「やっぱりここのパンケーキが一番おいしいなぁ、メープルバターもすごくおいしいし」

明るい表情に明るい声、しかし手先のナイフとフォークは丁寧に振る舞う。頬を膨らませ、忙しそうに今度はホワイトモカが入ったグラスを口元へ。鼻先についた生クリームを指摘すると、沖田は照れくさそうに笑った。その笑顔があからさまに子供っぽくて、この小洒落たカフェの雰囲気に中々溶け込まない。
打ちっぱなしのコンクリートの壁、レトロな家具、店内をゆったりと流れるjazz、窓辺のカウンター席で珈琲を静かに飲む男性、どれも制服を着た自分たちには似合わない。
カフェの名前も英語表記が難しく、何度来ても一文字さえ覚えなかったが、年上の友人と過ごす大切な時間は些細な事でも覚えている。沖田がこのカフェでパンケーキを食べるのはもう6度目だ、前の前の月は火曜日に来た。その時はパンケーキにバニラアイスをのせて食べていた。前の月と今日は木曜日に来た、メープルバターの方がお気に入りなのだろう。

「一君、今日は付き合ってもらって有難う。近藤先生たち喜んでくれるかなぁ」

食べ終わると口端を手の甲で拭き上げ、沖田は隣の椅子に置いていた紙袋を膝上へと持って来る。

「泣いて喜びますよ、源さんは笑って喜ぶかも」
「うふふ、使ってくれると嬉しいなぁ」

小さい頃からお世話になっている人たちに、プレゼントを渡したいと沖田が言い出したのは月曜日のお昼休み。苦しいテスト期間を乗り越え、開放感溢れる足取りで真っ先に赴いたのはASOKO雑貨だった。その上、沖田がプレゼントに選んだのはbuggy柄のメラミンコップ。これには笑いを堪えきれず、一は噴き出してしまった。さっきの事を振り返ると、また笑いがふつふつと込み上げてくる。

「一君また笑ってる」
「うん、ごめん、だってこれ、近藤さんや源さんが使ってるの想像したら可愛くて」
「そーだよね、面白みがあるよね」
「すごくいいプレゼントだと思います」
「ね、一君は日頃の感謝を伝えたい人、いないの?」

時が止まったように感じた。息はしていただろうか。頭の中では浮かんでいる筈なのに、その人の笑顔が浮かんで来ないのは不思議だ。戻って来ない感覚を引き戻したのは、足元に何かがぶつかってからである。
「あ、」
色とりどりのスケッチ、見た事も無い画材、転がった鉛筆。
一は自身の爪先に転がって来た、芯の折れてしまった4Bの鉛筆を拾い上げると、それを落としたであろう男にやんわりと手渡す。先程から窓辺のカウンター席で一人、珈琲を飲んでいる男だった。眼鏡を外す仕草も、やはりこのカフェの雰囲気に合っている。ありがとうと囁かれた言葉はやけに低く、憧れるような綺麗な大人の声である。

「あの、」

テーブルの下に入り込んだ一枚の画を拾い上げたが、既に男は窓の外を向いていた。珈琲を片手に左手の鉛筆を煩雑に動かしている。声を掛けてはいけないような気がした。相変わらず区別のつかぬjazzが流れているだけで、其処には珈琲の匂いしか無かったが、窓辺に座る男は流れる音楽の意味も珈琲の味も、全て知っているような気がした。

「一君どうしたの、悪夢を見たような顔してるけど」
「ん、何でもない」
「今の人、画家さんかなぁ?落としたスケッチブック、すごく上手な絵だったよね」

こっそりと耳打ちをする沖田の言葉に、一は黙って頷いた。拾い上げた画は、真っ黒な絵が描かれている。黒と黒でしかない絵は、一の手元で何者にも為らないと踏ん反り返っている。一は其れを静かに鞄の中へと滑り込ませた。こうしてしまった意味は自身でも分からない。その男に、もう会わないかもしれない、また会うかもしれない、その時にこの真っ黒な絵を返せばいい。男の広い背中に罪悪感を覚えながらも、小洒落たカフェを後にした。カフェの名前は、やはり覚えていない。

「今日は近藤さんたちにプレゼント渡して帰るから、帰り道こっち。また明日ね、一君」

別れ際の沖田の笑顔を見て、一は沖田の一言を思い出す。日頃の感謝を伝えたい人について考えた時の、自身の頭の中についてだ。きっと、感謝を伝えたい人も大切な人も好きな人も同じ人しか浮かばないのだから、その人で間違いないのだろうと。
赤信号で何分待ったのか、腕時計は何時を指しているのか、何も気にしないまま一は無意識にショップウィンドウの前で足を止めた。GUCCIのショップウィンドウには、キングスネークのモチーフがあしらわれたネクタイが堂々と飾られてある。
(綺麗、あの人に似合いそう)
思わず顔が緩んだ瞬間、“あの人”の存在があやふやに塗り替えられた気がするのは、あの真っ黒な画のせいである。
(あの時、やっぱり返しておけば良かったかな、)
ざわついた心に首を傾げる間もなく、今度は聞いたことのある車のクラクションと、聞き慣れた声が突如として街中に響き渡った。振り返ると、愛嬌よく此方に手を振る姿が、嫌でも目に入る。

「一君見ーつけた、一緒にかえろ」

路肩に車を止め、車から下りてきた男は執事のように後部座席のドアをわざとらしく開けてみせた。汚れ一つもない車の外装と内装、上質なスーツに身を包んだ色男。これだけで街中の視線を一人占めしているのにも関わらず、この男の行動は常に大胆だ。大胆過ぎて、一はいつも振り回されている。しかし、この男は一の大切な人でもある。

「何でここにいるの、」

開かれた後部座席に男を押し込み自分も車内へ乗り込むと、一は急いでドアを閉めた。スモークフィルム越しに行き交う人々の視線が拡散されていくのを確認すると、眉間に皺を寄せたまま溜め息を吐く。

「佐々木さん…もうちょっと目立たないように声掛けて…」
「ごめんごめん、でもさ、俺ちょっと執事っぽくなかった?」
「そういう冗談ほんといらない」

声を掛けてくれた事、好きな人に会えた事は素直に嬉しいのだが、それを上回る何かを仕出かすため、佐々木に対して一はいつもこういう扱いをしてしまう。顔を背けても笑ってどうしたのかと聞いてくるし、振り払おうとした手も引き寄せてくる。甘やかされている。

「一君に偶然会えたのがほんとに嬉しくってさ」

そうして時折、佐々木の顔から笑顔は消える。真剣な顔を向けられると、一は佐々木の側から離れることは決して出来なかった。

「いつも…会ってるのに。今日だって朝ごはん一緒に食べたし…佐々木さん、いつも玄関まで見送ってくれるでしょ」
「でも、それだけだよ」

血の気の無い冷たい表情を向けられる時がある。頬に添えられた手は、確かに生きている人間の温かさの筈だ。

「一君に早く会いたいなって、今日はそればかり思ってたから。仕事、いつもこんな時間に片付けばいいのになぁ」
「……変な佐々木さん」
「惚れ直した?」
「別に、惚れてないよ」
「相変わらず酷い物言いだね」
「だって、佐々木さん冗談ばっかり言うから…」
「ねぇ、今日なに食べたい?久しぶりに作ってあげる」

大きな身体が圧し掛かってきた反動で、肘がパワーウィンドウのスイッチに当たり、右後部座席の窓が半分開いた。閉めようと思っても、車のシートに押し倒されていては指は届かない。

「な、に…」
「んー?分かってるくせに」

片足の靴が座席の下へと転がった。

「や、佐々木さん、車は…っ」
「せっかく出迎えてやった執事様を後部座席に押し込めた奴が何言ってンだよ」
「ここ街中だし、見られたらどうするの……窓、開いちゃった、ダメだって、ば…」
「道路側の窓でしょ、トラックの助手席に乗ってる奴にしか見えないって」

服の擦れる音と唇を吸われる音が車内に充満している。そのうち、甘い声と小さな喘ぎ声で満たされるのだと想像すれば、一の身体は急に熱くなった。
(耳、が、おかしくなりそう)

「佐々木さん、ベッドがいい、車は、…ぁ」
「は、これGHOSTからFhantomに変えたのに、どの口が贅沢言うわけ?」
「ちがっ、そういう意味じゃ、なくて、」
「俺はこういうの、すっげぇ興奮するから嫌いじゃないんだけど。で、一君は今日は何が食べたいのかなぁ、」

余裕の笑みを見せつけてくる割に、吐く吐息はくぐもっている。気持ちいいだけの感覚に、一はしばらく身を震わせ続けた。香水と雄の匂いが混ざる佐々木の首筋に口付けると、御返しに、とでも言うように鎖骨を甘噛みしてくる。頭を撫でられるのは程よく優しく、中へと押し込まれる物は力強い。

「中がいい、外がいい?」

思考が停止している中、こんなふうに聞いてくる佐々木は狡い男だ。自分勝手のくせに、決して手放して来ない所も、全て、全てが。

「ああ、もう中に出しちゃったよ」

頬をべろりと舐め上げるその舌は、中で感じた物よりも生温い。目が合うと、それが合図のようにお互い舌を出して夢中に貪り合う。いつものことである。だらしなく開けた一の口の中に、佐々木は唾液を流し込んで唇を塞いだ。味も無い飲み物をおいしそうに飲み込み、一は恍惚に浸りながらも佐々木の表情を真正面から受け取る。

「これも、冗談…?」
「一君は冗談だって思うの?」
「よく分かんない…、って思う。」
「じゃあ分からないままでいいんじゃねーの」

前屈みになったまま一の制服で精液を拭い、佐々木はズボンのチャックを上げベルトを片手で器用に閉め直した。肩で息をする一を後部座席に残したまま車を出て行くと、何事も無かったかのように外で煙草をふかし、今度は運転席へと乗り込む。バックミラー越しに一を確認すると、佐々木は幸せそうに含み笑いをした。

「今日は街中でなにしてたの?」
「…なにしてたか、気になる?」
「別に、どうでもいいけど」
「佐々木さん、さっきの話の続き…」
「うん、なぁに」
「どういう関係なんだろうって、思う時もあって…こういうことしてる、から」
「一君こそ、よく分からないって言うくせにこういうことしてるじゃん。こういう話して何か意味ある?」
「意味はないけど…。」
「ふぅん。で、なに食べたいか決まった?」
「…ん、オムライス。」

上体を上げると、景色が後ろに流れている。止まっていた車は、いつの間にか走り出していた。
(言いたいのはそういうことじゃなくて、よく分からなくもなくて、大切だって言いたかったし聞きたかっただけなのに。)

「佐々木さんは誰かとこういうこと、したりするの?」
「女みてぇな重い話は好きじゃないし、さっき意味がないって言ったよね」
「言ったけど…」

開いた窓を閉めると、一は気だるそうにドアに寄り掛かる。

「佐々木さん、ネクタイとかしたりする…?」
「いつもしてる」
「え、見たことないよ」
「一君がちゃんと見てないだけでしょ、俺のこと」

ショップウィンドウに飾られたネクタイの値段を、もう少し詳しく見ておけば良かったと後悔した。火照る身体が冷めて行くのを待ちながら、一は佐々木としたセックスで頭がいっぱいだった。
拾った真っ黒な画のことなど、まるで記憶を喪失したかのように覚えていなかった。



end


Uncertainty(不確かさ)















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