一日中、雨が降る日だった。 ショップウィンドウに飾られたネクタイの値段を何度も右端から数えてみるが、其れが何度数えても為替チャートのようにコロコロと変わる事は無い。 (やっぱり、すごく高い…。) プレゼントの金額を下げればネクタイは買えるが、どこの店に行こうとも結局は此処に戻ってくる始末だ。どうしても、此のGUCCIのネクタイにしか目が行かなかった。 (佐々木さんに似合うのになぁ、) 諦めの悪い自分に呆れながら、一は項垂れたままショップウィンドウのガラスに手を翳す。 プレゼントは値段じゃなくて気持ちだよ、そう沖田が言っていた。サプライズで渡したプレゼントを抱き締め、近藤が泣いて喜んだと聞いたのは昨日の帰り道だったか、それとも数日前の電話だったか。 (佐々木さん、プレゼントを渡したとしても泣いては喜ばないだろうな、そういうとこ見てみたい気もするけど…。学生でも買える安いもの、他に何があるだろう。佐々木さん、何が欲しいのかな、それさえも分からないなんて) 沖田が少し羨ましいと思いながらも、翳した手を引っ込める。歩き出そうと一歩を踏み出すが、視線は其れだ。三歩目を踏み出した瞬間、肩に乗せていたビニール傘が、路上を嬉しそうに転がって行った。 「すみません…前を見ていなくって、」 傘で視界が見えなかったこともあり、人と派手にぶつかってしまったようだ。直ぐ様謝りながら顔を上げると、そこには何処かで見た事のある顔が一を心配そうに見下ろしている。既視感に絆されていると、男は転がった傘を拾い上げてくれた。 「この間は鉛筆を拾ってくれて有難う。傘、どうぞ」 「……あ、」 優しく微笑む男の顔を、一は覚えている。 「…カフェ、の」 「覚えててくれたんだ、嬉しい」 男はやんわり微笑むと、一からショップウィンドウへと視線を移した。 「それ、熱心に見てたみたいだけど、買おうか迷ってたの?」 「…えっと、贈り物を探してて。でも、そのネクタイは自分に買える金額ではないので…諦めました」 「綺麗なシルクタイだね」 その横顔は、前に立ち寄ったカフェで一度見た。珈琲が似合う、美しい大人の男だと思った。今日は片手に珈琲ではなく、黒い大きな傘を持っている。全てを包み込むような黒い傘に、柄を握る長い指。そこに立っているだけなのに、雨さえ似合っている。何処にいても、この男は周りを自分の色に染めている、その傘の色のように。 ふと、一は思い出したように肩に掛けていた鞄を開き、中身を確認した。いつぞやにカフェで拾った時のまま、曲がりもせずにこの男が描いた黒い画が、弁当の包みの横に倒れている。 ここ最近、鞄の中を開けるたび、この黒い画を見るたびに気になっていた。何が気になるのか分からないまま、手放すのも惜しい気がしたが。 「あの、これ…この間、」 黒い画を差し出すと、男は一瞬驚いた表情を見せた。大事な物だったのだろうか、それとも拾わなくても良かった物だったのだろうか。男の瞳は思った以上に真っ黒ではなかったし、ただ、間近で見ると思った以上に笑顔が綺麗で見惚れてしまいそうな顔立ちであった。 「…カフェで落としたみたいだったから、拾ったんです。その時に渡せなくてすみませんでした」 「そう、捨てて良かったのに、」 「何かの大事な作品だと思ったので…。」 「こんな黒だけの画を作品だと思ったの?君って面白いね」 一礼して黒い画を受け取ると、男はもう一度ショップウィンドウに視線を落とす。二人の間に沈黙が流れ続けるのに対し、ガラスには騒々しい彩り鮮やかな通行人の傘たちが映っては消え、映っては通りすぎて行った。天気予報では明後日まで雨模様だった気がする。 「そうだ、君、今少しだけ時間ある?」 自分がどういう顔で頷いたのかは分からない。素性も知らない男の横を歩き、街中から外れた路地を抜け、小店の並ぶ下町に足を踏み入れた事は、ぼんやりと覚えている。話が弾むと、ろくに風景も頭に入って来ない。 「デッサンのモデルを探してて。ちょうど君と会ったから、これも何かの縁だと思って」 下町の一角、西洋風の小さな建物の中に入ると、雨は一層強くなっていた。 出窓から覗く庭の紫陽花が、雨に濡れて泣いている。広くもない男のアトリエは、こじんまりとしていて味がある。どこか寂しそうな描きかけの画、大胆なタッチで描かれた彩り豊かな画、様々な作品が部屋中を埋め尽くしていた。さながら、Zdzislaw Beksinsjiの世界観にLouis Wainが入り込んだような風情だろうか。 温かい珈琲と上品なカステラを馳走になり、深緑色の大きなソファーに寝そべっていると、なんとも言えぬ心地好い眠気に襲われる。遠くで鳴る雨音と、スケッチブックに鉛筆を走らせる音が子守唄のようであった。 「ありがとう」 ものの数分だった。男は古い机に鉛筆を置き、満足気にスケッチブックを眺めている。一はソファーから起き上がり、そのスケッチブックを覗き込む。そこには、ソファーで静かに眠る自分自身が丁寧に描かれてあった。 「わ、あ…凄いです。こんな風に描けるなんて。これ、本当に自分ですか」 「素材が良かったからね。綺麗なものを見るとつい描きたくなってしまう性分だから。君にモデルを頼んで本当に良かった」 男は愛しそうに自身で描いた画を撫でると、画に向ける眼差しと同じような目で一を見た。胸の鼓動が速くなる。それは何を意味するのか分かるようで分からない。答えの見付からない狭間でぼんやりしていると、男は御礼にと一の手に何かを握らせた。開いて見ると、手のひらに数枚のお札が存在している。 「モデルを引き受けてくれた代金。これであのネクタイ、買える?」 「こんな…、だめです…」 「このぐらいのお金であのネクタイは買えるはずなんだけど」 「そうじゃなくって、こんな大金…もらえないです…。お金を頂くようなこと、何もしてないのに…」 「じゃあ、“何かしたら”もらってくれるの?」 綺麗な表情の中には寂しさが含まれていた。首筋を撫でる手先は氷のように冷たい。制服のシャツのボタンに指を掛けられるのも、髪に触れられるのも、何もかも嫌ではなかった。 (佐々木さんの手は温かかった、佐々木さん、今日も早く帰ってるかな、いつも遅いから帰ってないだろうな、待ってもいないだろうな。冗談、のようだった。佐々木さんにとって自分は、そんなに…) 考えるのは何故か佐々木の事ばかりだ。考えながら男の手に触れる。 (離れたとしても、何も変わらないけど、別に、) 手先が絡まっていた。 カーテンを閉めた部屋は灯りが籠り、与えられた時間は永久のように感じる。アトリエの隅に置かれてあるベッドの上で、一は男と目が合わないよう、自身が脱いだ服を懸命に凝視した。 「ね、さっき会った時に贈り物を探してるって言ってたけど、誰に贈るの?」 「それ、は、」 「大切な人?」 「…はい、一応。でも、一方的かもしれません」 話しかけられると、必然的に男の顔を見てしまっている。スケッチブックと自身を交互に見る目には当然朗らかさはなく、無表情そのものである。 「ごめんね、緊張してるでしょう」 「……大丈夫です。」 「そうだ、大切な人のことを思い浮かべてみて」 「大切な人…、」 脳裏に焼き付いて離れないのは佐々木の低い声だ。低い声を思い出すと頭の中がくらくらする。口に出して言ったことはないが、大好きだ。毎夜のことを思い出すと、足先がぐにゃりと蠢いた。元の位置に戻そうとも、左足の爪先が上にあったのか右足が上にあったのか既に忘れている。一は男に小さく謝り、息絶えたように押し黙った。男は何も言わず、ベッドに横たわる一の白い裸体を描き続けた。 目を覚ますと白いタオルケットが身体に掛けられており、部屋にはラジオが流れている。男はソファーに深く座り、ゆっくりと珈琲を飲んでいた。 「ごめんね、あまりにもよく寝ていたものだから、起こすのが可哀想で」 「いえ、此方こそ寝てしまってすみません…」 タオルケットを握り締めながら脱いだ服を引き寄せると、外した時計が制服のポケットから転がり落ちた。それを拾おうとする指先が震えている。自分自身だけが分かる身体の不調は、余計に胸のざわつきを目立たせる。ことん、と机にコーヒーカップを置く音に肩が揺れた。腕時計の秒針の音が珍しくうるさい。 「ヌードモデルまで引き受けてくれてありがとう、お金はちゃんともらってね」 シャツのボタンを一つ一つ、男は優しく留めてくれた。落ちた腕時計を右腕ではなく左腕にはめてくれた。一は最後に一杯の珈琲をもらうと、何事もなかったかのように男のアトリエを出て、いつものように、ただの学校帰りの学生になった。 人通りの少ない路地から大通りへ出ると、そこは仕事帰りの大人たちで溢れ反っている。 「あとは帰り道、大丈夫かな?」 「はい、ここまで送って下さり有難う御座いました」 「今日はごめんね。その、君は一方的だって言ってたけれど、君には大切な人がいるのに、こんなこと…」 「いいんです。…関係性が、よく分からなくって。どこで何をしても、どうでもいいみたいだから」 雨の中、忙しなく行き交う人たちが立ち止まっている自分たちを次々に避けていく。何故だか、この男とはもう二度と会わないような気がした。惜しい感情が奥底にあるのも言葉には出来ないまま。腕を掴まれるまでは、さようならと、そう呟くつもりだったのに。この男は別れも告げず、優しい目をして一の頭を撫で続けるのだ。 「どうでも良くはないと思うよ、君のこと大事に想ってるんじゃないかなぁ…言葉にしないだけで」 「…冗談ばかり言う人だから、本心が分からないんです。だから、私がどこで何をしようと別に…何も思ってないんだろうなって…」 「大人になるとね、言葉にするのが苦手になるんだよ。でも君の大切な人は、君を優しく犯すでしょう?」 「え……?」 「もう会わないだろうから言っておくけど、街中でカーセックスはやめた方がいいよ。あのカフェから向こうの通り、よく見えるんだ」 掴まれた腕に感覚はない。頭の感覚も心の感覚も全て消え去っている。 「それに、Rolls-royceはよく目立つから」 生唾を飲む余裕すら与えられなかった。気付けばもう腕は掴まれていなかったし、男の姿もない。 思い出すのは小さなアトリエに並んだ絵、そして窓から覗いていた紫陽花。 (綺麗な紫陽花だった、あれは何色だったっけ) さようならと言えなかった自分を、一は忘れてしまっている。 (見られてたんだ、恥ずかしい。) 誤魔化しても消えぬ記憶をつらつら、頭に浮かばせては消せぬ感覚を繰り返す。鞄を抱き締め縮こまり、込み上げてくる頬の熱さをまた誤魔化した。 end Curiosity(好奇心) ← ×
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