あの日のまま、片付けられていない部屋で、一はソファーに深く座り、うとうとしながら膝を抱えて傷を眺めるばかりである。これを何度も繰り返していた、もう何日経ったのだろうかと指折りもする。

「ごめんなさい、佐々木さんのこと考えてたつもりだったのに、考えてなかった。喜んでくれるだろうって決めつけて、構ってくれるだろうって、許してくれるだろうって決めつけてた。ごめんなさい、会いたい、帰って来てよ佐々木さん…。」

壊れた時計はいつも同じ時間。零から零に戻って考えたとして、最初から時間などというものは在ったのだろうか。元々無かったのではないだろうか。
壊れた時計は過ぎ去った時間を決して刻まない。零からの時間など存在していなかったのではないだろうか。それをずっと考えていると、既に朝になっている。




「一、どこ行ってたの?」
「職員室。生活指導の先生に呼び出されてた」

昼休みもあと20分で終わる。クラスに居なかった一を探していたのか、平助は一の前の席に座ると、片手に持っていたパンを食べ出した。それから机に並べたのは牛乳プリンとシュークリームとカフェオレ。どれも甘い食べ物に、見ているだけで空腹を感じるお腹はいっぱいになっていた。

「なんで衣替えの季節に間違って夏服クリーニングに出しちゃうの?」
「同じこと生活指導の先生にも言われた。間違えたもんはしょうがないだろ」
「半袖貸してあげよっか?」
「いい、平助ちっさいからサイズ合わない」

教室の窓から青空を見上げながら、平助は自分の話を淡々とする。指揮者を無視してピアノを奏でる演奏者みたいに。今日の登校時の話、授業の話、先生の話。どの話に対しても目を輝かせながら話す平助を見ていると、退屈しないということを一はこの一学期の中でたくさん学んだ。

「ねぇ、今日どうしたの?なんだかいつもと違うね、ぼんやりしてる」
「眠たいだけだよ」
「それはいつもの事でしょ。んー、ぼんやりじゃないや、うっとりしてる」
「うっとり…?」
「あ、分かった!さっきの美術の授業のせいなんじゃない?」

プラスチックのスプーンを口に咥えたまま、平助はコンビニのビニール袋に空のプリンの容器を投げ入れた。昼休みも後5分。机の中に手を突っ込み、午後の授業に使う教科書を手当たり次第取り出していたが、平助の机の上には国語と生物の教科書が並んでいる。

「美術のさ、新しく来た先生かっこよかったよね。だってもう女子たちキャーキャー言ってたじゃん?」
「ん、あまりよく見てなかった」
「優しそうだったよ。美術の授業ちょっと楽しみになったね」

予鈴がなると、平助は前を向いて喋らなくなってしまった。たまに後ろを向いて色々な話をしていたが、一はそれが何の話なのか覚える暇も無かった。変わらない景色に飽きて窓を閉めようと手を伸ばしたが、後少しの所で手を伸ばすのをやめた。手を引っ込め、長袖のシャツの上に壊れた時計をはめ直す。何に脅えて何に期待をしているのだろう、別に答えが欲しいわけではないのに。
放課後、用事があると嘘をついて平助と一緒に帰るのを一は断った。明日の朝は一緒に学校行こうね、そう言って教室を出て行った平助を見送ると、開いた窓をゆっくり閉める。
(今、何時だろう)
壊れた時計は何も教えてくれない。仕方なく教室の時計を見ると、なんだか本当の時刻ではないような気さえした。自分だけの時間じゃない、共有している時間、とても嫌な時間──。

ぼんやりする時間はあまり好きではないのに、ぼんやりとしながら廊下を歩く姿は無心である。事実を見たくせに確かめる必要など無かった。確信を二度見する、そのような事をしたいと思った動機は不明のまま、心より身体は正直であったと。
いつの間にか辿り着いてしまった美術室の扉を開けると、懐かしい絵具の匂いがした。

「忘れ物でも、したのかな?」

やはり、あの日出会った画家の男と似ている、頭の中に焼き付いた微笑みに似ている。二度と会う事は無いと思っていた男が、自分自身の目の前に悠然と立っている。

「“服部先生”」
「…君に名前を呼んでもらう日が来るなんてね、“斎藤一くん”」

グラウンドから運動部の声が耳鳴りのようにザワザワと聞こえたが、この空間は雑音など一切響かない赴きである。宙に放り出された星屑のように列車の線路が軋むように、遊びに来た風が頬を翳めていくだけ。

「まさかこんな所で会うとは思わなかったよ、どきどきしちゃった。教師が生徒にお金払ってヌードモデルさせた事、いつバラされるのかと思ったら…。君にバラされたら即刻私はクビになるだろうし」
「…そんなことしません…。私だって、先生に…」
「あ、そうだったね、君は君で教師の私に不健全性的行為を見られてるわけだし、ね?」

互いの心はどんな色をしているのだろうか、一色なのか混ざり合った色なのか。互いに混ざり合ってしまって、もう二度と元の色に戻ることは出来ないのだろうか。それとも調色板自体が違うのか。

「そういえば君の大切な人、ネクタイの贈り物喜んでくれた?」
「…いいえ、喜んではくれませんでした」
「それは残念だったね…。」
「一方的に想って一方的に背伸びして、一方的に言葉が欲しくて。気持ちとか感情とか、あまりよく考えなかったから…」
「手首の傷は、それが理由?」

捲れた長袖を引っ張り、一は子供のように両手を後ろへと隠す。探せぬ理由に、動悸がする。

「…痛そう。右腕にはめた壊れた時計も、痛そう。どうして死んだ時計をはめてるの?」
「これは、大切な人からもらった物なので…」

手にした調色板の一色に服部は親指を押し付けると、それをそのまま一の唇へと描いた。そして口紅を塗ったように、妖艶に赤く染まった唇を、服部はおいしそうに食べてしまった。
(分からなさそうで分かっている。自身の胸の中は知っていてもはかりごと、)

「これも二人の秘密ってことにしよっか、一生の秘密。」

触れた唇の温かさと腰に回された手の冷たさは別物であるが、心の温度だけは変わらない。差違が表現されるときは心が止まる時だろう。
自身に向けられた服部の寂しそうな微笑みも変わらない。カフェで拾った真っ黒な画を、一はふと思い出した。

「先生はどうして真っ黒な画を描こうと思ったのですか?」
「何も意味はないよ。君が拾って意味を見出しただけ、それだけ。」

(見出してしまった意味合いが簡単な事だとは思わなかった。必然が存在する意味も滑稽だと言うのならば)



この部屋にも時計が無い。
見知らぬシャンソンが流れている。煎れたての珈琲は苦かった。
(真っ黒はとても寂しい。何も考えていなかった、分からなかった、貴方が言う言葉は冗談のようでいつも真剣だったのに、猫のようでいて、蔓のようなのに、ごめんなさい、)

「赤色ってね、作れないんだって。黒は、何色でも黒に変えてしまうから。でも黒は白に弱いから、白が混ざると黒じゃなくなるから…。白色が、きっと黒色より何色にも染まらないんだよね。だから、佐々木さんはきっと、白色だね」

くだらない言葉だ。

「佐々木さん、かえってきて…」

ただ暗闇に喋るだけでは意味がない。
(貴方がいたから意味があったのに。)

「寝言みたいだね、名前を呟くの」
「…名前、呟いてましたか?寝言、言ってましたか?」
「魘されていたよ。心配だなぁ、斎藤君は私の可愛い可愛い生徒だから」

服部はベッドに横たわる一の額を、そっと愛しそうに撫でた。

「先生は、お優しいんですね…。」
「優しくはないよ、傲慢だよ」
「お優しいです、誰よりも」

言ったまま、寝息を立てて深い眠りに落ちる一には、何も聞こえない。暗い水底に落ちていくように、服部もゆっくりと追いながら声を掛ける。

「何も意味が無いわけないじゃない。全てに意味はあるんだよ、一つ一つの意味合いが、こうなることの意味合いがね。こうなることを望んで君ときっかけを作ったんだから──。」




レコードのノイズが一人、嗤った。


end


Nostalgia(懐古)















×