、後ろの遠くを見ている。伊庭のよく知っている男ではないような気がした。きっと、知らない。然すれば誰なのか。殻の心に動くは唯の髑髏、となれば彼は何処へ消えたのか。
高下駄が地底でぎゃりぎゃりと砂利を喰らう。地面に伸びる弱い一本線繋がりは、美しい影絵になどならなかった。

「お前が何を言ってンのか何があったのか、オイラにゃさっぱりだ。また誰にも話さず一人で背負いこんでんだろ、だから──」
「どうにもならないことってあるんですよ、手を洗っても洗っても匂いは取れないし、忘れよう忘れようとしても瞬間の光景まで御丁寧に覚えてるし終には感覚に殺されそうになるんです、この手切って離して、ね、伊庭さん」

怯えた眼球を魅せたのは彼、それとも彼の眼球に映るは自分の怯む眼球か。先に立っているのは闇ばかり、足元では泥沼が大口を開けている。

「今のお前の顔見てっと放っておけねぇ。この手を離したらダメな気ィすんだよ」
「伊庭さんのそういうところが……、まあ、どうでもいいです。一人斬り殺すのも二人斬り殺すのも三人目も四人目も五人目も九人目も一緒ですから」

右親指で右腰に差している刀の鯉口を切った。

「離さなきゃあ斬るってか?物騒だねェ」
「すぐ終わります、少しだけ、少し伊庭さんが痛いぐらいで」
「正気に戻れよ、鬼みてぇな面しやがって」
「鬼みてぇな面って、どんな面でしょう、斬ったら治りますか、」

一は右の口角を舌で舐め上げ、長く息を吐き出した。まるでこの男から見つめられる空白の時間は、永遠と蛇に睨まれているような時間でもある。
両眉を上げ、艶やかな笑みで一は小さく呟いた。

「“ひで、さと、──秀穎、さん”」

伊庭は喉元を噛み千切られたような、そのような温かい赤い飛沫が首元から飛び出たような鼓動を一瞬にして感じた。

「…おまえ、なんでオイラの名前を…、」

身体中の筋肉が強張っている。声すら、かすれている。しかし一は涼しそうな顔で変わらず綺麗に、また上品に嗤い出している。


「俺の腕を握ったまま離さないのなら、俺はおまえの不味い魂を食らってやろう。俺の腕を掴むお前の憎い左手も、いつかお前から無くなりますように」


伊庭の片手から提灯が滑り落ちた。燃えて灰となった。真っ暗になった。月も雲に隠された。
彼の左腕を掴んでいた左手に感覚はあれど、彼はもう何処にもいない。伊庭は立ち尽くしたまま半刻ほど左手を見ることしか出来なかった。

距りが、渦を巻いて犇めく。


end


memo
諱(忌み名):古来より名と魂は結びついているという概念があった。相手の名(諱)を知り、口にすることで相手を支配できる、又は魂を抜かれるという言い伝えがある。











×