帰り道、初めてブランドが並ぶ店に一人で入り買い物をしたが、上品なスーツを着ている女性の店員が自分に何を話し掛けてきたのか覚えていない。覚えているのは大切な人の顔、まだ見えもしない表情を想像している落ち着きのない自身の頭の中だけ。そして何が原因なのか、頭が妙に痛かった事にも気付きはしなかった。 しっかりとした記憶の所持は曖昧であったが、広い玄関に脱ぎ捨ててある革靴を見ると、心の感覚だけは取り戻した気がする。 「一君おかえり、今日は遅かったね」 佐々木のいつもの声に、一は不思議そうな顔を向けた。 「なに、驚いたような顔して」 「…こんなに早く帰ってると思わなかったから」 「たまにはこんな日もないとね。つーか、その袋なぁに?」 「あ、これ…佐々木さん今日も帰り遅くなると思ってたから。オムライスのテイクアウト」 「一君ほんとに好きだねぇ。でも残念、今日の飯はもう作ったから。それ明日の学校の昼飯にしなよ」 リビングに入ると、テーブルの上にはふわふわの卵に包まれたいつものオムライスと、横にはスープとサラダが仲睦まじく並んでいる。それらを眺めながら、一はゆっくりと椅子を引いて鞄を置いた。在るのはいつもと変わりのない食卓。変わっているとすれば、そわそわとする自身の中身だけである。普段と違う素振りを見せないように、テーブルの端に置かれたケチャップを手に取り、それをオムライスへと乱雑にかけた。あっという間に黄色は当たり前のように赤になっていた。 横目でよく見ていた絵具のような赤。随分昔のような感覚に陥るのは、降り続ける雨のせいであると勝手に簡略化する。 「佐々木さん、」 濡れた鞄に手を突っ込み、真っ先に一はブランドの紙袋を佐々木へ手渡した。本当は感謝の気持ちを伝えながら手渡したかったが、こういう時こそ声は出てこないものだ。何気なく関わる毎日の中、関わりすぎる毎日の中、何と言えば良いのか分からなくなってしまっていた。 佐々木は首を傾げながら差し出された紙袋を無言で受け取ると、淡々と中身を取り出しプレゼント仕様に付けられた赤いリボンをほどく。ケースの中には綺麗なシルクタイが納まっていた。 「なに、これ」 「…いつもお世話になってるから、佐々木さんに似合うと思って、…プレゼント」 「へぇ…」 シルクタイを両手に取ると、佐々木はまじまじと、360°といって良い程に深く深く見つめた。表情は一が想像などしなかったぐらいに、ピクリとも変わらない。 「どう、かな…?」 「どうって、こんな高価な物どうしたの。学生の一君はこんな物買える金、持ってないでしょ」 「えっと…デッサンのモデル、引き受けて…」 ケースと紙袋が足元に落ちた。それをわざと踏みつけるように歩み寄ると、佐々木は一の左腕を力強く掴み上げる。佐々木の急な行動の変容と自身を見下ろす冷たい表情に、一は久しぶりに恐怖を抱いた。 「誰から金もらって買ってきたんだよ?」 これは一が大好きな佐々木の低い声ではない。こんな声を出す佐々木は、一の知らない人でもある。知らないことの方が多かったが、彼のことはよく知っておきたかった。知らないのは自分だけ、それはとてつもなく嫌だった。 「いつも時計は右腕にしてるのに、今日は左腕にしてる。誰かとシテきたの?」 「ちがっ…そんなことしないよ…っ」 「一君知ってるかなぁ、人間は平然と嘘がつける生き物だって」 左腕を捻られた時にはもう、身体の上半身はテーブルに押さえ付けられていた。サラダが入った器は転がり落ち、こぼれたスープはテーブルの端からボタボタと垂れている。左腕にはめた腕時計を外され、それをキッチンの方へ投げられたのか、皿が激しく割れる音がした。 佐々木に似合うと思ってプレゼントをしたシルクタイは、自分の両腕に絡まっている。身動きも取れず佐々木の顔も見えない現状に、一の目はぐるぐると動いた。 「嘘つかれるのは嫌いなんだけど?お金、本当はどうやって手に入れたの?」 「嘘なんかついてない…。お金、は…デッサンの、モデル頼まれて…っ、それで…」 「誰に頼まれた?」 「…前に、カフェで会った人…」 静寂ほど怖いものはない。 「お腹空いたでしょう、ゆっくり食べなよ」 また、優しい言葉こそ怖いものもない。何処まで戻れば今を取り消せるのか。自分が選んだ答えは正しくなかったのだと後悔した時は、遅い。進み続ける現実を疑ってしまうのは、やはり間違いだったのだと思い知らされている時だ。 あんなに優しく髪を撫でてくれる佐々木の手は、一の綺麗な髪を掴み上げている。目の前に差し出されたオムライスに顔を押し付けられてしまっては、口を開くしかなかった。 (口の回りにベタベタついて、気持ち悪い。ちゃんと佐々木さんと向かい合って、スプーンで食べたかった、朝みたいに、笑って、一緒に) 重なり合いすぎた手が悲鳴をあげている。見てみぬふりを続けながら、佐々木は解けないシルクタイの端を引っ張り、一の制服のズボンを乱暴に下ろした。 「佐々木さん、ほんとに……信じて、」 「ん、遠慮せずに全部食べていいよ。皿も綺麗に舐めて」 「佐々木さん、佐々木さん…っ、待っ、」 長い指が這うように一の中を浸食していく。身を捩っても逃れることの出来ない快楽に、幾度となく背筋を震わせた。声が漏れるたびに口端からは、咀嚼途中の唾液に溶けた食べ物がとろりとろり溢れてくる。 「あーあ、汚い食べ方。手を使わずに猫はもっと綺麗に食べるのに」 「ん、う、…っ」 「一君さ、精液飲む時いつも垂らすもんね?フェラも下手くそだし、でもそういう不器用なところ、可愛くて大好きだったんだけどなぁ」 縛られた両手は紫色に変色し、指先はひんやりとしている。痺れも消えた、感覚も消えた。泣いても一緒、喚いても一緒、何も変わらない。 (“大好きだった”って、過去みたいに言って欲しくない、やめて、) シャツの首元を引っ張られ、床に放られた衝撃で何度も何度も咳が込み上げてくる。酷い咳が鎮まるまで待つと、佐々木は一を無理矢理仰向けにさせ、小刻みに震える足首を強く掴んだ。グ、と喉が鳴る。 「“好きな人”とどんなふうにシタのか教えてよ」 「シテない…、ほんとに…“好きな人”なんかじゃない……。前に行った、カフェに来てた人で、偶然だよ、佐々木さんに似合うネクタイ見てたら…会ったから、それだけ、デッサンのモデル、頼まれただけ、モデルした分のお金くれて、だから…」 「脱いだんでしょう?」 息を整え、一は恐る恐る頷いた。込み上げる涙で佐々木の表情はよく見えなかったが、普段の表情でないことは声で分かっている。 「金無かったら身体使って金儲けするんだ?その金で俺に贈り物あげますってか?馬鹿にしてんだろ、お前の自己満足に俺は付き合わされてたってわけ?」 「違う、佐々木さん、違う、ってば、違う、いや、」 「違う違うって、何が違うの?」 押さえつけられた肩がみしみしと滑稽な音を上げた。いつも気持ちいいだけの行為が、こんなに痛いのは今日が初めてだった。哀しい事と罪悪感が入り交ざる事は、とても苦い。辛くて生きている実感が無いのも、嬉しくて現実を実感しないのも、二つにあまり大差はない。 「“好きな人”は佐々木さんだよ…。いやらしいことなんてしてない、そんなことしてもらったお金じゃない…そんなつもりじゃなかったのに……、ごめんなさ、い」 「謝るなら最初からこんなもん買ってくンな、大人ぶりやがって」 右足を真横へ倒されると、細い身体は簡単に仰向けから右向きへ、勢いよく視界は変わった。いつも中に出されるはずの体液は、内側ではなく外側の太腿を流れていく。息をする度に胸が痛い。背後でカチッと音がすると、ライターのオイルの匂いが鼻をつく。 「俺ね、所有物のくせに他人に愛想振り撒いて金貰う奴、大嫌いなんだよなぁ」 小さな火は、両腕に巻き付くシルクタイを綺麗に燃やしていく。 「…佐々木さ、…熱、い、やめて、熱い熱い…!」 小さな炎は白い皮膚をじわじわと焼いた。焦げてもろくなったシルクタイは、力を入れるとすぐに手首から離れて行った。逃れるように急いで身体を起こすと、感覚のない手がだらりと両脇に垂れる。紫色の腫れた手先を、自分のものとは思えなかった。床に落ちたネクタイは、燃える火に飲み込まれ、所々千切れて灰になっている。白いフローリングと毛皮のカーペットが、燃えた部分だけ焦げて無惨に黒くなっていた。 「人間って頑丈だよね、布切れはこんなにすぐ燃えて無くなるのにさあ」 燃えてしまったそれを見つめる佐々木の手には、まだライターが握られている。思わず、一は怯えるように後退りをすると、力の出ない足で立ち上がり、覚束無い足取りで佐々木の側から離れた。 何処にも逃げ場所の無い鬼ごっこは、何の楽しみもない。すぐに追い付くのは面白くない。それでもキッチンの方へよろよろと逃げる一の後を、佐々木はゆっくりと辿っていく。どんな顔をしているのだろう、どんな顔で涙を流しているのだろう、どんな顔で許しを懇願するのだろう、と。 握ったライターをポケットに入れ、ダイニングキッチンを覗くと、一は割れた皿の破片を気にすることなく、隅で蹲ったまま泣いていた。人間らしく赤みが戻ってきた手で、佐々木から投げられた自身の腕時計を必死に握りしめている。 「なにしてんの、」 「…時計、もう壊れちゃって動かない…」 痛みを堪えて泣いているわけではない、怖くて泣いているわけでもない。うっすらと血が滲み、皮膚が焼け爛れてしまった手首を見て泣いているわけでもない。 「この腕時計、佐々木さんからもらったやつだったのに…っ、壊れたら、何もなくなっちゃう…」 身体より心に負ってしまった傷の方が重く蝕んでいく。弱々しく震える一の肩を、佐々木は抱き締めようとはしなかった。何時その腕時計を買ったのか、何時その腕時計を一にプレゼントしたのか、全て佐々木は把握しながらも、その腕時計を握り締めて泣き続ける一に苛立ちさえ覚えている。投げるだけでは物足りなかった、踏みつけて壊してやればよかった、最低な善意を羅列させて何がこんなに息を荒くさせるのか。 「お前も時計みたいに壊れろよ」 寝室まで一を引き摺って行くと、佐々木のシャツの袖には血が付着していた。抵抗したのだろうか、泣いていたのだろうか、そんなことを考えているうちに、時計は壊れたって別空間の時間は勝手に進み行くのだと、佐々木はやけに冷静に考える。 支配しているのは時間だ、動かすのも時間だ。 「どんなふうに壊されたいの?」 「いや、…いやだよ……」 ベッドに縫い付けられたまま哀しそうに泣き続ける一を、佐々木は可哀想とも思わなかった。いつも見る光景でもない光景に、感情は一つ。焦燥感が押し寄せるのか不安が覆って何も見えはしない。 「佐々木さんに…、…大切だって言ってもらいたかっただけ、…それだけ。どうでもいいって、意味ないって言われて、悲しかった…」 「お前がいつもごまかして何も言わないくせに」 「好き、好きだよ…佐々木さんは一番大切な人…」 個々の時間が死ねば肉体も死ぬ。 「そんなの、今更だろ」 首を絞めたのは初めてだ。こんなに大切な相手を憎いと思ったのも、佐々木は初めてであった。 殺せば自分の物、殺してしまえば二度と会えない。殺してしまえば思い出は自分だけの、唯一。 「佐々木さん、」 「全部、無くしてしまえ」 カーテンから光が漏れ出し始めた頃には、一の身体は死んでしまったように動かなくなっていた。 end Embarrassment(きまり悪さ) ← ×
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