アンティーク調のアイアンベルが鳴り響く。
他愛もない会話、食べ物を上品に切ろうとするフォークやナイフの優雅な声、ありふれた昼間のうるさい雑音、近付く足音はそれらに見事に掻き消されていたのに。椅子を引く音と共に聞き慣れた声を聞いたのは、同時の出来事である。

「ごめんね…、待った…?」

息遣いは平静。走ってきたという事実はない。一の問いに、佐々木は何も答えなかった。一口飲んだ珈琲は既になまぬるい。
遅かったね、一言だけ放つと服の裾をぎゅっと握る細い指先が青いこと蒼いこと。

「…──友達と、会う予定だったから。…佐々木さんから連絡あって、心配で…。友達との待ち合わせ時間、ずらしてもらって、来た」

途切れる言葉が怯えている。雑音の中には永久とも云えるような二人の空間が淀み流れていた。答えが出ぬ輪廻ほど、無意味なものは特に無い。

「佐々木さん、話ってなに…」
「別に何もないよ。ただ話があるって連絡すれば、一君来てくれるかなって。予定投げ捨てて会いに来てくれるかなって。思っただけで、」
「……試したってこと?」
「うん、そうなるかなぁ。予定投げ捨てるまではしてくれなかったね、予定ずらして会いに来てくれただけだったね」

ごく、と二口目の珈琲を飲んだ。

「佐々木さん、どうして目を合わせてくれないの」

まぬけな質問である。容易で、全く想像がつかない、知るに知りそうでもない、些細な質問である。佐々木は気だるそうに頬肘をつき、つまらなさそうに大きな溜め息を吐いた。

「一君が嘘つきだから」

この言葉には互いに思い当たる節がある。
多分に確信的な推定の気持ちなどではなく、この問題については、その理解や対処の方法、責任を誰かに一任することは出来ないからだ。責任を取ってくれるものが存在すれば、そっちにあずけておいても良いことになれば──。

「嘘なんかついてないよ…。」
「ううん、嘘ついた。お前さ、学校終わって家に帰るまで40分だろ、それがどうして167分もかかるの?帰るっつったら帰って来いよ。帰れなかったら今から帰ってくるね、なんて言うな胸クソ悪ィ、嘘つきが」
「だって、こっちだって友達の付き合いとかあるんだから…。学校の日直や委員会の付き合いだってあるんだよ。…そういうのも、分かって欲しいって…、この間話し合ったばっかり…、」
「お前の付き合いの話はしてねぇだろ、今からすぐ帰るって言いやがったのに帰ってねェ嘘について言ってンだろが、」

テーブルの下で佐々木は一の足を蹴ると、コーヒーカップを乱雑におき、ゆっくりと顔を上げた。
最近見た表情の中では、とびきり不憫で痛わしく、もろくて愛しくて可愛い。それが佐々木にとっておかしくてたまらないのである。

「蹴らないでって言った、急に怒らないでって言った、急に機嫌悪くならないでって言った、そういうの嫌いって言ったのに──、分かったって言ってくれたのに、どうして佐々木さんはそういうことしてくるの?」
「お前が俺の気に食わないことばっかりするからだろ、」

歪な形で弱っていく。

「一君、お前がね、愛しい。お前が毎日連絡をくれるだろう、毎日毎日飽きもせず最低な俺にさ。だからそれが当たり前になってしまって、1日、1時間、30分、10分、お前からの連絡が途絶えると不安になるんだよ。何処で誰と何をしているのか、誰のことを考えているのか、自分でも気持ち悪いぐらいに。こんなにお前の事を愛しているのに、お前は少しも俺の事を愛していないんじゃないか、ただの優しさで俺に構っているんじゃないか、だってお前は誰にでも優しいからお前を信じてはいけないのではないか、だってお前は平気で嘘をつくから…。あのね、俺は嘘をつく奴は嫌いだ、その一回がもうダメなんだよ。ああどっか行ってしまえ、でも俺から離れては困る、寂しい。ならば信じても良いものか、いいや嘘つきは信じられない。こんな俺に振り回されるお前は可哀想で、可愛い。ああこんなにも感情に踊らせられて馬鹿みたいだ、辛い。馬鹿みたいだ、何も考えたくない、面倒だ、自分がおかしくなっていく、感情に惑わされている」

最終的には成り立たず、ある状態であることによって、何かを見あやまる。
途端に、雑音が頭を巡り突き抜ける。きらびやかなネイルを弄りながら話す女性の声、会社の上司がどうだの、後輩がああだの、映画がなんだの。仲の良い老夫婦の温かい声、次は庭にどんな花を植えようか、苗はどうするか。カプチーノ2つ、キャラメルマキアート1つ、オーダーを笑顔で繰り返す若い男の声、声、声、声で溢れている。
(ああ、この声たちが死んでも何も思わないだろうに、どうでも良いことに変わりはないだろうに、こんなクソガキに拘るのは、)


佐々木は考えるのをやめてしまった。



「佐々木さんのこと、好きだよ。これからもずっと良い関係でいたいと思ってる。でも、こんなんじゃ良い関係は続かないから…。だからもう用事がある時しか連絡しないし、佐々木さんに合わせたりしない。佐々木さんが嫌だと思うことを全部しない。こっちばかり制限されるのは間違ってると思うから。」



そう、いつだって可笑しかった。
迷いもない真っ直ぐな瞳で言われるのは、あまり好きではなかった。解決もない問題は心に根を生やす。考えを変えるのは中々難しいと自覚している。考え方など、変わらぬことの方が容易いからだ。
(もう、どうでもよくなった気がする)

「うん、お前の好きにすればいい。俺も他人に期待するからきつい。今まで通り、他人に期待しなきゃいい話だった。こんな簡単なことだったのに、こんな後になって気付くなんてさぁ、」

握り締めたコーヒーカップがあっけなく佐々木の手の中で割れた。冷えた珈琲はあっという間にテーブルに広がり床へと滴っていく。
佐々木の掌は夥しいほどの朱に成っている。

「一君、友達と遊びに行っておいで。お前にはなぁーんにも期待なんかしていないから。ね、さっさとどっかに行ってしまえよ」

BVLGARIのゴールドの指輪を外すと、佐々木はテーブルの上へ静かに置いた。

「これ、お前のやつと一緒に捨てといて。もういらない。もう、いいからさ」

あっけらかんとした佐々木とは対照的に、一の表情は暗くて重い。佐々木がアイアンベルを乱暴に鳴らし店を出た後も、一は顔さえ上げず俯いたまま、まるで絵の中のようでもあった。
(制限しないし好きにすればって言ったのに、一君の悩みの根元を取り除いてあげたのに、なんで嬉しそうじゃないんだろ、あんな顔するんだろ?こうなることを予測して提案してきただろうに、一君ってばおかしいなぁ)

「ま、いっか、どうでも」

煙草の煙が一層高く舞い上がった。



end











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